上から出た知恵 2020年5月17日(日曜 朝の礼拝)

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上から出た知恵

日付
説教
村田寿和 牧師
聖書
ヤコブの手紙 3章13節~18節

聖句のアイコン聖書の言葉

3:13 あなたがたの中で、知恵があり分別があるのはだれか。その人は、知恵にふさわしい柔和な行いを、立派な生き方によって示しなさい。
3:14 しかし、あなたがたは、内心ねたみ深く利己的であるなら、自慢したり、真理に逆らってうそをついたりしてはなりません。
3:15 そのような知恵は、上から出たものではなく、地上のもの、この世のもの、悪魔から出たものです。
3:16 ねたみや利己心のあるところには、混乱やあらゆる悪い行いがあるからです。
3:17 上から出た知恵は、何よりもまず、純真で、更に、温和で、優しく、従順なものです。憐れみと良い実に満ちています。偏見はなく、偽善的でもありません。
3:18 義の実は、平和を実現する人たちによって、平和のうちに蒔かれるのです。ヤコブの手紙 3章13節~18節

原稿のアイコンメッセージ

 前回(3月15日)、私たちは、多くの人が教師になってはならないこと。教師は言葉で過ちを犯す点において、他の人よりも厳しい裁きを受けることを学びました。言葉で過ちを犯すことは、教師だけではなく、すべての人間において当てはまります。8節にありますように、「舌を制御できる人は一人もいません」。私たちは父である神さまを賛美した舌で、神にかたどって造られた人間を呪うのです。ヤコブはそのようなことがあってはならない。神さまを賛美するあなたがたは、神さまに似せて造られた人間にも良い言葉を語るようにと記すのです。では、どうしたら、私たちは人間にも良い言葉を語ることができるのでしょうか?ヤコブは今朝の御言葉で上からの知恵について記すのです。

1.知恵にふさわしい柔和な行い

 13節をお読みします。

 あなたがたの中で、知恵があり分別があるのはだれか。その人は、知恵にふさわしい柔和な行いを、立派な生き方によって示しなさい。

 この御言葉は、多くの人が教師になりたがっていることを背景にしています。3章1節に、「わたしの兄弟たち、あなたがたのうち多くの人が教師になってはなりません」とあるように、多くの人が教師になりたがっていたのです。そして、そのことが教会の中に争いを引き起こしていたようです。ヤコブは、9節と10節で、「わたしたちは舌で、父である主を賛美し、また、舌で、神にかたどって造られた人間を呪います。同じ口から賛美と呪いが出て来るのです。わたしの兄弟たち、このようなことがあってはなりません」と記しました。ヤコブがこのように記したのは、実際に、教会において、神さまを賛美しながら、人間を呪う者たちがいたからです。第4章11節には、「兄弟たち、悪口を言い合ってはなりません」とはっきりと書いてあります。また、教会の中に争いが生じていたことも、第4章1節に、「何が原因で、あなたがたの間に戦いや争いが起こるのですか」とはっきりと書いてあります。教会の中に争いが起こる。それは、コリントにある教会だけではありません。ヤコブの手紙の宛先の教会にも争いが生じていたのです。そして、同じことが、現代の教会においても言えるのです。

 一つの教会で多くの人が教師になるとどうなるか?考えられる一つのことは、党派(派閥)が生まれるということです。『コリントの信徒への手紙一』の第1章を読むと、コリントの教会の人々が、「わたしはパウロにつく」「わたしはアポロに」「わたしはケファに」「わたしはキリストに」などと言って争っていたことが記されています。そのような党派争いが起こる危険があるのです。特に、教師になろうとする人がねたみ深く利己的な場合は、そのような危険が高いわけです。そのようなことを踏まえて、ヤコブは、13節で、「あなたがたの中で、知恵があり分別があるのはだれか。その人は、知恵にふさわしい柔和な行いを、立派な生き方によって示しなさい」と記すのです。「知恵があり分別がある」こと、これは教師に求められることです(申命1:13も参照)。多くの人が教師になりたがっている教会に対して、ヤコブは、「あなたがたの中で、知恵があり分別があるのかだれか」と問うのです。そして、「その人は、知恵にふさわしい柔和な行いを、立派な生き方によって示しなさい」と記すのです。これはヤコブらしい言葉ですね。ヤコブは、「行いが伴わないなら、信仰はそれだけでは死んだものです」と記しました(2:17)。また、「わたしは行いによって、自分の信仰を見せましょう」とも記しました(2:18)。そのヤコブが、ここでは、「知恵があり分別がある人は、知恵にふさわしい柔和な行いを、立派な生き方によって示しなさい」と記すのです。ここでヤコブは、知恵がある人の特徴として、「柔和な行い」をあげています。「柔和」という言葉を『広辞苑』で引くと、「性質・態度がやさしくおとなしいこと」とあります。しかし、『聖書』において「柔和」とは、「神さまの御前にへりくだっていること、謙遜であること」を意味します。柔和な行い、謙遜な行いが、知恵にふさわしいことは、イエス・キリストのことを考えるならばよく分かります。神の知恵であり、ソロモンにまさる知恵を持つイエス・キリストは、柔和で謙遜な御方であります。イエス・キリストは、『マタイによる福音書』の第11章28節と29節でこう言われました。「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。わたしは柔和で謙遜な者だから、わたしの軛を負い、わたしに学びなさい」。イエスさまは、柔和で謙遜な御方であるのです。そして、神の賜物である知恵は、柔和で謙遜なイエス・キリストを通して与えられるのです。それゆえ、知恵ある者にふさわしいのは、神さまの御前にへりくだった心であり、へりくだった心から生じる善き生活であるのです。

