幕屋に満ちる神の栄光 2020年11月29日(日曜 朝の礼拝)

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幕屋に満ちる神の栄光

日付
説教
村田寿和 牧師
聖書
出エジプト記 40章1節~38節

聖句のアイコン聖書の言葉

40:1 主はモーセに仰せになった。
40:2 第一の月の一日に幕屋、つまり臨在の幕屋を建てなさい。
40:3 あなたはそこに掟の箱を置き、垂れ幕を掛けて箱を隔て、
40:4 机を運び入れ、その付属品を並べ、燭台を運び入れてともし火をともす。
40:5 更に、掟の箱の前に香をたく金の祭壇を置き、幕屋の入り口には幕を掛ける。
40:6 また、焼き尽くす献げ物の祭壇を幕屋、つまり臨在の幕屋の入り口の前に据え、
40:7 洗盤を臨在の幕屋と祭壇の間に据え、これに水を入れる。
40:8 周囲には庭を設け、庭の入り口に幕を掛けなさい。
40:9 次に、あなたは聖別の油を取って、幕屋とその中のすべてのものに注ぎ、幕屋とそのすべての祭具を聖別する。それは聖なるものとなる。
40:10 次いで、焼き尽くす献げ物の祭壇とそのすべての祭具に油を注ぎ、祭壇を聖別する。祭壇は神聖なものとなる。
40:11 あなたは洗盤と台に油を注ぎ、それを聖別しなさい。
40:12 次に、アロンとその子らを臨在の幕屋の入り口に進ませ、彼らを水で清めなさい。
40:13 アロンに祭服を着せ、彼に油を注いで聖別し、祭司としてわたしに仕えさせ、
40:14 彼の子らを前に進ませ、これに衣服を着せる。
40:15 あなたは、彼らの父に油を注いだように、彼らにも油を注ぎ、わたしに仕える祭司としなさい。彼らがこのように、油を注がれることによって、祭司職は代々にわたり、永遠に彼らに受け継がれる。
40:16 モーセは主が命じられたとおりにすべてを行った。
40:17 第二年の第一の月、その月の一日に、幕屋が建てられた。
40:18 モーセは、まず、台座を置き、壁板を立て、横木を渡し、柱を立てて、幕屋を組み立てた。
40:19 次に、幕屋の上に天幕を広げ、更にその上に天幕の覆いを掛けた。主がモーセに命じられたとおりであった。
40:20 次に、彼は掟の板を取って箱に入れ、箱に棒を差し入れ、箱の上に贖いの座を置き、
40:21 その箱を幕屋の奥に運び入れた。そして、至聖所の垂れ幕を掛け、掟の箱を隔てた。主がモーセに命じられたとおりであった。
40:22 また、机を臨在の幕屋の中の垂れ幕の手前、幕屋の北側に置き、
40:23 その上に供えのパンを並べ、主の御前に供えた。主がモーセに命じられたとおりであった。
40:24 更に、燭台を臨在の幕屋の中の、幕屋の南側に机と向かい合わせて置き、
40:25 ともし火を主の御前にともした。主がモーセに命じられたとおりであった。
40:26 また、金の祭壇を臨在の幕屋の中の垂れ幕の前に置き、
40:27 香草の香をその上でたいた。主がモーセに命じられたとおりであった。
40:28 次に、幕屋の入り口に幕を掛けた。
40:29 この幕屋、つまり臨在の幕屋の入り口に焼き尽くす献げ物の祭壇を設け、焼き尽くす献げ物と穀物の献げ物をその上でささげた。主がモーセに命じられたとおりであった。
40:30 次いで、洗盤を臨在の幕屋と祭壇の間に据え、それに清めの水を入れた。
40:31 その水でモーセ、アロンおよびその子らは、自分の手足を清めた。
40:32 彼らが臨在の幕屋に入るとき、あるいは、祭壇に献げ物をささげるときは、水で清めるのを常とした。主がモーセに命じられたとおりであった。
40:33 最後に、幕屋と祭壇の周囲に庭を設け、庭の入り口に幕を掛けた。モーセはこうして、その仕事を終えた。
40:34 雲は臨在の幕屋を覆い、主の栄光が幕屋に満ちた。
40:35 モーセは臨在の幕屋に入ることができなかった。雲がその上にとどまり、主の栄光が幕屋に満ちていたからである。
40:36 雲が幕屋を離れて昇ると、イスラエルの人々は出発した。旅路にあるときはいつもそうした。
40:37 雲が離れて昇らないときは、離れて昇る日まで、彼らは出発しなかった。
40:38 旅路にあるときはいつも、昼は主の雲が幕屋の上にあり、夜は雲の中に火が現れて、イスラエルの家のすべての人に見えたからである。出エジプト記 40章1節~38節

