イエスの模範 2010年8月15日(日曜 朝の礼拝)
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イエスの模範
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- 村田寿和 牧師
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ヨハネによる福音書 13章12節~20節
聖書の言葉
13:12 さて、イエスは、弟子たちの足を洗ってしまうと、上着を着て、再び席に着いて言われた。「わたしがあなたがたにしたことが分かるか。
13:13 あなたがたは、わたしを『先生』とか『主』とか呼ぶ。そのように言うのは正しい。わたしはそうである。
13:14 ところで、主であり、師であるわたしがあなたがたの足を洗ったのだから、あなたがたも互いに足を洗い合わなければならない。
13:15 わたしがあなたがたにしたとおりに、あなたがたもするようにと、模範を示したのである。
13:16 はっきり言っておく。僕は主人にまさらず、遣わされた者は遣わした者にまさりはしない。
13:17 このことが分かり、そのとおりに実行するなら、幸いである。
13:18 わたしは、あなたがた皆について、こう言っているのではない。わたしは、どのような人々を選び出したか分かっている。しかし、『わたしのパンを食べている者が、わたしに逆らった』という聖書の言葉は実現しなければならない。
13:19 事の起こる前に、今、言っておく。事が起こったとき、『わたしはある』ということを、あなたがたが信じるようになるためである。
13:20 はっきり言っておく。わたしの遣わす者を受け入れる人は、わたしを受け入れ、わたしを受け入れる人は、わたしをお遣わしになった方を受け入れるのである。」ヨハネによる福音書 13章12節~20節
メッセージ
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ヨハネによる福音書の第13章は、イエスさまが弟子たちの足を洗ったこと、いわゆる洗足について記しています。福音書記者ヨハネは、イエスさまが十字架に上げられる前夜に弟子たちの足を洗ったことを記しているのです。当時、足を洗うことは奴隷の仕事でありました。それもユダヤ人の奴隷はしない、異邦人の奴隷だけがした卑しい仕事であったのです。そのような足を洗うという奉仕を、イエスさまは突然食事の席から立ち上がり、弟子たちにしたのです。3節から5節にこう記されていました。「イエスは、父がすべてを御自分の手にゆだねられたこと、また、御自分が神のもとから来て、神のもとに帰ろうとしていることを悟り、食事の席から立ち上がって上着を脱ぎ、手ぬぐいを取って腰にまとわれた。それから、たらいに水をくんで弟子たちの足を洗い、腰にまとった手ぬぐいでふき始められた」。ここに描かれているイエスさまのお姿はまさに当時の僕の姿であります。イエスさまは弟子たちの僕となって、その足を洗い、ふき始められたのです。そして、イエスさまが弟子たちの足を洗うという行為には、ある秘められた意味があったのです。それがシモン・ペトロとのやり取りで明らかとされていきます。ペトロが「主よ、あなたがわたしの足を洗ってくださるのですか」と言いますと、イエスさまは「わたしのしていることは、今あなたに分かるまいが、後で分かるようになる」と言われました。この「後で分かるようになる」とは、イエスさまが栄光を受け、聖霊が与えられた時のことであります(2:22、12:16、14:26)。イエスさまの洗足には今分からない、イエスさまが栄光を受けたときになって初めて分かる深い意味があるのです。また、ペトロが「わたしの足など、決して洗わないでください」と言うと、イエスさまは「もしわたしが洗わないなら、あなたはわたしと何の関わりもないことになる」と言われました。イエスさまの洗足はイエスさまと弟子たちとを決定的に結びつけるものを意味しているのです。さらに、ペトロが「主よ、足だけでなく、手も頭も」と言うと、イエスさまは「既に体を洗った者は、全身が清いのだから、足だけ洗えばよい。あなたがたは清いのだが、皆が清いわけではない」と言われました。ある有力な写本には「足だけ洗えばよい」という言葉が記されておりません。そして、現在多くの学者が「足だけ洗えばよい」という言葉は後から付け加えられたのではないかと考えております。そうしますと、イエスさまはここで「既に体を洗った者は、全身が清い」と言われたことになるわけです。イエスさまの洗足は私たちの全身を清めるものであるのです。
このペトロとイエスさまとのやりとりから、また、イエスさまが弟子たちの足を洗い始めたのが、「父がすべてを御自分の手にゆだねられたこと、また、御自分が神のもとから来て、神のもとに帰ろうとしていることを悟り」とあることから、さらには、4節の「上着を脱ぎ」の「脱ぎ」と訳されている言葉が第10章の「命を捨てる」の「捨てる」と同じ言葉であること、「手ぬぐいを取って」の「取って」と訳されている言葉が第10章の「命を受ける」の「受ける」と同じ言葉であることから、イエスさまの洗足は十字架の死を指し示すものであったのです。ヨハネの手紙一に、「御子イエスの血によってあらゆる罪から清められます」とありますけども、イエスさまの十字架を受け入れる者はこれまでの罪ばかりでなく、これから犯すであろう罪からも清められるのです。