2.地上の知恵

 14節から16節までをお読みします。

 しかし、あなたがたは、内心ねたみ深く利己的であるなら、自慢したり、真理に逆らってうそをついたりしてはなりません。そのような知恵は、上から出たものではなく、地上のもの、この世のもの、悪魔から出たものです。

 ここでヤコブは、神さまから出たのではない、地上の知恵について記しています。もし、心の中に苦々しいねたみと自分の利益だけを求める心があるならば、その人は、「わたしは知恵がある」と自慢したり、真理に逆らってうそをついてはならない、とヤコブは記すのです。内心ねたみ深く利己的である人が、「わたしは知恵がある」と言うことは、真理に逆らってうそをつくことであるのです。なぜなら、神さまから出た知恵は、苦々しい嫉みとも、また、自己中心の思いとも関係がないからです。それでも、「わたしには知恵がある」と言うならば、そのような知恵は、神さまからのものではなく、地上のもの、この世のもの、悪魔から出たものであるのです。ヤコブは、16節で、「ねたみや利己心のあるところには、混乱やあらゆる悪い行いがあるからです」と記していますが、ここにも、心にあることが行いにおいて現されるという考え方があります。「わたしには知恵がある」と言っても、その人によって教会の中に混乱が生じたり、その人の教えによって教会の中に悪い行いが生じるならば、その人の知恵は、地上のもの、この世のもの、悪魔から出たものであるのです。なぜなら、神の敵である悪魔は、キリストの教会に混乱を生じさせ、神さまの御業を台無しにしようとするからです。

3.上から出た知恵

 17節と18節をお読みします。

 上から出た知恵は、何よりもまず、純真で、更に、温和で、優しく、従順なものです。憐れみと良い実に満ちています。偏見はなく、偽善的でもありません。義の実は、平和を実現する人たちによって、平和のうちに蒔かれるのです。

 ここで、ヤコブは上から出た知恵、神さまを源とする知恵について記しています。神さまから賜物として授けられる知恵は、純真で、温和で、優しく、従順なものであります。「純真」とは「清い」ということです。また、「温和」とは「平和」のことです。「優しく」とは「寛容」(人をゆるし受け入れること)のことです。「従順」とは「温順」(自分の考えに固執せずに、すぐに従うこと)です。これらの知恵は、教会に一致と平和をもたらします。この世の知恵が教会に混乱と争いをもたらすのに対して、上からの知恵は教会に一致と平和をもたらすのです。このような知恵を、教師ばかりでなく、すべての信徒が祈り求めるべきであるのです。ヤコブはそのことについて、第1章5節に記していました。「あなたがたの中で知恵の欠けている人がいれば、だれにでも惜しみなくとがめだてしないでお与えになる神に願いなさい。そうすれば、与えられます」。私たちは、神さまに知恵を与えてくださいと祈り求めたいと思います。そして、神さまから与えられた知恵によって、憐れみと良い実を結ぶ生活を送りたいと願います。

 ヤコブは、上から出た知恵には、「偏見はなく、偽善的でもありません」と記します。ヤコブはこれまで、教会の中の偏見について記してきました。ヤコブは第2章1節で、こう記していました。「わたしの兄弟たち、栄光に満ちた、わたしたちの主イエス・キリストを信じながら、人を分け隔てしてはなりません」。教会において、貧しい人たちが軽んじられ、富んでいる人たちが重んじられていたのです。そのような偏見が教会の中にはびこっていたのです。それは、教会が上からの知恵に生きていないからですね。また、ヤコブは、教会の中の偽善について記してきました。教会には、信仰を持っていると言いながらも、行いが伴わない者たちがいたのです。なぜ、そのような偽善的な主張がまかり通るのか。それは、教会が上からの知恵に生きていないからです(一コリント13章の「愛の賛歌」参照)。

 ヤコブは18節で、「義の実は、平和を実現する人たちによって、平和のうちに蒔かれるのです」と記します。私は先程、17節の「温和」は「平和」とも訳されると申しましたが、ここに繋がっているわけですね。ですから、「平和を実現する人たち」とは、上から出た知恵に生きる人たちであり、教会に一致と平和を形づくる人たちのことです。18節を『新改訳2017』は次のように翻訳しています。「義の実を結ばせる種は、平和をつくる人々によって平和のうちに蒔かれるのです」。「義の実を結ばせる種」とは何でしょうか。それは、「イエス・キリストの福音」のことです。「イエス・キリストの福音は、平和をつくる人々によって、平和のうちに蒔かれる」。そのことが実際に行われている時と場が、イエス・キリストの名においてささげられる礼拝であります。義の実を結ばせる種である「イエス・キリストの福音」は、平和をつくる人々によって、平和のうちに宣べ伝えられるのです。もし、教会員同士が争い合っているならば、福音を宣べ伝えることはできません。なぜなら、イエス・キリストの福音は、和解の言葉であり、平和の福音であるからです(二コリント5:19、エフェソ2:17参照)。私たちが義の実を結ぶイエス・キリストの福音を宣べ伝えるには、教師だけではなくて、すべての信徒が上からの知恵に生きる必要があるのです。私たちが上からの知恵に生きるとき、私たちは平和を実現する神の子として、福音を宣べ伝えることができるのです(マタイ5:9「平和を実現する人々は、幸いである、その人たちは神の子と呼ばれる」参照)。そして、神さまの御心にかなった義の実を、それぞれの生活において結ぶことができるのです。

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