弟子の足を洗うイエス 2010年8月01日(日曜 朝の礼拝)

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弟子の足を洗うイエス

日付
説教
村田寿和 牧師
聖書
ヨハネによる福音書 13章1節~20節

聖句のアイコン聖書の言葉

13:1 さて、過越祭の前のことである。イエスは、この世から父のもとへ移る御自分の時が来たことを悟り、世にいる弟子たちを愛して、この上なく愛し抜かれた。
13:2 夕食のときであった。既に悪魔は、イスカリオテのシモンの子ユダに、イエスを裏切る考えを抱かせていた。
13:3 イエスは、父がすべてを御自分の手にゆだねられたこと、また、御自分が神のもとから来て、神のもとに帰ろうとしていることを悟り、
13:4 食事の席から立ち上がって上着を脱ぎ、手ぬぐいを取って腰にまとわれた。
13:5 それから、たらいに水をくんで弟子たちの足を洗い、腰にまとった手ぬぐいでふき始められた。
13:6 シモン・ペトロのところに来ると、ペトロは、「主よ、あなたがわたしの足を洗ってくださるのですか」と言った。
13:7 イエスは答えて、「わたしのしていることは、今あなたには分かるまいが、後で、分かるようになる」と言われた。
13:8 ペトロが、「わたしの足など、決して洗わないでください」と言うと、イエスは、「もしわたしがあなたを洗わないなら、あなたはわたしと何のかかわりもないことになる」と答えられた。
13:9 そこでシモン・ペトロが言った。「主よ、足だけでなく、手も頭も。」
13:10 イエスは言われた。「既に体を洗った者は、全身清いのだから、足だけ洗えばよい。あなたがたは清いのだが、皆が清いわけではない。」
13:11 イエスは、御自分を裏切ろうとしている者がだれであるかを知っておられた。それで、「皆が清いわけではない」と言われたのである。ヨハネによる福音書 13章1節~20節

原稿のアイコンメッセージ

 今朝からヨハネによる福音書の第13章に入ります。第13章から第17章までは大きなまとまりで、ここにはイエスさまの告別説教が記されています。過越祭の前の晩餐の席におけるイエスさまと弟子たちとの語らいの場面が第13章から第17章までに長々と記されているのです。マタイ、マルコ、ルカのいわゆる共観福音書においてイエスさまが弟子たちに教えられたのは過越祭当日でした。イエスさまは過越の食事を弟子たちと共にされながら、主の晩餐を制定し、教えられたのです。けれども、福音書記者ヨハネは、イエスさまが弟子たちと最後の食事をされたのは過越祭の前のことであったと記すのです。第18章28節にこのように記されています。「人々は、イエスをカイアファのところから総督官邸に連れて行った。明け方であった。しかし、彼らは自分では官邸に入らなかった。汚れないで過越の食事をするためである」。ここには、イエスさまを訴えるユダヤ人たちが、汚れないで過越の食事をするために総督官邸に入らなかったことが記されています。この所からも第13章から第17章までの場面設定である夕食が、過越祭の前、過越の食事の前日の夕食であったことを確認することができます。なぜ、福音書記者ヨハネは、イエスさまと弟子たちとの最後の食事を過越の祭りの前の日としたのでしょうか。歴史としてそうであったからかも知れませんが、そこには福音書記者ヨハネの神学的な主張があるのです。第19章36節に、「これらのことが起こったのは、『その骨は一つも砕かれない』という聖書の言葉が実現するためであった」と記されています。イエスさまが十字架につけられた日は、準備の日で、翌日は特別の安息日であったので、ユダヤ人たちは安息日に遺体を十字架の上に残しておかないために、足を折って取り降ろすように、ピラトに願い出ました。そこで、兵士たちが来て、イエスさまと一緒に十字架につけられた二人の男の足を折りました。けれども、イエスさまのところに来てみると、既に死んでおられたので、足を折らなかったというのです。そのことを福音書記者ヨハネは、「その骨は一つも砕かれない」という聖書の御言葉の成就であると語るのです。この御言葉がどこに記されているのかと申しますと、旧約聖書の出エジプト記第12章46節であります。出エジプト記第12章には、「主の過越の規定」が記されておりますけども、その46節にこう記されています。「一匹の羊は一軒の家で食べ、肉の一部でも家から持ち出してはならない。また、その骨を折ってはならない」。福音書記者ヨハネは、十字架につけられたイエスさまの足が折られなかったのは、この出エジプト記の御言葉の成就であると語ることによって、イエスさまが過越の小羊として屠られたことを主張しているのです。そして事実、ヨハネによる福音書によれば、過越の食事のために小羊が屠られるのと同じ時間に、イエスさまは十字架の上で息を引き取られるのです。洗礼者ヨハネは、イエスさまを指差して「見よ、世の罪を取り除く神の小羊だ」と語りましたけども、イエスさまはまさしく世の罪を取り除く神の小羊として十字架の上に屠られるのです。

