なすべき善を知りながら 2020年7月19日(日曜 朝の礼拝)

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なすべき善を知りながら

日付
説教
村田寿和 牧師
聖書
ヤコブの手紙 4章11節~17節

聖句のアイコン聖書の言葉

4:11 兄弟たち、悪口を言い合ってはなりません。兄弟の悪口を言ったり、自分の兄弟を裁いたりする者は、律法の悪口を言い、律法を裁くことになります。もし律法を裁くなら、律法の実践者ではなくて、裁き手です。
4:12 律法を定め、裁きを行う方は、おひとりだけです。この方が、救うことも滅ぼすこともおできになるのです。隣人を裁くあなたは、いったい何者なのですか。
4:13 よく聞きなさい。「今日か明日、これこれの町へ行って一年間滞在し、商売をして金もうけをしよう」と言う人たち、
4:14 あなたがたには自分の命がどうなるか、明日のことは分からないのです。あなたがたは、わずかの間現れて、やがて消えて行く霧にすぎません。
4:15 むしろ、あなたがたは、「主の御心であれば、生き永らえて、あのことやこのことをしよう」と言うべきです。
4:16 ところが、実際は、誇り高ぶっています。そのような誇りはすべて、悪いことです。
4:17 人がなすべき善を知りながら、それを行わないのは、その人にとって罪です。ヤコブの手紙 4章11節~17節

原稿のアイコンメッセージ

 前回(6月21日)、私たちは、世の友となることが神の敵となること。また、神は高慢な者を敵とし、謙遜な者には恵みをお与えになることを学びました。私たちは神の敵となることがないように、悔い改めて、へりくだることが求められているのです。

 今朝の御言葉はその続きであります。

1 隣人を裁くあなたは何者か

 11節と12節をお読みします。

 兄弟たち、悪口を言い合ってはなりません。兄弟の悪口を言ったり、自分の兄弟を裁いたりする者は、律法の悪口を言い、律法を裁くことになります。もし律法を裁くなら、律法の実践者ではなくて、裁き手です。律法を定め、裁きを行う方は、おひとりだけです。この方が、救うことも滅ぼすこともおできになるのです。隣人を裁くあなたは、いったい何者なのですか。

 ヤコブは、この手紙の読者たちに、「兄弟たち」と呼びかけます。「兄弟たち」とは、主イエス・キリストにあって兄弟姉妹とされた者たちのことです。イエス・キリストを信じる私たちは、神さまを父とし、イエス・キリストを長兄(一番上の兄)とする神の家族の一員であるのです。その主にある兄弟姉妹たちに、ヤコブはこう言うのです。「悪口を言い合ってはなりません」。主イエス・キリストにあって兄弟姉妹とされた者たちが、互いに悪口を言い合っていたのです。私たちはどうでしょうか。面と向かって悪口を言うことはないとしても、影で言うことはないでしょうか。また、兄弟姉妹を裁いてしまうということはないでしょうか。兄弟姉妹を裁くとは、「兄弟姉妹を信仰の失格者として判断する」ことです。兄弟姉妹の悪口を言ったり、兄弟姉妹を裁いたりするならば、私たちは、律法の悪口を言い、律法を裁くことになります。ここでの「律法」は、最も尊い律法である「隣人を自分のように愛しなさい」という律法のことです(2:8参照)。兄弟姉妹の悪口を言い、裁く者は、「隣人を自分のように愛しなさい」という最も尊い律法の悪口を言い、裁く者であるのです。これはどういうことでしょうか。律法が「隣人を自分のように愛しなさい」と命じているにもかかわらず、隣人(兄弟姉妹)に対して悪口を言う者は、その律法に背くことによって、律法の悪口を言っているのです。また、律法が「隣人を自分のように愛しなさい」と命じているにもかかわらず、隣人(兄弟姉妹)を裁く者は、その律法を従うに値しないと判断して、律法を裁いているのです。ここで教えられることは、人に対する罪は、同時に神さまに対する罪でもあるということです。私たちが兄弟姉妹の悪口を言ったり、兄弟姉妹を裁いたりするとき、兄弟姉妹に対して罪を犯したと考えます。けれども、それは神の掟に対する罪であり、神さまに対する罪であるのです。このことは、ダビデが『詩編』第51編で言い表していることであります。第51編は、「ダビデがバト・シェバと通じたので預言者ナタンがダビデのもとの来たとき」に歌われた悔い改めの詩編であります。そこでダビデはこう歌うのです。「あなたに背いたことをわたしは知っています。わたしの罪は常にわたしの前に置かれています。あなたに、あなたのみにわたしは罪を犯し/御目に悪事と見られることをしました」(5~6a)。ダビデは、ウリヤの妻であるバト・シェバと関係を持ち、ウリヤを最前線に送り出して戦死させました。そうであれば、ダビデは誰よりもウリヤに対して罪を犯したはずです。しかし、そのダビデが、「あなたに、あなたのみにわたしは罪を犯し/御目に悪事と見られることをしました」と言うのです。これは、人に対する罪が同時に神に対する罪であることを教えています。さらには、罪とは何よりも神さまに対するものであることを教えているのです。

