まじりけのない言葉 2020年7月26日(日曜 朝の礼拝)

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まじりけのない言葉

日付
説教
村田寿和 牧師
聖書
詩編 12編1節~9節

聖句のアイコン聖書の言葉

12:1 【指揮者によって。第八調。賛歌。ダビデの詩。】
12:2 主よ、お救いください。主の慈しみに生きる人は絶え/人の子らの中から/信仰のある人は消え去りました。
12:3 人は友に向かって偽りを言い/滑らかな唇、二心をもって話します。
12:4 主よ、すべて滅ぼしてください/滑らかな唇と威張って語る舌を。
12:5 彼らは言います。「舌によって力を振るおう。自分の唇は自分のためだ。わたしたちに主人などはない。」
12:6 主は言われます。「虐げに苦しむ者と/呻いている貧しい者のために/今、わたしは立ち上がり/彼らがあえぎ望む救いを与えよう。」
12:7 主の仰せは清い。土の炉で七たび練り清めた銀。
12:8 主よ、あなたはその仰せを守り/この代からとこしえに至るまで/わたしたちを見守ってくださいます。
12:9 主に逆らう者は勝手にふるまいます/人の子らの中に/卑しむべきことがもてはやされるこのとき。

詩編 12編1節~9節

原稿のアイコンメッセージ

 今朝は、『詩編』の第12編より、御言葉の恵みにあずかりたいと願います。

 1節に、「指揮者によって。第八調。賛歌。ダビデの詩」とありますように、第12編はダビデの詩編であります。ダビデは、主によって油を注がれてイスラエルの王となった人物でありました。そのダビデが、「主よ、お救いください」と祈るのです。

 2節から5節までを読みます。

 主よ、お救いください。主の慈しみに生きる人は絶え/人の子らの中から信仰のある人は消え去りました。人は友に向かって偽りを言い/滑らかな唇、二心をもって話します。主よ、すべて滅ぼしてください/滑らかな唇と威張って語る舌を。彼らは言います。「舌によって力を振るおう。自分の唇は自分のためだ。わたしたちに主人などはない。」

 ダビデは、「主よ、お救いください」と祈ります。「主」とは、ヤハウェと発音されたであろう、神の御名前です。その昔、神は、ホレブの山で、モーセに、主、ヤハウェという御名前を示されました。主、ヤハウェという御名前は、「わたしはあなたと共にいる」という約束を含み持っています。その主、ヤハウェに、ダビデは、「お救いください」と祈るのです。なぜなら、主の慈しみに生きる人は絶え、人の子らの中から信仰のある人は消え去ってしまったからです。『新改訳2017』は、「敬虔な人は後を絶ち/誠実な人は、人の子らの中から消え去りました」と翻訳しています。ここで注意したいことは、ダビデが神の民イスラエルについて、このように語っていることです。イスラエルの民は、だれもが主を畏れる人であるはずです。しかし、ダビデは、そのイスラエルの民の中から、敬虔な人は後を絶ち、誠実な人は消え去ってしまったと言うのです。イスラエルの民は、主を畏れない者たち、不誠実な者たちとなってしまったのです。そのことを、端的に表しているのが、彼らの語る言葉です。「人は友に向かって偽りを言い/滑らかな唇、二心をもって話します」。『新改訳2017』は次のように翻訳しています。「人は互いにむなしいことを話し/へつらいの唇と、二心で話します」。偽りとは、その言葉に対応する現実がないむなしいことであります。また、滑らかな唇とは、へつらいの唇で、相手を誉めそやす言葉のことです。相手のことを誉めるのですが、本心は別のところにあるのです。「二心」とは、いわゆる本音と建前と言えるでしょう。このように見てくると、私たちも無関係ではないように思えます。

 ダビデは、「主よ、すべて滅ぼしてください/滑らかな唇と威張って語る舌を」と祈ります。このところを、『新改訳2017』は次のように翻訳しています。「主が、へつらいの唇と傲慢な舌を、ことごとく断ち切ってくださいますように」。『新共同訳』が「すべて滅ぼしてください」と訳しているところを、『新改訳2017』は「すべて断ち切ってください」と翻訳しています。威張って語る傲慢な舌を、主が断ち切ってくださるように、とダビデは祈っているのです。では、彼らはどのようなことを語っていたのでしょうか。「舌によって力を振るおう。自分の唇は自分のためだ。わたしたちに主人などはない」。「舌」と「唇」は言語を操る器官ですから、「言葉」と言い換えてもよいと思います。私たち人間は言葉を話します。神は、人間に言葉を与えられました。それは人間が互いに交わりを持つためであり、神をほめたたえるためであります。しかし、はじめの人アダムの堕落によって、人は言葉によって争い合い、言葉によって自分をほめたたえるものとなってしまったのです(創世記4章の「レメクの歌」参照)。このところを、『新改訳2017』は次のように翻訳しています。「われらはこの舌で勝つことができる。この唇はわれらのものだ。だれが、われらの主人なのか」。これは、主なる神に対する宣戦布告とも言える言葉です。それゆえ、ダビデは、「主が、傲慢な舌を、ことごとく断ち切ってくださいますように」と祈るのです。

 6節から8節までを読みます。

 主は言われます。「虐げに苦しむ者と/呻いている貧しい者のために/今、わたしは立ち上がり/彼らがあえぎ望む救いを与えよう。」主の仰せは清い。土の炉で七たび練り清めた銀。主よ、あなたはその仰せを守りこの代からとこしえに至るまで/わたしたちを見守ってくださいます。