 今朝の御言葉の第13章1節に「さて、過越祭の前のことである。イエスは、この世から父のもとへ移る御自分の時が来たことを悟り、世にいる弟子たちを愛して、この上なく愛し抜かれた」と記されています。この1節の御言葉は、第13章から第17章までの序言であると言われています。第13章から第17章までに記されているイエスさまの告別説教を読むとき、いつも1節を背景として読むべきであるということであります。「イエスは、この世から父のもとへ移る御自分の時が来たことを悟り」とありますが、これは具体的には十字架の死と復活と昇天を指しています。イエスさまはいよいよ御自分が十字架に上げられること、さらには死から上げられ、天へと上げられることを悟られて、世にいる弟子たちを愛して、この上なく愛し抜かれたのです。私たちが用いている新共同訳聖書は「世にいる弟子たちを愛して」と訳していますが、口語訳聖書は「世にいる自分の者たちを愛して」と訳しています。口語訳聖書の方が元の言葉に近いのです。また新共同訳聖書は「この上なく愛し抜かれた」と訳していますが、口語訳聖書は「彼らを最後まで愛し通された」と訳しています。こちらも口語訳聖書の方が元の言葉に近いのです。ここで「最後」(テロス)と訳されている言葉の動詞形が、十字架に上げられたイエスさまの口から語られたことを福音書記者ヨハネは記しております。それが第19章30節の「成し遂げられた」(テテレスタイ)という言葉です。イエスさまが世にいる御自分の者たちを愛して、最後まで愛し抜かれたと言う時、それは十字架の死に至るまでであったと福音書記者ヨハネは記しているのです。それゆえ、イエスさまが世にいる御自分の者たちを最後まで愛し通されたことは、極限まで愛し抜かれたことをも意味しているのです。ですから、新共同訳聖書は「この上なく愛し抜かれた」と翻訳しているわけです。そして、このイエスさまのこの上ない愛が、今朝の御言葉に描かれている弟子たちの足を洗うという行為によっても現されているのです。「世にいる弟子たちを愛して、この上なく愛し抜かれた」。ここには「愛する」という言葉が重ねて記されていますけども、それはイエスさまの私たちに対する変わらぬ愛を教えるものです。イエスさまの極限の愛は十字架によって示されるのでありますけども、それはイエスさまが世にいる御自分の者たちを愛しておられたことの帰結でありました。十字架に上げられるときだけ、あるいはその少し前に御自分の者たちを愛されたというのではなくて、イエスさまの全生涯が世にいる弟子たちへの愛に貫かれていたということであります。そして、そのことは今朝の御言葉に記されているイエスさまが弟子たちの足を洗われたことにおいても言えるのです。イエスさまの時代、ユダヤ人は靴ではなく、サンダル、草履を履いておりました。また、道はアスファルトではなく、土あるいは砂ですから、当然、足は汚れるわけです。その汚れた足のまま弟子たちは夕食の席についていたようであります。夕食の席についていたと言っても、当時は寝そべって片肘を着いて食事を取りました。その食事の最中に、イエスさまは立ち上がって上着を脱ぎ、手ぬぐいを取って腰にまとわれた。それから、たらいに水をくんで弟子たちの足を洗い、腰にまとった手ぬぐいでふき始められたのです。人の足を洗うことは、当時、奴隷の仕事でありました。それも、ユダヤ人の奴隷はしなかった。異邦人の奴隷だけがしたと言われる卑しい仕事でありました。それをイエスさまが弟子たちに対してなされたのです。弟子たちは驚いたのではないでしょうか。驚きながら、ただ主イエスのなされるままに身を任せておられた。しかし、シモン・ペトロのところに来ると、ペトロは弟子たちを代表するかのようにこう言います。「主よ、あなたがわたしの足を洗ってくださるのですか」。ペトロはイエスさまを「主よ」と呼びかけました。イエスさまは主人であって、弟子たちこそ僕であるのです。それゆえ、ペトロは主であるあなたが、僕であるわたしの足を洗ってくださるのですか」と言ったのです。それに対してイエスさまは、「わたしのしていることは、今あなたには分かるまいが、後で、分かるようになる」と言われました。イエスさまが弟子たちの足を洗われる行為には、イエスさまが復活された後になって初めて分かる深い意味が込められていると言うのです。しかし、それでもペトロは、「わたしの足など、決して洗わないでください」と言いました。かつてペトロは弟子たちを代表して、イエスさまに対して、「主よ、わたしたちはだれのところへ行きましょうか。あなたは永遠の命の言葉を持っておられます。あなたこそ神の聖者であると、わたしたちは信じ、知っています」と言い表したことがあります(6:68、69)。そのイエスさまに、自分の汚れた足を洗っていただくことにペトロは耐えられなかったのです。