 ヤコブは、続けて、「もし律法を裁くなら、律法の実践者ではなくて、裁き手です」と記します。律法を裁くとは、その律法が従うに値するかどうかを判断するということです。そのように律法を裁くことは、律法を定めることでもあります。そうであれば、律法を裁く人は、律法に従う実践者ではなく、律法の上にいる制定者ということになります。兄弟を裁く人は、律法を裁く人であり、自分を律法の制定者である神と等しい者にしているのです。ヤコブは、6節で、「神は高慢な者を敵とされる」と記しました。また、10節で、「主の前にへりくだりなさい」と記しました。けれども、私たちが兄弟姉妹の悪口を言い、裁いているならば、それは自分を律法の制定者である神と等しい者とする高慢であるのです。『創世記』の第3章に記されているアダムの罪は、まさにそのような罪でありました。アダムは神さまから一つの掟を与えられていました。それは、「園のすべての木から取って食べなさい。ただし、善悪の知識の木からは、決して食べてはならない。食べると必ず死んでしまう」という掟でありました(創世2:16,17)。アダムの助け手である女は、この神さまの掟に背いて、禁じられていた木の実を食べてしまいました。また、アダムも女の手から禁じられた木の実を受け取って食べてしまいました。どうして、女とアダムは、神さまの掟に背いて、禁じられていた木の実を食べてしまったのでしょうか。それは、蛇(悪魔)の誘惑があったからです。蛇は女にこう言いました。「決して死ぬことはない。それを食べると、目が開け、神のように善悪を知るものとなることを神はご存じなのだ」(創世3:4)。蛇は先ず、神さまが言われたことを真っ向から否定しました。神さまは、「食べると必ず死ぬ」と言われましたが、蛇は「決して死ぬことはない」と言うのです。そして、神さまがその木の実を禁じられた理由について考えさせるのです。女は蛇の言葉を真に受けて、神さまの命令が不当であるかのように考えるわけです。そのように女は神さまの掟を裁くわけですね。従うべき掟か、従わなくてもよい掟か、そのような判断を始めるわけです。そして、女は、神の掟よりも、自分の欲望に従うわけです。それは単に食べてみたいという食欲だけではありません。神のように善悪を知る者になりたいという欲望であります。その欲望を神さまの掟の上に置くことによって、女は自分を律法の制定者、神と等しい者としたのです。同じ思考のプロセスが、はじめの人アダムにおいても言えます。アダムがエデンの園で犯した罪は、特別な罪でありました。しかし、私たちは、兄弟姉妹を裁くことによって、同じような罪を犯しているのです。兄弟姉妹を裁くことによって、律法を裁き、自分を律法の制定者である神に等しい者としているのです。

 ヤコブは、12節で、「律法を定め、律法を行う方は、おひとりだけです」と記します。それは言うまでもなく、神さまのことです。神さまは救うことも滅ぼすこともおできになる、まことの裁き主であられます。私たちは、救うことも滅ぼすこともできないにも関わらず、自分を律法の裁き手の位置に置いて、隣人を裁いているのです。神さまから「隣人を自分のように愛しなさい」という掟を与えられているにも関わらず、隣人を裁いて、罪に定めているのです。そのような私たちはいったい何者でしょうか。そのような私たちは、神の掟に背いて、神のように振る舞うアダムであるのです。

 使徒パウロも、『ローマの信徒への手紙』の第14章4節で同じようなことを記しています。「他人の召し使いを裁くとは、いったいあなたは何者ですか。召し使いが立つのも倒れるのも、その主人によるのです。しかし、召し使いは立ちます。主は、その人を立たせることがおできになるからです」。パウロが兄弟姉妹を裁いてはならないと記すとき、「あなたがたは僕同士であり、神さまだけが主人であるのだから、裁いてはならない。あなたは自分が僕であることを忘れて、主人であるかのように裁いてはならない」と記しています。資格(身分、立場)の問題として、裁きを禁じているわけです。けれども、ヤコブが「兄弟を裁いてはならない」と記すとき、それは神さまの掟との関係から禁じているわけです。兄弟を裁くこと、それは律法を裁くことであり、自分を律法の制定者である神と等しい者とする、アダムの罪を犯していることになるのです。しかし、そうであってはなりません。なぜなら、私たちは、最初のアダムにではなく、最後のアダムであるイエス・キリストに結ばれている者たちであるからです。