先程、わたしは10節の「足だけ洗えばよい」という言葉が有力な写本にないことから、後で付け加えられたのではないかと申しましたが、その理由を考えることも大切ではないかと思います。「既に体を洗った者は、全身が清い」。このイエスさまの御言葉は読む者に洗礼を思い起こさせます。イエスさまの御名によって洗礼を受けた者は全身が清い、すべての罪から清められていると読むことができます。確かにそうなのですけども、しかし、困ったことにもはや自分には罪がないと主張する者たちがでてきたのです。そのことはヨハネの手紙一を読むとよく分かります。ヨハネの手紙一の第1章5節から9節までをお読みします。
わたしたちがイエスから既に聞いていて、あなたがたに伝える知らせとは、神は光であり、神には闇が全くないということです。わたしたちが、神との交わりを持っていると言いながら、闇の中を歩むなら、それはうそをついているのであり、真理を行ってはいません。しかし、神が光の中におられるように、わたしたちが光の中を歩むなら、互いに交わりを持ち、御子イエスの血によってあらゆる罪から清められます。自分に罪がないと言うなら、自らを欺いており、真理はわたしたちの内にありません。自分の罪を公に言い表すなら、神は真実で正しい方ですから、罪を赦し、あらゆる不義からわたしたちを清めてくださいます。
ヨハネの教会において、自分に罪がないと主張する者たちがいました。しかし、ヨハネはそのような者は自らを欺いており、そのような者に真理はないと語るのです。そして、むしろ自分の罪を公に言い表すとき、神の真実にあずかることができる。罪の赦しとあらゆる不義からの清めにあずかることができると語るのです。そして、ここに「既に体を洗った者は、全身が清い」というイエスさまの御言葉に、「足だけ洗えばよい」という言葉が付け加えられた背景があると考えられるのです。すなわち、足を洗うとは、日々、イエスの御名によって罪を告白することを意味しているのです。
イエスさまの洗足はイエスさまの十字架を意味するものでありました。そして、イエスさまの十字架は御自分の民に対するイエスさまの愛を示すものであります。ですから、ヨハネは第13章1節で、「イエスは、この世から父のもとへ移る御自分の時が来たことを悟り、世にいる弟子たちを愛して、この上なく愛し抜かれた」と記していたのです。イエスさまの洗足は奴隷の仕事、それもユダヤ人の奴隷であればしない卑しい仕事でありましたから、謙遜の奉仕であるということができます。しかし、同時にイエスさまの洗足は弟子たちに対する愛の奉仕でもあったのです。足を洗ったのは異邦人の奴隷だけではありません。妻も愛する夫の足を洗ったのです。それゆえ、イエスさまの洗足は十字架を指し示す謙遜と愛の奉仕であったのです。
ここまでは前々回お話ししたことでもありますが、今朝は12節以下を見ていきたいと思います。
イエスさまは、弟子たちの足を洗ってしまうと、上着を着て、再び席についてこう言われました。「わたしがあなたがたにしたことが分かるか。あなたがたは、わたしを『先生』とか『主』とか呼ぶ。そのように言うのは正しい。わたしはそうである。ところで、主であり、師であるわたしがあなたがたの足を洗ったのだから、あなたがたも互いに足を洗い合わなければならない。わたしがあなたがたにしたとおりに、あなたがたもするようにと、模範を示したのである。はっきり言っておく。僕は主人にまさらず、遣わされた者は遣わした者にまさりはしない。このことが分かり、そのとおりに実行するなら、幸いである」。
ここでイエスさまは弟子たちに「わたしがあなたがにしたことが分かるか」と問われております。イエスさまは7節で「わたしのしていることは、今あなたには分かるまいが、後で、分かるようになる」と言われましたが、イエスさまの洗足には今分かる意味と、後でないと分からない深い意味とがあるのです。今朝の御言葉は今分かる意味、すなわちイエスさまの洗足は弟子たちへの模範としての意味を持つことを教えているのです。
イエスさまは、「あなたがたは、わたしを『先生』とか『主』とか呼ぶ。そのように言うのは正しい。わたしはそうである」と御自分の立場を明確にしておられます。ペトロは「主よ、あなたがわたしの足を洗ってくださるのですか」と言ったのでありますが、イエスさまは御自分が主であり、師であることを弁えた上で、弟子たちの足を洗わされたのです。そこにはイエスさまのある意図がありました。それが14節、15節であります。「ところで、主であり、師であるわたしがあなたがたの足を洗ったのだから、あなたがたも互いに足を洗い合わなければならない。わたしがあなたがたにしたとおりに、あなたがたもするようにと、模範を示したのである」。14節の後半に、「あなたがたも互いに足を洗い合わなければならない」とありますが、この「何々せねばならない」と訳されている言葉は「何々する義務がある」、「何々する負い目がある」とも訳すことができます。