裏切りの予告 2010年8月22日(日曜 朝の礼拝)

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裏切りの予告

日付
説教
村田寿和 牧師
聖書
ヨハネによる福音書 13章21節~30節

聖句のアイコン聖書の言葉

13:21 イエスはこう話し終えると、心を騒がせ、断言された。「はっきり言っておく。あなたがたのうちの一人がわたしを裏切ろうとしている。」
13:22 弟子たちは、だれについて言っておられるのか察しかねて、顔を見合わせた。
13:23 イエスのすぐ隣には、弟子たちの一人で、イエスの愛しておられた者が食事の席に着いていた。
13:24 シモン・ペトロはこの弟子に、だれについて言っておられるのかと尋ねるように合図した。
13:25 その弟子が、イエスの胸もとに寄りかかったまま、「主よ、それはだれのことですか」と言うと、
13:26 イエスは、「わたしがパン切れを浸して与えるのがその人だ」と答えられた。それから、パン切れを浸して取り、イスカリオテのシモンの子ユダにお与えになった。
13:27 ユダがパン切れを受け取ると、サタンが彼の中に入った。そこでイエスは、「しようとしていることを、今すぐ、しなさい」と彼に言われた。
13:28 座に着いていた者はだれも、なぜユダにこう言われたのか分からなかった。
13:29 ある者は、ユダが金入れを預かっていたので、「祭りに必要な物を買いなさい」とか、貧しい人に何か施すようにと、イエスが言われたのだと思っていた。
13:30 ユダはパン切れを受け取ると、すぐ出て行った。夜であった。ヨハネによる福音書 13章21節~30節

原稿のアイコンメッセージ

 今朝の御言葉において、イエスさまは心を騒がせ、断言されました。「はっきり言っておく。あなたがたのうちの一人がわたしを裏切ろうとしている」。私たちが以前学んだ第6章において、イエスさまが御自分を裏切る者がだれであるかを知っておられたこと、そしてそれが十二人の一人であるイスカリオテのシモンの子ユダであることが既に記されておりました。第6章63節、64節にこう記されています。「命を与えるのは霊である。肉は何の役にも立たない。わたしがあなたがたに話した言葉は霊であり、命である。しかし、あなたがたのうちには信じない者たちもいる。」イエスは最初から、信じない者たちがだれであるか、また、御自分を裏切る者がだれであるかを知っておられたのである。

 また、第6章70節、71節にはこう記されています。

 すると、イエスは言われた。「あなたがた十二人は、わたしが選んだのではないか。ところが、その中に一人は悪魔だ。」イスカリオテのシモンの子ユダのことを言われたのである。このユダは、十二人の一人でありながら、イエスを裏切ろうとしていた。

 イスカリオテのユダについては第12章にも記されておりました。マリアが純粋で非常に高価なナルドの香油一リトラを、イエスさまの足に塗り、自分の髪の毛でぬぐったとき、イスカリオテのユダがその行為を非難したことが記されています。第12章4節から6節までをお読みします。

 弟子の一人で、後にイエスを裏切るイスカリオテのユダが言った。「なぜ、この香油を三百デナリオンで売って、貧しい人々に施さなかったのか。」彼がこう言ったのは、貧しい人々のことを心にかけていたからではない。彼は盗人であって、金入れを預かっていながら、その中身をごまかしていたからである。

 今学んでおります第13章はイエスさまが十字架に上げられる前の夜に弟子たちと食事をされた、いわゆる最後の晩餐の場面でありますけども、その第13章2節に、「夕食のときであった。既に悪魔は、イスカリオテのシモンの子ユダに、イエスを裏切る考えを抱かせていた」と記されておりました。また、イエスさまは食事の席から立ち上がり、弟子たちの足を洗われたのでありますが、そこで「あなたがたは清いのだが、皆が清いわけではない」と言われました。11節には「イエスは、御自分を裏切ろうとしている者がだれであるかを知っておられた。それで、『皆が清いわけではない』と言われたのである」と記されています。さらにイエスさまは、18節、19節でこう言われております。「わたしはあなたがた皆について、こう言っているのではない。わたしは、どのような人々を選び出したか分かっている。しかし、『わたしのパンを食べている者が、わたしに逆らった』という聖書の言葉は実現しなければならない。事の起こる前に、今、言っておく。事が起こったとき、『わたしはある』ということを、あなたがたが信じるようになるためである」。

