国々の民を公平に裁かれる神 2020年3月22日(日曜 朝の礼拝)

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国々の民を公平に裁かれる神

日付
説教
村田寿和 牧師
聖書
詩編 9編1節~21節

聖句のアイコン聖書の言葉

9:1 【指揮者によって。ムトラベンに/合わせて。賛歌。ダビデの詩。】
9:2 わたしは心を尽くして主に感謝をささげ/驚くべき御業をすべて語り伝えよう。
9:3 いと高き神よ、わたしは喜び、誇り/御名をほめ歌おう。
9:4 御顔を向けられて敵は退き/倒れて、滅び去った。
9:5 あなたは御座に就き、正しく裁き/わたしの訴えを取り上げて裁いてくださる。
9:6 異邦の民を叱咤し、逆らう者を滅ぼし/その名を世々限りなく消し去られる。
9:7 敵はすべて滅び、永遠の廃虚が残り/あなたに滅ぼされた町々の記憶も消え去った。
9:8 主は裁きのために御座を固く据え/とこしえに御座に着いておられる。
9:9 御自ら世界を正しく治め/国々の民を公平に裁かれる。
9:10 虐げられている人に/主が砦の塔となってくださるように/苦難の時の砦の塔となってくださるように。
9:11 主よ、御名を知る人はあなたに依り頼む。あなたを尋ね求める人は見捨てられることがない。
9:12 シオンにいます主をほめ歌い/諸国の民に御業を告げ知らせよ。
9:13 主は流された血に心を留めて/それに報いてくださる。貧しい人の叫びをお忘れになることはない。
9:14 憐れんでください、主よ/死の門からわたしを引き上げてくださる方よ。御覧ください/わたしを憎む者がわたしを苦しめているのを。
9:15 おとめシオンの城門で/あなたの賛美をひとつひとつ物語り/御救いに喜び躍ることができますように。
9:16 異邦の民は自ら掘った穴に落ち/隠して張った網に足をとられる。
9:17 主が現れて裁きをされるとき/逆らう者は/自分の手が仕掛けた罠にかかり〔ヒガヨン・セラ
9:18 神に逆らう者、神を忘れる者/異邦の民はことごとく、陰府に退く。
9:19 乏しい人は永遠に忘れられることなく/貧しい人の希望は決して失われない。
9:20 立ち上がってください、主よ。人間が思い上がるのを許さず/御顔を向けて異邦の民を裁いてください。
9:21 主よ、異邦の民を恐れさせ/思い知らせてください/彼らが人間にすぎないことを。〔セラ詩編 9編1節~21節

原稿のアイコンメッセージ

 今朝は、詩編第9編より御言葉の恵みにあずかりたいと願っています。

 1節に、「指揮者によって。ムトラベンに合わせて。賛歌。ダビデの詩」とありますように、第9編は、ダビデ王によって記された詩編であります。ダビデは、主に感謝をささげることからこの詩編を歌い始めます。

 2節から4節までをお読みします。

 わたしは心を尽くして主に感謝をささげ/驚くべき御業をすべて語り伝えよう。いと高き神よ、わたしは喜び、誇り/御名をほめ歌う。御顔を向けられて敵は退き/倒れて、滅び去った。

 「主」とは「ヤハウェ」と発音されたであろう神さまの御名前です。神さまは、その昔、ホレブの山で、モーセに現れ、ヤハウェ、「わたしはある」という御名前を示されました(出エジプト3:14参照)。ヤハウェ、「わたしはある」という御名前は、「わたしは必ずあなたと共にいる」という約束を含んだ御名前であるのです(出エジプト3:12)。ダビデは、イスラエルの民をエジプトから導き出し、約束の地カナンを与えてくださった神である主に、心を尽くして感謝をささげ、その驚くべき御業をすべて語り伝えよう、と歌うのです。この「驚くべき御業」の中に、ダビデが王として油を注がれたことや、異邦の民との戦いに勝利を与えられたことも含まれています。ダビデはイスラエルの王として、周りに住む異邦の民と戦わなければなりませんでした。例えば、サムエル記下の第5章には、ダビデがイスラエルの王となったことを聞いて、ペリシテ人が攻め上って来たことが記されています。旧約の488ページです。サムエル記下の第5章17節から25節までをお読みします。

