神に服従せよ 2020年6月21日(日曜 朝の礼拝)
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神に服従せよ
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- 村田寿和 牧師
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ヤコブの手紙 4章1節~10節
聖書の言葉
4:1 何が原因で、あなたがたの間に戦いや争いが起こるのですか。あなたがた自身の内部で争い合う欲望が、その原因ではありませんか。
4:2 あなたがたは、欲しても得られず、人を殺します。また、熱望しても手に入れることができず、争ったり戦ったりします。得られないのは、願い求めないからで、
4:3 願い求めても、与えられないのは、自分の楽しみのために使おうと、間違った動機で願い求めるからです。
4:4 神に背いた者たち、世の友となることが、神の敵となることだとは知らないのか。世の友になりたいと願う人はだれでも、神の敵になるのです。
4:5 それとも、聖書に次のように書かれているのは意味がないと思うのですか。「神はわたしたちの内に住まわせた霊を、ねたむほどに深く愛しておられ、
4:6 もっと豊かな恵みをくださる。」それで、こう書かれています。「神は、高慢な者を敵とし、/謙遜な者には恵みをお与えになる。」
4:7 だから、神に服従し、悪魔に反抗しなさい。そうすれば、悪魔はあなたがたから逃げて行きます。
4:8 神に近づきなさい。そうすれば、神は近づいてくださいます。罪人たち、手を清めなさい。心の定まらない者たち、心を清めなさい。
4:9 悲しみ、嘆き、泣きなさい。笑いを悲しみに変え、喜びを愁いに変えなさい。
4:10 主の前にへりくだりなさい。そうすれば、主があなたがたを高めてくださいます。ヤコブの手紙 4章1節~10節
メッセージ
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序
前回(5月17日)、私たちは、「上から出た知恵」について学びました。「上から出た知恵」とは「神さまから出た知恵」であり、イエス・キリストの聖霊によって与えられる知恵であります。第3章17節にこう記されていました。「上から出た知恵は、何よりもまず、純真で、更に、温和で、優しく、従順なものです。憐れみと良い実に満ちています。偏見はなく、偽善的でもありません」。このような上からの知恵に私たちが生きるとき、私たちは平和の内に、イエス・キリストの福音を宣べ伝えていくことができるのです。
今朝の御言葉はその続きとなります。
1.争いの原因
第4章1節から3節までをお読みします。
何が原因で、あなたがたの間に戦いや争いが起こるのですか。あなたがた自身の内部で争い合う欲望が、その原因ではありませんか。あなたがたは、欲しても得られず、人を殺します。また、熱望しても手に入れることができず、争ったり戦ったりします。得られないのは、願い求めないからで、願い求めても、与えられないのは、自分の楽しみのために使おうと、間違った動機で願い求めるからです。
この手紙の宛先である教会では、争いが起こっていたようです。これまでの文脈から考えると、多くの人が教師になることによって、党派争いが生じていたようです。ヤコブは、そのような争いの原因が「あなたがた自身の内部で争い合う欲望」であると記します。「あなたがた自身の内部で争い合う欲望」とは、「あなたがたの体の中で戦う欲望」のことです(新改訳2017参照)。私たち一人一人の体の中でうごめく欲望が、私たちの交わりに争いを起こすのです。私たちはイエス・キリストにあって神さまの御前に正しい者、聖なる者とされています。けれども、私たちの体の中には悪しき欲望がうごめいているのです。そして、その私たちの体の中にうごめく悪しき欲望によって、教会の交わりに争いが起こってしまうのです。