 第12章12節以下に、イエスさまがエルサレムの大勢の群衆によってイスラエルの王として歓迎されたことが記されていました。エルサレムのユダヤ人たちは、イエスさまを軍事力によってローマ帝国の支配から解放してくれる王として迎え出たのです。では、弟子たちはどうだったのでしょうか。イエスさまをどのような王として受け入れていたのでしょうか。おそらく、エルサレムのユダヤ人たちとあまり変わらなかったのではないかと思います。ルカによる福音書を見ますと、最後の晩餐の席において、「使徒たちの間に、自分たちのうちでだれがいちばん偉いだろうか、という議論も起こった」と記されています。また、マルコによる福音書、マタイによる福音書には、エルサレム入城に先立って、ヤコブとヨハネが進み出て、イエスさまに「栄光をお受けになるとき、わたしどもの一人をあなたの右に、もう一人を左に座らせてください」と願い出たこと、さらには他の十人の者がこれを聞いて、ヤコブとヨハネのことで腹を立て始めたことが記されています。弟子たちもイエスさまがエルサレムにおいて王として君臨されると考えていたわけです。しかし、イエスさまが弟子たちにされたことはそのような弟子たちの期待とは全く逆のことであったのです。こともあろうに、主イエスさまはユダヤ人なら奴隷もしない卑しい奉仕を自分たちに対してなされたのです。それゆえ、ペトロは、「わたしの足など、決して洗わないでください」と言ったのです。それは主であるあなたにふさわしいことではないとペトロは主イエスに抗議をしたのです。この時のペトロの気持ちは、マタイによる福音書第16章で、イエスさまをいさめた気持ちに通じるものがあると思います。イエスさまは、「あなたはメシア、生ける神の子です」とのペトロの信仰告白を受けたときから、御自分の死と復活を予告し始めるのですが、その時ペトロはイエスさまをわきへお連れして、こういさめ始めるのです。「主よ、とんでもないことです。そんなことがあってはなりません」。メシアであり、生ける神の子であるイエスさまが、多くの苦しみを受けて殺されるようなことがあってはならない。こうペトロは考えてイエスさまをいさめたわけです。それと同じように、主であるイエスさまが、私たちの足を洗うなどという卑しいことをしてはなりませんとペトロは言ったのです。それに対してイエスさまはこう答えられました。「もしわたしがあなたを洗わないなら、あなたはわたしと何のかかわりもないことになる」。ここで「何のかかわりもないことになる」と訳されている言葉を元の言葉から直訳すると「何の分け前も持たないことになる」となります。イエスさまから足を洗っていただかなければ、その人はイエスさまの分け前にあずかることができない。それほどイエスさまが弟子たちの足を洗うという奉仕は大切な意味を持っていると言うのです。では、イエスさまがペトロに、「わたしのしていることは、今あなたに分かるまいが、後で、分かるようになる」と言われ、また「もしわたしがあなたを洗わないなら、あなたはわたしと何のかかわりもないことになる」と言われた奉仕は何を意味しているのでしょうか。それを知る手がかりが4節にあります。「食事の席から立ち上がって上着を脱ぎ、手ぬぐいを取って腰にまとわれた」。ここで「脱ぎ」と訳されている言葉は、第10章でイエスさまが命を捨てると言われた「捨てる」と訳されている言葉と同じ言葉が用いられています。また、手ぬぐいを取っての「取って」と訳されている言葉は、同じく第10章で命を受けると言われた「受ける」と訳されている言葉と同じ言葉が用いられているのです。すなわち、弟子の足を洗うというイエスさまの行為は、十字架の死を指し示す象徴的な行為であるのです。それゆえ、もしイエスさまから足を洗っていただかないなら、その人はイエスさまと何のかかわりのない者となってしまうのです。しかし、ペトロには今はまだそのことが分かりませんから、イエスさまの御言葉を受けてあわてて「主よ、足だけではなく、手も頭も洗ってください」と言い出すのです。それに対してイエスさまはこう言われました。「既に体を洗った者は、全身清いのだから、足だけ洗えばよい。あなたがたは清いのだが、皆が清いわけではない」。この所は解釈が難しい所であります。このイエスさまの御言葉を、当時のユダヤ人たちが夕食に招かれる前に沐浴したことから説明する人もおります。弟子たちは夕食の前にすでに沐浴していたので、足だけ洗えばよいとイエスさまは答えられたと言うのです。しかし、わたしはこのイエスさまの御言葉にはもっと深い意味が込められていると思うのです。イエスさまが、「既に体を洗った者は、全身清いのだから、足だけ洗えばよい」と言われるとき、そこで言われていることは十字架につけられたイエス・キリストを信じて受ける洗礼ではないかと思います。第3章22節に「その後、イエスは弟子たちとユダヤ地方に行って、そこに一緒に滞在し、洗礼を授けておられた」と記されていました。また、第4章1節、2節には「さて、イエスがヨハネよりも多くの弟子をつくり、洗礼を授けておられることが、ファリサイ派の人々の耳に入った。イエスはそれを知ると、-洗礼を授けていたのは、イエス御自身ではなく、弟子たちである」と記されていました。これはイエスさまの時代というよりも、この福音書が執筆された福音書記者ヨハネの時代のことが反映されているのかも知れませんけども、イエスさまの十字架に神の独り子の栄光を見、イエスの御名によって洗礼を受けた者は、全身が清いのです。そもそも、イエスさまが弟子たちの足を洗われることによって清められるのは、土や砂の埃ではなく、罪の汚れからでありました。ですから、人は十字架によって罪の贖いを成し遂げられたイエスさまの御名によって洗礼を受け、洗礼を受けてからもイエスさまの御名によって罪を告白しなくてはならないのです。日々、イエスさまの御名によって罪を告白すること、それをイエスさまはここで「足だけ洗えばよい」と言われているのです。このように今朝の御言葉を読んでいきますと、そこで扱われているテーマが変わってきているように思えるわけです。弟子たちの足を洗うというイエスさまの行為は、自分を空しくして御自分の民に僕として仕える十字架を指し示すものであったのに、10節からは洗礼と罪の告白を指し示すものに変わってきているのです。しかし、私たちは十字架に至るまで私たちに仕えてくださったイエス・キリストの御名によって洗礼を受けるのですから、そこで同じイエス・キリストが指し示されていることを見落としてはならないのです。