 ペリシテ人は、ダビデが油を注がれてイスラエルの王になったことを聞いた。すべてのペリシテ人が、ダビデの命をねらって攻め上って来た。ダビデはこれを聞いて要害に下った。やって来たペリシテ人はレファイムの谷に陣を広げた。ダビデは主に託宣を求めた。「ペリシテ人に向かって攻め上るべきでしょうか。彼らをこの手にお渡しくださるでしょうか。」主はダビデに答えられた。「攻め上れ。必ずペリシテ人をあなたの手に渡す。」

 ダビデはバアル・ペラツィムに攻め入り、彼らを討ち滅ぼして、こう言った。「主は敵をわたしの前で、水が堤防を破るように打ち破ってくださった。」その場所をバアル・ペラツィム(破れ目の主)と呼ぶのは、このためである。ペリシテ人が自分たちの偶像をそこに捨てて行ったので、ダビデとその兵はそれを運び去った。

 ペリシテ人は再び攻め上り、レファイムの谷に陣を広げた。ダビデが主に託宣を求めると、次のように答えられた。「攻め上らず、背後に回れ。バルサムの茂みの反対側から敵に向かえ。茂み越しに行軍の音を聞いたら、攻めかかれ。主がペリシテの陣営を討つために、お前に先んじて出陣されるのだ。」ダビデは主の命じられたとおりに行動し、ゲバからゲゼルに至るまで、ペリシテ人を討ち滅した。

 このように、ダビデの戦いは、主が共におられ、主によって勝利を与えられた戦いであったのです。このような異邦の民との戦いを背景にして、ダビデは詩編第9編で、「いと高き神よ、わたしは喜び、誇り、御名をほめ歌おう。御顔を向けられて敵は退き/倒れて、滅び去った」と歌っているのです。

 今朝の御言葉に戻ります。旧約の840ページです。

 5節から7節までをお読みします。

 あなたは御座に就き、正しく裁き/わたしの訴えを取り上げて裁いてくださる。異邦の民を叱咤し、逆らう者を滅ぼし/その名を世々限りなく消し去られる。敵はすべて滅び、永遠の廃墟が残り/あなたに滅ぼされた町々の記憶も消え去った。

 新共同訳聖書は訳出していませんが、5節の文頭には「なぜなら」と記されています。ダビデの敵が退き、倒れて、滅び去ったのは、主が御座に就き、正しく裁き、ダビデの訴えを取り上げて裁いてくださったからであるのです。民の訴えを取り上げて、正しく裁くことは、王の務めでありました。ダビデは、主によって油を注がれたイスラエルの王でありますが、まことの王が主なる神であることをよく知っているのです。

 6節に「異邦の民」とあります。異邦の民とは、天地万物を造られた真の神、ヤハウェを知らない者たちのことです。また、主に逆らって悪を行う者たちのことです。そのような異邦の民を、主はお叱りになります。そして、「逆らう者」、直訳では「悪しき者」を滅ぼされ、その名を世々限りなく消し去られるのです。7節に、「敵はすべて滅び、永遠の廃墟が残り/あなたに滅ぼされた町々の記憶も消え去った」とあります。ここでは、イスラエルの民がカナンの土地を取得した際に戦った敵たちのことが言われているようです。ヨシュア記を読みますと、イスラエルの民が、エリコを占領したことや、アイを滅ぼして廃墟としたことが記されています。そのような主がなされたかつての裁きを、ダビデは思い起こしているのです。私は今、イスラエルがカナンの土地の民を滅ぼしたことは、神の裁きであると申しました。そのことは、主がアブラハムに言われたことでありました。旧約の19ページです。

 創世記の第15章には、主がアブラハムと契約を結ばれたことが記されています。そこで、主はアブラハムにこう言われているのです。13節から21節までをお読みします。

 主はアブラムに言われた。

 「よく覚えておくがよい。あなたの子孫は異邦の国で寄留者となり、四百年の間奴隷として仕え、苦しめられるであろう。しかしわたしは、彼らが奴隷として仕えるその国民を裁く。その後、彼らは多くの財産を携えて脱出するであろう。あなた自身は、長寿を全うして葬られ、安らかに先祖のもとに行く。ここに戻って来るのは、四代目の者たちである。それまでは、アモリ人の罪が極みに達しないからである。」