 6節は、ダビデが賜った主の御言葉であります。「主よ、お救いくだい」というダビデの祈りに応えて、主はこう言われます。「虐げに苦しむ者と呻いている貧しい者のために/今、わたしは立ち上がり/彼らがあえぎ望む救いを与えよう」。このところを『新改訳2017』は次のように翻訳しています。「主は言われます。『苦しむ人が踏みにじられ、貧しい人が嘆くから、今、わたしは立ち上がる。わたしは彼を、その求める救いに入れよう』」。6節の主の御言葉を、1節のダビデの祈りへの応答と理解するとき、ダビデが「虐げに苦しむ者」と「呻いている貧しい者」を代表して、「主よ、お救いください」と祈っていることが分かります。その昔、主は、エジプトで奴隷にされ、苦しんでいたイスラエルの民の嘆きを聞いて、立ち上がってくださいました。その主が、「今、わたしは立ち上がる。わたしは彼を、その求める救いに入れよう」と言われるのです。『新共同訳』は「彼らがあえぎ望む救いを与えよう」と翻訳していますが、『新改訳2017』は「わたしは彼を、その求める救いに入れよう」と翻訳しています。元のヘブライ語を見ても、「彼を」と単数形で記されています。主が「わたしは彼を、その求める救いに入れよう」と言われるとき、「彼」とは、「主よ、お救いください」と祈っている「ダビデ」のことです。けれども、ダビデは、貧しい人たちを代表して祈っているので、『新共同訳』のように、「彼らがあえぎ望む救いを与えよう」とも翻訳できるのです。

 7節と8節には、人の言葉が空しい偽りであるのに対して、主の言葉が清く確かであることが告白されています。「主の仰せは清い。土の炉で七たび練り清めた銀。主よ、あなたはその仰せを守り/この代からとこしえに至るまで/わたしたちを見守ってくださいます」。このところを『新改訳2017』は次のように翻訳しています。「主のことばは/混じり気のないことば。土の炉で七度試され 純化された銀。主よ あなたは彼らを守られます。今の代からとこしえまでも 彼らを保たれます」。主の言葉は清い言葉である。それは何一つ偽りがないということです。主の言葉はそのとおり出来事となる、力ある清い言葉であるのです。『新改訳2017』は、「主のことばは、混じり気のないことば」と翻訳していますが、これは続く譬えとのつながりを意識した翻訳と言えます。土の炉で七度(完全に)精錬され、純化された銀のように、主のことばは混じり気のない言葉であるのです。はじめの人アダムの堕落によって、人間は偽りを言う二心の者となってしまいました。ですから、人間の言葉は残念ながら信頼することはできません。信頼しても、裏切られることが多いのです(人間には悪気は無くても、約束を果たすことができない弱さがある)。しかし、神の言葉は、そうではありません。少しの偽りもない100パーセント信頼できる言葉であるのです。その清い言葉をもって、主は、御自分に依り頼む貧しい人たちを守られるのです。どのような時代においても、神は、清い言葉によって、御自分の民を御自分の民として保たれるのです。

 9節を読みます。

 主に逆らう者は勝手にふるまいます/人の子らの中に/卑しむべきことがもてはやされるこのとき。

 このところを『新改訳2017』は次のように翻訳しています。「人の子の間で、卑しいことがあがめられているときには/悪しき者が、いたるところで横行します」。「卑しいこと」とは、「舌によって力をふるい、高慢に振る舞うこと」であります。大きなことを言って、高い地位に就き、貧しい人を虐げる。そのような卑しむべきことが盛んに誉められる社会において、主に逆らう者は、勝手に振る舞うのです。「わたしたちに主人はいない。わたしの主人は、わたしだ」と言って、神のように振る舞うのです。このような時代は、ダビデの時代だけではありません。ダビデの子孫であるイエス・キリストの時代も同じでありました。主イエスは、福音書において、御自分の歩まれた時代を「神に背いたこの罪深い時代」と言われました(マルコ8:38参照)。また、「なんと信仰のない時代なのか」と嘆かれました(マルコ9:19参照)。考えて見ますと、主イエスを罠にかけて殺そうとしていた祭司長や律法学者たちは、二心でへつらい、偽りを語る者たちでした。主イエスの時代の貧しい人たちは、そのような指導者たちによって苦しめられていたのです。そのことは、私たちの時代も同じではないでしょうか。私たちも、二心をもって偽りを言う者たちに苦しめられているのではないでしょうか。では、私たちは、どうすればよいのでしょう。私たちも二心で、へつらい、偽りを語るべきでしょうか。私たちも滑らかな唇で大きなことを語るべきでしょうか。もちろん、そうではありません。私たちは、清い言葉、少しの偽りもない主の言葉に、信頼すべきであるのです。私たちに与えられている主の言葉とは、主イエス・キリストの福音であります。主イエス・キリストが私たちの罪のために十字架で死んでくださり、私たちを正しい者とするために復活してくださった。この主イエス・キリスト福音は、少しの偽りもない、100パーセント信頼できる清い言葉であるのです。主イエス・キリストは、その清い言葉によって、私たちを救い、保ち、導いてくださいます。卑しむべきことがもてはやされる時代において、主イエス・キリストの御言葉が、私たちを神の子として保ってくださるのです(フィリピ2:15、16参照)。

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