主であり、師であるイエスさまに足を洗っていただいた弟子たちには、互いに足を洗い合う負い目、義務があるのです。キリスト教会の歴史において、このことを文字通り行ういわゆる洗足の儀式が行われました。キリスト教国の王様が、あらかじめ12人の貧しい人を国民の中から選んでおいて受難週の木曜日にその人たちの足を洗うということをしたのです。また、教会によっては今も洗足の儀式を行っています。しかし、イエスさまがここで私たちに文字通り互いに足を洗うことを命じられたのではないことは明かであります。年に一度、受難週の木曜日に貧しい者の足を洗うということでイエスさまに対する義務を果たしたことにはならないのです。それでは、「互いに足を洗い合う」とは一体どのようなことを意味しているのでしょうか。それを理解するために、私たちはイエスさまの洗足が十字架を指し示すものであったことをもう一度思い起こす必要があります。わたしはこの説教のはじめに長々と前々回の説教でお話ししたことを繰り返したのでありますけども、それはイエスさまが後で分かるようになると言われた洗足の意味が分からないと、今分かると言われる洗足の意味、すなわち模範としての意味も本当の所は分からないと考えたからです。イエスさまの洗足が十字架を指し示す謙遜と愛の業であることが分かったとき、私たちは互いに足を洗い合うということが互いに自分を低くして愛し合うことを意味することが分かるのです。また、イエスさまの洗足が、十字架の死と復活の主であるイエスさまの御名によって洗礼を受けることをも意味することが分かるとき、私たちもイエスさまによって足を洗っていただいた者たちであることが分かるのです。私たちは直接、イエスさまから足を洗っていただいたことはありません。けれども、イエスさまの洗足が十字架を指し示し、さらにはイエスの御名による洗礼をも指し示すことを知るとき、私たちも自分がイエスさまによって足を洗っていただいた者たちであると言えるのです。
「模範」とは「見ならうべき手本」でありますが、それは私たちの自由にまかされているのではありません。なぜなら、私たちは主であり師であるイエスさまによって足を洗っていただいたからです。イエスさまは「はっきり言っておく」と訳されている「アーメン、アーメン、わたしは言う」という言葉をもってこう言われます。「僕は主人にまさらず、遣わされた者は遣わした者にまさりはしない。このことが分かり、そのとおりに実行するなら、幸いである」。ここでの「僕」と「遣わされた者」は弟子たちを指しています。他方、「主人」と「遣わした者」はイエスさまを指しております。また「まさる」と訳されている言葉は「より大きい」「より偉大である」と言う意味です。僕は主人よりも偉大でななく、遣わされた者は遣わした者より偉大ではない。そのことは分かりきったことです。けれども、イエスさまによって足を洗っていただいた私たちが互いに足を洗い合わないのであれば、その分かりきったことを実行していないことになるのです。そして、頭で分かっているだけで実行しないならば、イエスさまが言われる幸いにあずかることはできないのです。ここで「幸いである」と訳されている言葉は、マタイによる福音書の山上の説教の冒頭において、イエスさまが言われる「幸い」と同じ言葉であります。イエスさまは、「幸いなるかな、このことが分かり、そのとおりに実行している人は」と言われたのです。そして、ここに私たちの教会のあるべき姿があるのです。教会の交わりは、主にある兄弟姉妹の交わりです。ここに集う私たちは誰も十字架と復活の主であるイエスさまの御名によって洗礼を受けることにより、足を洗っていただいた者たちであります。そうであれば、私たちの交わりは互いに足を洗い合う交わりとなるはずです。互いに愛をもって仕え合う交わりとなるはずです。そして、そのような交わりを私たちがこの地上にあって形成するとき、私たちは主イエス・キリストの幸いに生きることができるのです。それがキリスト教会の幸いなのであります。僕が主人よりも偉くなろうとする世にあって、僕が主人より小さなものであることを弁えて、主人の模範に倣うこと。そこに私たちの幸い、天の祝福によって与えられる幸いがあるのです。なぜなら、そのような交わりこそ、弟子たちの足を洗うイエスさまのお姿を映し出すものであるからです。イエスさまが僕となり、愛をもってあなたの足を洗ってくださいました。そのことをイエスさまの弟子であり、僕である私たちの交わりにおいて確認し、世に証ししていくことが求められているのです。ですから、イエスさまは20節でこう言われたのです。「はっきり言っておく。わたしの遣わす者を受けれる人は、わたしを受け入れ、わたしを受け入れる人は、わたしをお遣わしになった方を受け入れるのである」。イエスさまから遣わされた私たちの交わりが互いに足を洗い合う交わりでなくて、教会にはじめて来た人が、どうしてイエスさまが自分の足をも洗ってくださったことを知ることができるでしょうか。私たちは主であり、師であるイエスさまに足を洗っていただいた者たちとして互いに愛をもって仕え合いたいと願います。