 日が沈み、暗闇に覆われたころ、突然、煙を吐く炉と燃える松明が二つに裂かれた動物の間を通り過ぎた。その日、主はアブラムと契約を結んで言われた。

 「あなたの子孫にこの土地を与える。エジプトの川から大河ユーフラテスに至るまで、カイン人、ケナズ人、カドモニ人、ヘト人、ペリジ人、レファイム人、アモリ人、カナン人、ギルガシ人、エブス人の土地を与える。」

 16節に、アブラハムの子孫がカナンの地に戻って来るのは四代目の者たちであること、その理由として「それまでは、アモリ人の罪が極みに達しないからである」と記されています。このことは、イスラエルの民がカナンの民を滅ぼすことが、神の裁きであることを教えています。カナンの土地の人々は、偶像を拝み、淫らな行いをし、子供をいけにえとして献げていました。そのような彼らを裁く者として、神の民であるイスラエルはカナンの町を滅ぼし、カナンの土地を主から与えられるのです。カナンの土地の所有者は、主なる神さまです。神さまは、偶像崇拝にふけっている異邦の民を、イスラエルの民によって裁き、カナンの土地をイスラエルに与えられたのです。

 今朝の御言葉に戻ります。旧約の841ページです。

 8節から11節までをお読みします。

 主は裁きのために御座を固く据え/とこしえに御座についておられる。御自ら世界を正しく治め/国々の民を公平に裁かれる。虐げられている人に/主が砦の塔となってくださるように/苦難の時の砦の塔となってくださるように。主よ、御名を知る人はあなたに依り頼む。あなたを尋ね求める人は見捨てられることがない。

 ダビデは、主が天の王座にとこしえに就いておられること。そして、イスラエルだけではなく、世界を正しく治め、国々の民を公平に裁かれると記します。主なる神の王権は、イスラエルの民だけではなく、諸国の民に及ぶのです。王には、虐げられている人たちの訴えを弁護することが求められていました。それゆえ、ダビデは、「虐げられている人に、主が砦の塔となってくださるように/苦難の時の砦の塔となってくださるように」と祈るのです。また、ダビデは、自分も主に依り頼む者として、「あなたを尋ね求める人は見捨てられることがない」と記すのです。これは、ダビデの信仰の告白であり、ダビデの口を通して語られている神さまの約束であります。私たちが主を尋ね求めるならば、主は私たちを決して見捨てられることはないのです(ヨハネ6:37「父がわたしにお与えになる人は皆、わたしのところに来る。わたしのもとに来る人を、わたしは決して追い出さない」参照)。

 12節と13節をお読みします。

 シオンにいます主をほめ歌い/諸国の民に御業を告げ知らせよ。主は流された血に心を留めて/それに報いてくださる。貧しい人の叫びをお忘れになることはない。

 「シオン」とは、神の契約の箱が置かれている都エルサレムのことです。ダビデは、「主をほめ歌い、諸国の民に御業を告げ知らせよ」と歌います。9節に、主は「国々の民を公平に裁かれる」とありました。その「国々の民」に、主の御業を告げ知らせよ、とダビデは歌うのです。ダビデにとって、主の御業とは、エジプトからの脱出やカナンの土地の占領でありました。しかし、新しいイスラエルである私たちにとっての、主の御業とは、何よりも、主イエス・キリストの十字架と復活の出来事であります。なぜなら、イエス・キリストの十字架と復活の出来事こそ、神さまが諸国の民を、公平に裁かれた出来事であるからです。神さまは、イエス・キリストの十字架の死によって、すべての民に有罪を宣告されました。そして、イエス・キリストの復活によって、信じる者たちに罪の赦しと義を宣告されたのです。人は誰でも、どの民族であっても、イエス・キリストの十字架によって断罪され、イエス・キリストの復活によって義とされるのです。ダビデの言葉、「主は国々の民を公平に裁かれる」という預言は、イエス・キリストの十字架と復活によって実現したのです。

 13節に、「主は流された血に心を留めて/それに報いてくださる」とあります。「報いてくださる」とは復讐してくださるということです。このことは、創世記の第9章に記されていることです。創世記の第9章は、ノア契約について記していますが、その5節と6節で、主はこう言われています。「また、あなたたちの命である血が流された場合、わたしは賠償を要求する。いかなる獣からも要求する。人間どうしの血については、人間から人間の命を賠償として要求する。人の血を流す者は/人によって自分の血を流される。人は神にかたどって造られたからだ」。神さまが、人の命について賠償を要求されるのは、命のまことの所有者が神さまであられるからです。また、人を殺すことは、神のかたちを破壊することであり、自分に死を招く行為であるのです。このように言われる主は、流された血に心を留めて、血を流した者に報復してくださる御方であるのです。創世記の第4章に、カインによって殺されたアベルの血が土の中から主に向かって叫んでいると記されています。アベルの血の叫びを聞き取られた主は、貧しい人の叫びをお忘れになることはないのです。