ヤコブは2節で、「あなたがたは、欲しても得られず、人を殺します」と記しています。これは文字通りの意味ではなく、譬えでしょう。イエスさまは、兄弟に腹を立てることや兄弟を軽んじることも、神さまの目には人を殺すことであると教えられました(マタイ5:21,22参照)。教会において、自分の欲望を満たすために、兄弟に腹を立てたり、兄弟を軽んじる争いが起こっていたのです。それにしても、彼らは何を欲し、熱望していたのでしょうか。これまでの文脈から考えるならば、教師としての指導者的立場に立つことであると思います。そうすると、彼らの体の中でうごめく欲望とは、自分を大いなる者にしようとする自己顕示欲、名誉欲であると言えます。そうしますと、願い求めるように言われているのは、教師に必要とされる「上から出た知恵」であるのです。ヤコブは、名誉欲を満たそうと争い合う人たちに、教師に必要とされる上からの知恵を願い求めよと記し、さらには、願い求める動機について記します。イエスさまは、「信じて祈るならば、求めるものは何でも得られる」と言われました(マタイ21:22)。けれども、ヤコブはそこに一つの条件をつけています。「願い求めても、与えられないのは、自分の楽しみのために使おうと、間違った動機で願い求めるからです」。神さまは、祈りをささげる私たちの心、その動機を見ておられます。そして、その動機が自己中心的な間違った動機であるならば、与えてはくださらないのです。私たちは、神さまに欲しているものを願い求めるだけではなく、その動機を自己吟味することが求められるのです。何のために自分はそのことを欲しているのか。それが自分の楽しみのためなのか。それとも、神さまの栄光のためなのか。そのような自己吟味によって、私たちは祈りの姿勢を正していく必要があるのです。
2.世の友は神の敵
4節から6節までをお読みします。
神に背いた者たち、世の友となることが、神の敵となることだとは知らないのか。世の友になりたいと願う人はだれでも、神の敵になるのです。それとも、聖書に次のように書かれているのは意味がないと思うのですか。「神はわたしたちの内に住まわせた霊を、ねたむほどに深く愛しておられ、もっと豊かな恵みをくださる。」それで、こう書かれています。「神は、高慢な者を敵とし、謙遜な者には恵みをお与えになる。」
これまでヤコブは、「わたしの兄弟たち」と親しく呼びかけてきました。しかし、ここでは、「神に背いた者たち」と厳しく呼びかけています。「神に背いた者たち」と訳されている言葉は、元の言葉を直訳すると「姦淫する女たち」と記されています。旧約聖書を読みますと、神さまとイスラエルの民との関係が夫婦に譬えて記されています。ですから、「姦淫する女たち」とは、神さまの契約の民でありながら、他の神々を礼拝する者たちのことであるのです。ここで言えば「世を友として愛する者たち」のことです。ここでの「世」は神さまの敵である悪魔が支配している領域を指しています。『マタイによる福音書』の第4章に、イエスさまが荒れ野で悪魔から誘惑を受けたことが記されています。悪魔はイエスさまを非常に高い山に連れて行き、世のすべての国々と繁栄ぶりを見せて、こう言いました。「もし、ひれ伏してわたしを拝むなら、これをみんな与えよう」(マタイ4:9)。悪魔は、自分を拝むならば世の繁栄を与えると言いました。その悪魔が支配している世を友として愛する人は、神さまの敵となるのです。なぜなら、世を支配している悪魔は神さまの敵であるからです(一ヨハネ5:19参照)。世の友となって、同時に神さまの友となることはできません(マタイ6:24参照)。ヤコブが記しているとおり、「世の友になりたいと願う人はだれでも、神の敵になるのです」。ヤコブは、私たちが世の友となって、神の敵とならないように、聖書の御言葉を引用します。「神はわたしたちの内に住まわせてくださった霊を、ねたむほどに深く愛しておられ、もっと豊かな恵みをくださる」。このままの御言葉が聖書のどこかに記されているわけではありません。しかし、神さまが熱情の神、ねたむ神であることは、聖書に記されています。『出エジプト記』の第34章14節にこう記されています。「他の神にひれ伏してはならない。主はその名を妬みと言い、妬む神だからである」(聖書協会共同訳)。ヤコブが、「神は私たちの内に住まわせてくださった霊を、ねたむほどに深く愛しておられる」と記すとき、その霊とは、私たち人間に与えられている霊のことです。『創世記』の第2章7節に次のように記されています。「主なる神は、土(アダマ)の塵で人(アダム)を形づくり、その鼻に命の息を吹き入れられた。人はこうして生きる者となった」。ここでの「息」(ルーアッハ)は「霊」とも訳せます。人は神さまから命の霊を吹き入れられて生きる者となったのです。ですから、ねたむほどの神さまの愛は、すべての人に向けられているわけです。創造主である神さまの愛が被造物であるすべての人間に向けられている。