原稿のアイコンメッセージ

 今朝は、『出エジプト記』の第40章から御言葉の恵みにあずかりたいと願っております。今朝の御言葉には、臨在の幕屋が完成されたことが記されています。それで、少し遡って、臨在の幕屋がどのような文脈で作られたのかを最初に確認したいと思います。 

 第25章に、「幕屋建設の指示」が記されています。シナイの山で、主はモーセに次のように言われました。「わたしのために聖なる所を彼ら(イスラエルの人々)に造らせなさい。わたしは彼らの中に住むであろう。わたしが示す作り方に正しく従って、幕屋とそのすべての祭具を作りなさい」。そして、「箱」をどのように作ればよいか。「机」をどのように作ればよいか。「燭台」をどのように作ればよいかというように、作り方が示されていきます。幕屋とそのすべての祭具の作り方が事細かに示されていくのです。第32章に、シナイ山からなかなか下りて来ないモーセを待ちきれなくなった人々が、金の子牛を作って崇めるという罪を犯したことが記されています。主はイスラエルの人々を滅ぼそうとされるのですが、モーセの執り成しによって、滅ぼされずにすみました。モーセの執り成しにより、主はイスラエルの人々と共に歩んでくださると約束してくださったのです(33章)。モーセは、イスラエルの人々が金の子牛を拝んでいるのを見て、手に持っていた神の掟の板を投げつけ、砕いてしまいました。それで、もう一度、シナイ山に上り、神さまから掟の板をいただきます。モーセは、シナイ山で四十日四十夜を過ごし、神さまの掟をいただくのです。そのことが、第34章に記されていますが、シナイ山から下りて来たモーセの顔は光り輝いていました。第35章に、幕屋建設のために、主への献納物を持ってくるようにと命じられたことが記されています。イスラエルの人々は、幕屋建設のために必要な材料を、有り余るほどささげました。それは、金の子牛を拝むという大きな罪を赦されたことへの感謝によるものです。イスラエルの人々は、金の子牛を拝むという罪を赦された感謝から、幕屋を建設する材料を必要以上に自ら進んでささげたのです。第36章以下に、実際に、幕屋とそのすべての祭具が示されたとおりに作られたことが記されています。イスラエルの人々は「幕屋を覆う幕」、「幕屋の壁板と横木」、「至聖所の垂れ幕」を、主が示されたとおりに作りました。そして、第39章32節以下を見ますと、幕屋建設の準備がすべて完了したことが記されています。今朝の第40章では、その準備されたものが組み立てられ、配置されたことが記されているわけです。そのようなクライマックス(最高潮)とも言える場面が、今朝の御言葉であるのです。

 第40章1節と2節にこう記されています。「主はモーセに仰せになった。第一の月の一日に幕屋、つまり臨在の幕屋を建てなさい」。

 主は、第一の月の一日、私たちで言うと1月1日に、臨在の幕屋を建てるように言われました。新共同訳は「臨在の幕屋」と記していますが、聖書協会共同訳では「会見の幕屋」と記されています。主が臨在される幕屋は、主にお会いすることができる、会見の幕屋であるのです。主は、どのように臨在の幕屋を建てればよいかを示されます。そして、16節によれば、「モーセは主が命じられたとおりにすべて行った」のです。そのモーセが行ったすべてのことが、17節から33節に詳しく記されています。17節に、「第二年の第一の月、その月の一日に、幕屋が建てられた」とあります。主は、エジプトでの最後の災いが行われた月、主の過越が行われた月を、正月(年の初めの月)とするように命じられました(12:1参照)。第19章1節によれば、イスラエルの人々がエジプトを出て、シナイ山に着いたのは三月目(みつきめ)でした。モーセは2回、シナイ山で四十日四十夜を過ごしたのですから、幕屋を完成するのに、およそ6ヶ月かかったことになります。ここには、「主がモーセに命じられたとおりであった」という言葉が七回も記されています。19節、21節、23節、24節、27節、29節、32節に、「主がモーセに命じられたとおりであった」と記されています。このように、イスラエルの人々は、主がモーセに命じられたとおりに臨在の幕屋を作ったのです。臨在の幕屋は、人間が考え出したものではなくて、神さまご自身が発案され、示されたものであるのです。神さまは、イスラエルの人々の内に住み、彼ら共に歩むために、モーセを通して、臨在の幕屋を作るように命じられたのです。そして、イスラエルの人々は主がモーセに命じられたとおりに、幕屋を作り終えたのです。