 前回は18節、19節についてお話ししませんでしたので、今朝はこの所を先ず取り扱いたいと思います。これまで第6章、第12章、第13章とイスカリオテのユダについての記述を見てきましたけども、ヨハネによる福音書が強調していることはイエスさまにとってイスカリオテのユダの裏切りは思いがけないことではなかったということであります。むしろ、イエスさまは御自分を裏切る者が誰であるかを知っておられたということです。イエスさまの側近の弟子である十二人から裏切り者が出たということは、初代教会にとって大きな衝撃であったと思います。イエスという男は、人を見る目がないと言われかねないことが起こったわけです。しかし、イエスさまは「わたしは、どのような人々を選び出したか分かっている。しかし、『わたしのパンを食べている者が、わたしに逆らった』という聖書の言葉は実現しなければならない。」と言われるのです。ここで引用されているのは旧約聖書の詩編第41編10節の御言葉であります。そこにはこう記されています。「わたしの信頼していた仲間/わたしのパンを食べる者が/威張ってわたしを足げにします」。この詩編の預言が実現するために、イエスさまはあえて逆らう者を弟子としたのです。「わたしのパンを食べている者」とありますが、まさにこの時イエスさまと弟子たちは食卓を共にしていた。イエスさまは食卓の主人として弟子たちにパンをふるまっていたのです。イスカリオテのユダの裏切りによって、文字通り「わたしのパンを食べている者が、わたしに逆らった」という聖書の御言葉はイエスさまの身に成就されるのです。イエスさまはこれまで十二弟子の中から裏切る者が出ることを仄めかしてきましたが、19節にはその目的が記されています。「事の起こる前に、今、言っておく。事が起こったとき、『わたしはある』ということを、あなたがたが信じるようになるためである」。

 「イエスという男は弟子の心も見抜くことができず、裏切られて十字架につけられてしまった。そのような男がメシアであるはずがない」。このような中傷がイエスさまに対して当時なされていたと思われます。しかし、先程も学びましたように、イエスさまが食卓を共にする親しい弟子から裏切られることは旧約聖書の成就であったわけです。また、イエスさまは弟子の中から裏切る者が出ることを前もって証言することによって、御自分が「わたしはある」と言われる神その方であることをお示しになるのであります(イザヤ46:10、43:10参照)。そして、今朝の御言葉において、イエスさまは心を騒がせ、このように証しされたのです。「はっきり言っておく。あなたがたのうちの一人がわたしを裏切ろうとしている」。イエスさまはこれまで仄めかしてきたことを、今はっきりと、そして厳かに証言されたのです。このイエスさまの爆弾発言を受けて、「弟子たちは、だれについて言っておられるのか察しかねて、顔を見合わせた」と記されています。この所から私たちはイスカリオテのユダが他の弟子たちにイエスさまを裏切るそぶりをまったく見せていなかったことが分かります。また同時に、イエスさまがイスカリオテのユダをも他の弟子たちと同じように愛されたことが分かるのです。イエスさまが弟子たちの足を洗われたことについてお話ししたときに、わたしはイエスさまがイスカリオテのユダの足をも洗われたはずだと申しました。イエスさまは御自分を裏切る考えを抱いていたイスカリオテのユダの足をも洗われたのです。ですから、弟子たちはイエスさまが「あなたがたのうちの一人がわたしを裏切ろうとしている」と言われたとき、それが誰のことを言っているのか分からなかったのであります。もし、ユダの足だけ洗わなかったならば、弟子たちはユダが怪しいと思ったかもしれません。しかし、イエスさまはすべての弟子の足を洗われたので、弟子たちは裏切り者が誰であるかが分からなかったのです。第13章1節に、「イエスは、この世から父のもとへ移る御自分の時が来たことを悟り、世にいる弟子たちを愛して、この上なく愛し抜かれた」とありましたけども、このイエスさまの愛からイスカリオテのユダは洩れてはいない。それゆえ、イエスさまは心を騒がせずにはおれないのです。