2.なすべき善を知りながら

 13節から17節までをお読みします。

 よく聞きなさい。「今日か明日、これこれの町へ行って一年間滞在し、商売をして金もうけをしよう」と言う人たち、あなたがたには自分の命がどうなるか、明日のことは分からないのです。あなたがたは、わずかの間現れて、やがて消えて行く霧にすぎません。むしろ、あなたがたは、「主の御心であれば、生き永らえて、あのことやこのことをしよう」と言うべきです。ところが、実際は、誇り高ぶっています。そのような誇りはすべて、悪いことです。人がなすべき善を知りながら、それを行わないのは、その人にとって罪です。

 ここでヤコブは、誇り高ぶることを戒めています。ここで戒められている誇り高ぶりとは、神さまを抜きにして、物事を計画し、そのとおりになると考えることです。「今日か明日、これこれの町へ行って、一年間滞在し、商売をして金もうけをしよう」と言う人たちは、自分が一年先も生きていることを前提にしています。しかし、実際、彼らは自分の命がどうなるか、明日のことも分からないのです。人間は誰しも、わずかの間現れて、やがて消えて行く霧のような存在であります。ですから、私たちはこう言うべきであるのです。「主の御心であれば、生き永らえて、あのことやこのことをしよう」。もちろん、私たちも、1年先、あるいは5年先、10年先と自分が生きていることを前提にして、計画を立てます。しかし、そのとき、私たちは、自分の命がどうなるか、明日のことも分からないことを忘れてはならないのです。自分が霧のようなはかない存在であることを心に留めて、一日一日を神さまの御手からいただき、「主の御心であれば、生き永らえて、あのことやこのことをしよう」と言うべきであるのです。これは言い換えれば、自分の計画に神さまの働く余地を残しておく、ということです。もっと言えば、神さまが自分について計画しておられることを祈り求めるということです(自分の計画についても神さまを中心にして考える)。そのとき、私たちがしたいと願う、あのことやこのことは、主の御心に適うことになるはずです。主の御心によって生かされているのですから、私たちは、主の御心に適ったあのことやこのことをしようと願うのです。では、主の御心に適ったこととは何でしょうか。ヤコブは17節でこう記しています。「人がなすべき善を知りながら、それを行わないのは、その人にとって罪です」。罪とは神の掟に背くことだけではなくて、神さまの掟を行わないことでもあるのです。何もしなければ罪を犯さないかと言えば、そうではありません。なすべき善を知りながら、それを行わないのは、その人にとって罪であるのです(怠慢の罪というものがある)。このことは、『マタイによる福音書』の第25章で、イエスさまが教えておられることでもあります。新約の51ページです。41節から46節までをお読みします。

 それから、王は左側にいる人たちにも言う。「呪われた者ども、わたしから離れ去り、悪魔とその手下のために用意してある永遠の火に入れ。お前たちは、わたしが飢えていたときに食べさせず、のどが渇いたときに飲ませず、旅をしていたときに宿を貸さず、裸のときに着せず、病気のとき、牢にいたときに、訪ねてくれなかったからだ。」すると、彼らも答える。「主よ、いつわたしたちは、あなたが飢えたり、渇いたり、旅をしたり、裸であったり、病気であったり、牢におられたりするの見て、お世話をしなかったでしょうか。」そこで、王は答える。「はっきり言っておく。この最も小さい者の一人にしなかったのは、わたしにしてくれなかったことなのである。」こうして、この者どもは永遠の罰を受け、正しい人たちは永遠の命にあずかるのである。

 ここで、左側にいる人たちは、積極的に神の掟に背いてはいません。彼らは、なすべき善をしなかったのです。すなわち、彼らは、「隣人を自分のように愛しなさい」と命じられていたにもかかわらず、兄弟姉妹が飢えていても、食べ物を与えなかったのです。彼らは、イエスさまを主と呼びながら、イエスさまの掟に従わなかったのです。彼らはその行いにおいて、自分たちがイエスさまの僕であることを否定していたのです。

 今朝の御言葉に戻ります。新約の426ページです。

 「人がなすべき善を知りながら、それを行わないのは、その人にとって罪です」。このヤコブの言葉について、ある研究者は、ここでヤコブは聞く者の責任について記していると述べています。これまでヤコブは、教える者、教師の責任について記してきました。しかし、ここでヤコブは、教えを受ける者の責任について記すのです。私たちが知っているなすべき善、それは何よりも、「隣人を自分のように愛しなさい」という神さまの御心です。その神さまの御心を、イエス・キリストが私たちに対して行ってくださいました。そうであるならば、私たちも、隣人を自分のように愛すべきであるのです。私たちが生き永らえるとすれば、それは、私たちが隣人を自分のように愛する者として、あのことやこのことをするためであるのです。

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