うつろな帰国 2020年7月22日(水曜 聖書と祈りの会)

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うつろな帰国

日付
説教
村田寿和 牧師
聖書
ルツ記 1章19節~22節

聖句のアイコン聖書の言葉

1:19 ベツレヘムに着いてみると、町中が二人のことでどよめき、女たちが、ナオミさんではありませんかと声をかけてくると、
1:20 ナオミは言った。「どうか、ナオミ(快い)などと呼ばないで、マラ(苦い)と呼んでください。全能者がわたしをひどい目に遭わせたのです。
1:21 出て行くときは、満たされていたわたしを/主はうつろにして帰らせたのです。なぜ、快い(ナオミ)などと呼ぶのですか。主がわたしを悩ませ/全能者がわたしを不幸に落とされたのに。」
1:22 ナオミはこうして、モアブ生まれの嫁ルツを連れてモアブの野を去り、帰って来た。二人がベツレヘムに着いたのは、大麦の刈り入れの始まるころであった。
ルツ記 1章19節~22節

原稿のアイコンメッセージ

 今日は、旧約聖書の『ルツ記』の第1章19節から22節より、「うつろな帰国」という題でお話しします。

 ナオミとルツは旅を続け、ついにユダのベツレヘムに着きました。ベツレヘムに着いてみると、町中が二人のことでどよめきました。夫と息子二人と一緒に町を出て行ったナオミが、十数年ぶりに見知らぬ女と一緒に帰って来たからです。女たちが「ナオミさんではありませんか」と声をかけると、ナオミはこう答えました。「どうか、ナオミ(快い)などと呼ばないで、マラ(苦い)と呼んでください。全能者がわたしをひどい目に遭わせたのです」。ここで、「ひどい目に遭わせた」と訳されている言葉(マラー)は、「ひどく苦しめた」とも訳せます(口語訳参照)。「苦い」という言葉と「苦しめた」という言葉は同じ漢字ですが、元の言葉も同じ言葉(マラ)に由来するのです。なぜ、ナオミは「マラ(苦い)と呼んでください」と言ったのでしょうか。それは、ナオミが全能者によって苦い経験をさせられたからです。ベツレヘムを出て行くとき、ナオミには夫と二人の息子がおり、満たされていました。しかし、主はその自分をうつろにして、何も持たせずに帰らせたとナオミは言うのです。ナオミは、「主がわたしを悩ませ/全能者が不幸に落とされたのに」と語ります。けれども、ナオミは、主に対する信仰を失ってはいません。すべてを主の御手からいただく、摂理の信仰に彼女は生きているのです。そして、ここに、今はうつろであっても、再び満たされる希望があるのです。もし、天地万物を造り、統べ治めておられる神さまがいなかったらどうでしょうか。不幸な目にあったとき、「それがあなたの運命なのですよ」と言われたらどうでしょうか。あるいは、「あなたはそのような星のもとに生まれたのですよ」と言われたらどうでしょうか。もしそうなら諦めるしかありません。けれども、すべてのことを、神さまの御手から受けとるならば、私たちは決して失望することはないのです。そのことは、イエス・キリストを通して神さまを知っている私たちにはなおさらのことです。なぜなら、神さまは、独り子をお与えになったほどに、私たち一人一人を愛してくださったし、今も愛してくださっているからです(ヨハネ3:16参照)。

 イエス・キリストの使徒パウロは、『ローマの信徒への手紙』の第8章28節で、こう記しています。「神を愛する者たち、つまり、御計画に従って召された者たちには、万事が益となるように共に働くということを、わたしたちは知っています」。イエス・キリストに結ばれて、神さまを父と呼ぶ私たちは、不幸の只中にあっても、神さまは万事が益となるように共に働いてくださると信じることができるのです。

 22節に、「ナオミはこうして、モアブ生まれの嫁ルツを連れてモアブの野を去り、帰って来た」とあります。ナオミは「主はうつろにして帰らせた」「主は何も持たせずに帰らせた」と言いました。しかし、そうではありません。ナオミには、「七人の息子にまさる嫁」であるルツが与えられているのです(4:15参照)。ナオミは、失ったもの(夫や二人の息子)に気を取られて、主が与えてくださったモアブ生まれの嫁ルツに思いを向けることができません。しかし、主は、このルツを用いて、ナオミをもう一度満たしてくださるのです。ナオミという名前のとおり、快い者としてくださるのです。

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