 14節と15節をお読みします。

 憐れんでください、主よ/死の門からわたしを引き上げてくださる方よ。御覧ください/わたしを憎む者がわたしを苦しめているのを。おとめシオンの城門で/あなたの賛美をひとつひとつ物語り/御救いに喜び躍ることができますように。

 13節の最後に、「貧しい人の叫びをお忘れになることはない」とありました。この「貧しい人」は、「経済的に貧しい人」という意味ではなく、「神さまだけに依り頼む人」という意味です。ダビデは、神さまだけに依り頼む貧しい人として、「憐れんでください、主よ/死の門からわたしを引き上げてくださる方よ」と祈ります。そして、自分を憎む者が自分を苦しめていることを主に訴えるのです。そのような苦しみから救い出され、エルサレムの城門で、主の賛美をひとつひとつ物語り、喜び躍ることができるようにと願うのです。私たちに当てはめて言えば、教会の礼拝に集い、主を賛美することを願うのです。

 16節から19節までをお読みします。

 異邦の民は自ら掘った穴に落ち/隠して張った網に足をとられる。主が現れて裁きをされるとき/逆らう者は/自分の手が仕掛けた罠にかかり/神に逆らう者、神を忘れる者/異邦の民はことごとく、陰府に退く。乏しい人は忘れられることなく/貧しい人の希望は決して失われない。

 「異邦の民」は、まことの神、ヤハウェを知らない民のことであり、悪を行う者たちのことです。新共同訳聖書は、「逆らう者」(6節、17節)、「神に逆らう者」(18節)と翻訳していますが、元の言葉を直訳すると「悪しき者」「悪人」となります。悪しき者である異邦の民は、自分が仕掛けた罠にかかって滅びることになるのです(ダニエル書6:25「王は命令を下して、ダニエルを陥れようとした者たちを引き出させ、妻子もろとも獅子の洞窟に投げ込ませた。穴の底にも達しないうちに、獅子は彼らに飛びかかり、骨までもかみ砕いた」、エステル記7:10「こうしてハマンは、自分がモルデカイのために立てた柱につるされ、王の怒りは治まった」参照)。

 18節に、「神に逆らう者、神を忘れる者/異邦の民はことごとく、陰府に退く」とあります。「神を忘れる者」とは、神がいないかのように振る舞う者のことです。そのような異邦の民を、主は陰府に退かせます。陰府とは神さまの祝福から切り離された死者の領域のことです。それに対して、主は乏しい人を永遠に忘れられることなく、天の祝福に迎え入れてくださるのです。主イエスが「貧しい人々は幸いである、神の国はあなたがたのものである」と言われたように、主は御自分に依り頼む者たちを、神の国に迎え入れてくださるのです(ルカ6:20参照)。

 20節と21節をお読みします。

 立ち上がってください、主よ。人間が思い上がるのを許さず/御顔を向けて異邦の民を裁いてください。主よ、異邦の民を恐れさせ/思い知らせてください/彼らが人間にすぎないことを。

 「立ち上がってください、主よ」。この言葉は、荒れ野で、契約の箱が出発するときにモーセが言った言葉に由来します。主の箱が出発するとき、モーセはこう言いました。「主よ、立ち上がってください。あなたの敵は散らされ/あなたを憎む者は御前から逃げ去りますように」(民数10:35)。そのモーセの言葉を用いて、ダビデは、「立ち上がってください、主よ」と祈るのです。異邦の民とは、まことの神、ヤハウェを知らない者たちであり、悪しき者たちであると申しました。さらに言えば、異邦の民とは、思い上がって神のように振る舞う者たちのことであるのです。ダビデは、そのような異邦の民を恐れさせ、彼らが人間にすぎないことを思い知らせてくださいと祈るのです。現代の日本においても、多くの人が神を忘れて、思い上がって歩んでいます(フィリピ3:19参照)。神を求めない人間の心の奥底にあるものは、この思い上がりです。その思い上がりが、十字架の言葉によって打ち砕かれたとき、人間は神さまだけに依り頼む貧しい者へと変えられるのです。

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