 当時のユダヤの食事は低いテーブルを囲んで、寝そべっていたしました。左肘をついて上半身を起こし、右手で食べ物を口に運んだのです。このときもそのように寝そべって食事をしていたようであります。イエスさまのすぐ隣りには、弟子たちの一人で、イエスの愛しておられた者が食事についておりました。この「イエスの愛しておられた弟子」が誰であるのかはっきりしたことは分かりません。伝統的にはこの福音書を記したゼベタイの子ヨハネと考えられております。福音書を記したヨハネが自分のことを述べるときに、「イエスの愛しておられた者」と書き表したと考えられているのです。しかし、はっきりとしたことは分かりませんので「イエスの愛しておられた弟子」を「愛弟子」と呼んでおきたいと思います。そのイエスさまの隣りにいた愛弟子に対して、シモン・ペトロは誰について言っておられるのか尋ねるよう合図しました。どうもペトロはこのときイエスさまの隣りにはおらず、少し離れていた所にいたようです。それで、身振り手振りで、いわばジェスチャーで、誰について言っておられるのかと尋ねるように合図したのです。

 25節、26節にこう記されています。「その弟子が、イエスの胸もとに寄りかかったまま、『主よ、それはだれのことですか』と言うと、イエスは、『わたしがパン切れを浸して与えるのがその人だ』と答えられた。それから、パン切れを浸して取り、イスカリオテのシモンの子ユダにお与えになった」。

 愛弟子がイエスさまの胸もとに寄りかかったことから、この時愛弟子はイエスさまの右隣にいたことが分かります。23節に「イエスのすぐ隣りには、弟子たちの一人で、イエスの愛しておられた者が食事の席に着いていた」とありますけども、ここで「イエスのすぐ隣りには」と訳されている言葉は直訳すると「イエスの胸には」、「イエスの懐には」となります。第1章18節に、「いまだかつて、神を見た者はいない。父のふところにいる独り子である神、この方が神を示されたのである」とありましたけども、愛弟子はまさにイエスさまのふところにいたわけです。それゆえ、この愛弟子は十二人の誰かに特定されない理想的な弟子を表す象徴的な人物ではないかとも考えられているのです。

 愛弟子がイエスさまの胸に寄りかかったまま、「主よ、それはだれのことですか」と尋ねますと、イエスさまは「わたしがパン切れを浸して与えるのがその人だ」と答えられました。食卓の主人は特別な客に好意を表すためにこのように行ったと言われています。食卓の主人自らがパン切れを浸して与えることは好意のしるしであったのです。イエスさまはそのパン切れをイスカリオテのユダにお与えになるのでありますが、この所からイエスさまの左隣にはイスカリオテのユダがいたのではないかと考えられているのです。マルコによる福音書第10章に、ゼベタイの子ヤコブとヨハネが進み出て、イエスさまが栄光を受けるとき、一人をあなたの右に、もう一人にあなたの左に座らせてもらいたい」と願い出たことが記されています。このことからも分かりますように、イエスさまの両隣は特別な意味を持っておりました。そして、このような食事の席での第一の席は左隣であったと言われています。そして、その左隣にイスカリオテのユダが座っていたと考えるのです。私たちはイスカリオテのユダがイエスさまを裏切ったことを聞くと、なぜユダは裏切ったのだろうかと不思議に思います。イエスさまの愛が他の弟子たちに比べて少なく注がれたからではないかとさえ考えます。けれども、そうではないのです。イスカリオテのユダはイエスさまの左隣に座を占める、イエスさまから寵愛された弟子であったのです。わたしは先程、「パン切れをひたして与える」のは好意のしるしであると申しました。ある人は、イエスさまが普段からこのようにしていたのではないかと推測しています。つまり、イエスさまがパン切れを浸してイスカリオテのユダに与えたことは初めてではなくて、いつものことであったということです。それゆえ、他の弟子たちは、そこに特別な意味を読み取ることができなかったと言うのです。イエスさまの左隣に座り、イエスさまから好意のしるしとしてパン切れを受け取ったユダは、そのパン切れをどのような気持ちで受け取ったのでしょうか。聖書はそのことを記しておりません。聖書が記しておりますことは、「ユダがパン切れを受け取ると、サタンが彼の中に入った」ということであります。2節に「夕食のときであった。既に悪魔は、イスカリオテのシモンの子ユダに、イエスを裏切る考えを抱かせていた」とありましたけども、ユダはイエスさまからパンを受け取ることによって、すなわちイエスさまの愛を拒否する心でパンを受け取ることによって、サタンに身を委ねてしまうのです。