 その臨在の幕屋を雲が覆い、主の栄光が幕屋に満ちました。このようにして、第29章45節と46節に記されていた主の約束が実現することになるのです。そこには、こう記されておりました。「わたしはイスラエルの人々のただ中に宿り、彼らの神となる。彼らは、わたしが彼らの神、主であることを、すなわち彼らのただ中に宿るために、わたしが彼らをエジプトの国から導き出したものであることを知る。わたしは彼らの神、主である」。雲は、神の臨在を現しています。シナイ山を覆っていた主の栄光、その象徴である雲が、今や、臨在の幕屋を覆っていたのです。モーセが入ることのできないほどに、臨在の幕屋は主の栄光に満ちていたのです。イスラエルと共におられる主は、イスラエルを導かれる主でもあられます。36節と37節にこう記されています。「雲が幕屋を離れて昇ると、イスラエルの人々は出発した。旅路にあるときはいつもそうした。雲が離れて昇らないときは、離れて昇る日まで、彼らは出発しなかった」。第13章に、主がエジプトを出たイスラエルの民を、昼は雲の柱によって、夜は火の柱によって導かれたことが記されていました。そのことは、臨在の幕屋が完成してからも同じであります。主は、イスラエルの人々の指揮を執り、約束の地カナンへと導かれるのです。

 さて、私たちは、今朝の御言葉をどのように解釈したらよいでしょうか。神さまの栄光が満ちておられる幕屋は、イスラエルの人々が約束の地カナンに定住すると神殿に代わります。ダビデの息子であるソロモンによって、エルサレムに神殿が建てられますが、その時も、雲が主の神殿に満ちたと記されています。祭司たちが奉仕を続けることができないほどに、主の栄光が主の神殿に満ちたのです(列王記上8章参照)。そして、新約時代に入ると、神殿は、神が人となられて世に住まれた御方、イエス・キリストに代わります。新約時代に生きる私たちにとって、幕屋、神殿は、神が人となられて、私たちの間に宿られたイエス・キリストであるのです。『ヨハネによる福音書』の第1章14節にこう記されています。「言は肉となって、私たちの間に宿られた。わたしたちはその栄光を見た。それは父の独り子としての栄光であって、恵みと真理とに満ちていた」。ここで、「宿られた」と訳されている言葉は、「天幕を張った」とも訳せる言葉です。神が人としてお生まれになったイエス・キリストの存在そのものが神が臨在される天幕のような存在であるのです。ですから、イエスさまは、第2章で、神殿から商人を追い出された際にこう言われたのです。「この神殿を壊してみよ。三日で建て直してみせる」。福音書記者ヨハネは、このイエスさまの言葉を次のように説明します。「イエスの言われる神殿とは、御自分の体のことだったのである」(ヨハネ2:21)。使徒パウロは、『コロサイの信徒への手紙』で、「神は、御心のままに、満ちあふれるものを余すところなく御子の内に宿らせ」たと記しています(コロサイ1:19)。このパウロの言葉は、幕屋、神殿、イエス・キリストという流れの中で理解すべき言葉です。神さまは、御心のままに、満ちあふれるものを余すところなく御子の内に宿らせました。そして、御子イエス・キリストの名によって集まる私たち教会にも溢れさせてくださるのです。パウロは、『エフェソの信徒への手紙』で次のように記します。「教会はキリストの体であり、すべてにおいてすべてを満たしている方の満ちておられる場です」。イエス・キリストの名によって集まる私たち教会に、神さまは御臨在してくださいます。幕屋、神殿、イエス・キリストという流れは、イエス・キリストの体である私たち教会へと至るのです。そして、今も、神さまは、私たち教会を、雲の柱と火の柱で約束の地へと導いてくださるのです。私たちにとっての雲の柱と火の柱とは何でしょうか。それは、聖霊と御言葉であります。イエス・キリストの名によって集う私たちと共におられる神さまは、聖霊と御言葉によって、私たちを天の御国へと導いてくださっているのです。そのために、神さまは教会役員である、教師、長老、執事を立ててくださっているのです。新型コロナウイルス感染症がなかなか収束せずに、これからの見通しも立たないような状況に、私たちは今、置かれています。しかし、神さまは、そのような状況にありましても、私たちをイエス・キリストの名によって集めてくださり、聖霊と御言葉をもって導いてくださるのです。 

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