 このことは、これまで触れてこなかったイスカリオテのユダのことを考えるとよくお分かりいただけると思います。2節にこのように記されています。「夕食のときであった。既に悪魔は、イスカリオテのシモンの子ユダに、イエスを裏切る考えを抱かせていた」。また11節にはこう記されています。「イエスは、御自分を裏切ろうとしている者がだれであるかを知っておられた。それで、『皆が清いわけではない』と言われたのである」。おそらく、イエスさまは御自分を裏切ろうとしていたイスカリオテのユダの足をも洗われたはずであります。もしかしたら、ユダもイエスさまの御名によって洗礼を受けていたかも知れません。けれども、イエスさまは、イスカリオテのユダを念頭に置きつつ、「皆が清いわけではない」と言われるのです。どうしてでしょうか。それは、ユダがイエスさまを拒み、イエスさまの御言葉を受け入れない者であったからです。上着を脱ぎ、手ぬぐいを取って腰にまとわれて、弟子たちの足を洗うイエスさまのお姿に神の栄光を見ることができなかったからです。イスカリオテのユダにとって、そのようなイエスさまはちっとも神らしくない。まさにメシア失格に思えたのです。わたしは好んで加藤常昭先生の説教集を読むのですが、ある説教の中で加藤先生がある老婦人から聞いた言葉を紹介しておられました。その老婦人は子供の頃、「ヤソの弱虫は、はりつけ拝んで涙を流す」とからかわれたそうです。十字架に磔にされたイエス・キリストを神の子と信じ、それがこの私のためであったと信じてキリスト者は涙を流すのであります。それは世の人々から見れば、愚かなことです。自分の足もとにひざまずいて、自分の汚れた足を洗って、手ぬぐいで拭いてくださる神など神らしくないと思う。それがペトロの思いであったし、ユダの思いであったのです。しかし、ペトロとユダが決定的に違ったところは、ペトロは分からないながらに、イエスの御言葉に従ったということです。「主よ、足だけでなく、手も頭も」ととんちんかんなことを言いながらも、イエスさまに喜んで足を洗っていただて、手ぬぐいで拭いていただいたということです。私たちも僕となって仕えてくださる主イエス・キリストを喜んで受け入れる者たちでありたいと願います。

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