 27節に、「ユダがパン切れを受け取ると、サタンが彼の中に入った。そこでイエスは、『しようとしていることを、今すぐ、しなさい』と彼に言われた」と記されています。このイエスさまの御言葉は、ユダに言われたのと同時にサタンに言われた言葉でもあります。この所は旧約聖書のヨブ記第1章を思い起こさせます。その所を読むとサタンも主の御許しがあって初めて活動できることが分かります。神さまの許しがあって、サタンは初めてヨブに危害を加えることができるわけです。そこで、神さまがサタンに言われる言葉も、イエスさまと同じような言葉なのですね。第1章12節、「主はサタンに言われた。『それでは、彼のものを一切、お前のいいようにしてみるがよい。ただし彼には、手を出すな」。第2章6節、「主はサタンに言われた。『それでは、彼をお前のいいようにするがよい。ただし、命だけは奪うな」。それゆえ、イエスさまの「しようとしていることを、今すぐ、しなさい」という御言葉はサタンがユダを通して働かれることを許された御言葉であると読むことができるのです。イエスさまはイスカリオテのユダを愛して、この上なく愛し抜かれました。僕となってユダの足を洗い、御自分の隣に座らせ、パンを浸して与えることによって特別な好意を示されました。しかし、ユダがそのイエスさまの愛を拒絶し、サタンの虜となったとき、すなわち、イエスさまを引き渡すという考えを実行に移そうとしたとき、イエスさまはユダの意志を尊重された、ユダの意志に任されたのです。そして、イエスさまにはこのユダこそ、「わたしのパンを食べている者が、わたしに逆らった」という聖書の御言葉を実現する者であることが分かっていたがゆえに、「今すぐしなさい」「はやくしなさい」と促されたのです。イエスさまは、一番愛していなかった弟子に裏切られるのではないのですね。イエスさまは一番愛していた弟子に裏切られる。イエスさまは愛する者から裏切られるそのつらさをよく知っておられるということであります。

 28節に、「座についていた者はだれも、なぜユダにこう言われたのか分からなかった」とありますから、26節の愛弟子とイエスさまとの会話は他の弟子たちにはどうやら聞こえなかったようです。他の弟子たちは、イエスさまがユダに対する、「しようとしていることを、今すぐ、しなさい」という言葉だけを聞いたのです。それゆえ、「ある者は、ユダが金入れを預かっていたので、『祭りに必要な物を買いなさい』とか、貧しい人に何か施すようにと、イエスが言われたのだと思っていた」のです。弟子たちが最後まで裏切る者が誰であるかが分からなかったことは、イエスさまのイスカリオテのユダへの愛が最後まで変わらなかったことを示しています。ユダはパン切れを受け取ると、すぐに出て行きました。そして福音書記者ヨハネはここでわざわざ「夜であった」と記すのです。この「夜であった」という言葉は象徴的な意味を持っています。イエスさまの食卓に預かっていた、イエスさまとの愛の交わり、光の交わりの中にいたユダが闇の支配へと自ら出て行ったということであります。

 私たちは前回、互いに足を洗い合う交わり、互いに愛をもって仕え合う交わりが教会であることを学びました。けれども、その教会の交わりの中から主イエスを裏切る者が出てくる。主イエスの愛を拒み、この世の支配者であるサタンに自らをゆだねてしまう者が出てくることをユダの物語は私たちに教えているのであります。聖餐の恵みにあずかっている者の中からイエスさまに逆らい、教会の交わりからを去って行く者が出てくる。そのような可能性、そのような危機を教会は初めから含み持っているということであります。ですから、使徒パウロはコリントの信徒への手紙一の第11章で聖餐の恵みにあずかるに当たって、「だれでも、自分をよく確かめたうえで、そのパンを食べ、その杯から飲むべきです」と警告したのであります。私たちが月に一度、聖餐式においてあずかるそのパンはイエスさまの私たちに対する愛のしるしであります。そのパンを私たちはどのようにして受け取るのか。そのパンを喜びと感謝をもって、これがわたしのために裂かれたキリストの体、そのような感謝をもって受けるのでなければ、サタンに付け入る隙を与えることになるのです。そのようなことがないように、私たちに注がれている主イエス・キリストの愛にしっかりと目を向けて歩んで参りたいと願います。

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