それゆえ、神さまはすべての人に御自分だけを神として崇めることを求められるのです。6節に、「もっと豊かな恵みをくださる」とありますが、「もっと豊かな恵み」とは、世の終わりに賜物として与えられる神の霊、聖霊のことです。神さまは、私たち人間に命の霊を与えて生きる者としてくださいました。これは大きな恵みであります。しかし、神さまはさらに大きな恵みを、御自分の霊である聖霊を与えてくださるのです。そして、この聖霊こそが、上からの知恵であり、まことの平和であるのです。『ヨハネによる福音書』の第14章で、イエスさまは次のように言われました。「わたしは、平和をあなたがたに残し、わたしの平和を与える。わたしはこれを、世が与えるように与えるのではない」(ヨハネ14:27)。世は神さまとの平和を与えることはできません。しかし、神さまは、イエス・キリストを通して、御自分との平和を与えてくださるのです。イエス・キリストの聖霊にある父と子との親しい交わり、永遠の命を与えてくださるのです。
6節後半は、『箴言』の第3章34節からの引用であります。「神は高慢な者を敵とし、謙遜な者には恵みをお与えになる」。高慢な者とは、神なしでも生きていけると考えて、世の友となる者のことです。ヤコブは「世の友となることは神の敵となることだ」と記しました。それは、世の友となる者が神さまの御前に驕り高ぶっているからです。「神なしでも、生きていける」と考えるならば、その人は神さまの御前に傲慢であるのです。そのような高慢な者を神さまは敵と見做されます。しかし、謙遜な者、へりくだる者には、恵みを与えてくださるのです。神さまなしでは生きていけないことを認めて、神さまに依り頼むならば、神さまはその人に恵みを与えてくださる。人間同士の争いや戦いによっては決して手に入れることのできない、上からの知恵と神さまとの平和を、イエス・キリストを通して与えてくださるのです。
3.神に服従せよ
7節から10節までをお読みします。
だから、神に服従し、悪魔に反抗しなさい。そうすれば、悪魔はあなたがたから逃げて行きます。神に近づきなさい。そうすれば、神は近づいてくださいます。罪人たち、手を清めなさい。心の定まらない者たち、心を清めなさい。悲しみ、嘆き、泣きなさい。笑いを悲しみに変え、喜びを愁いに変えなさい。主の前にへりくだりなさい。そうすれば、主があなたがたを高めてくださいます。
神さまは、高慢な者を敵とし、謙遜な者には恵みをお与えになります。それゆえ、ヤコブは、「だから、神に服従し、悪魔に反抗しなさい」と記します。神さまに服従することと、悪魔に反抗することは一つのことです。なぜなら、神さまと悪魔は敵対関係にあるからです。神さまに服従することによって、悪魔に反抗することが私たちにも求められているのです。それは、私たちの体の中で戦う欲望を悪魔の誘惑によって満たそうとしないことです。積極的に言えば、私たちの体の中で戦う欲望を、御言葉に従って制御するということです。私たちが神さまに従うとき、悪魔は私たちから逃げていきます。神さまに従うとは、私たちが神の王的支配に服することですから、そこに悪魔の居場所はもはやないのです。また、私たちが神さまに近づくならば、神さまも私たちに近づいてくださいます。『ルカによる福音書』の第15章に記されている放蕩息子(失われた息子)の譬えが教えているように、私たちが神さまに立ち帰るならば、神さまの方から駆け寄ってくださり、抱きしめてくださるのです(神さまに立ち帰るとは、神さまが遣わされたイエス・キリストを信じること!)。私たちは神さまに近づく者として、自分の罪を告白し、その行いを正さなければなりません。また、世と神を天秤にかけるような二心を清めて、神さまだけに依り頼む者とならねばならないのです。9節に、「悲しみ、嘆き、泣きなさい。笑いを悲しみに変え、喜びを愁いに変えなさい」とあります。これは罪人たち、二心の者たちに悔い改めを迫る言葉です。ここでヤコブは神なしの生き方、世を友として愛する生き方からの徹底的な悔い改めを求めています。私たちが悔い改めて、主の御前にへりくだって、主イエス・キリストを信じて歩むとき、主が私たちを高めてくださるのです(フィリピ2:6~11参照)。私たちは自分で自分を高くする必要はありません。へりくだって、主イエス・キリストを信じるならば、神さまは私たちを高めてくださる。主イエス・キリストと共に天の玉座に着かせてくださるのです。