自分の舌を制御せよ 2020年3月15日(日曜 朝の礼拝)

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自分の舌を制御せよ

日付
説教
村田寿和 牧師
聖書
ヤコブの手紙 3章1節~12節

聖句のアイコン聖書の言葉

3:1 わたしの兄弟たち、あなたがたのうち多くの人が教師になってはなりません。わたしたち教師がほかの人たちより厳しい裁きを受けることになると、あなたがたは知っています。
3:2 わたしたちは皆、度々過ちを犯すからです。言葉で過ちを犯さないなら、それは自分の全身を制御できる完全な人です。
3:3 馬を御するには、口にくつわをはめれば、その体全体を意のままに動かすことができます。
3:4 また、船を御覧なさい。あのように大きくて、強風に吹きまくられている船も、舵取りは、ごく小さい舵で意のままに操ります。
3:5 同じように、舌は小さな器官ですが、大言壮語するのです。御覧なさい。どんなに小さな火でも大きい森を燃やしてしまう。
3:6 舌は火です。舌は「不義の世界」です。わたしたちの体の器官の一つで、全身を汚し、移り変わる人生を焼き尽くし、自らも地獄の火によって燃やされます。
3:7 あらゆる種類の獣や鳥、また這うものや海の生き物は、人間によって制御されていますし、これまでも制御されてきました。
3:8 しかし、舌を制御できる人は一人もいません。舌は、疲れを知らない悪で、死をもたらす毒に満ちています。
3:9 わたしたちは舌で、父である主を賛美し、また、舌で、神にかたどって造られた人間を呪います。
3:10 同じ口から賛美と呪いが出て来るのです。わたしの兄弟たち、このようなことがあってはなりません。
3:11 泉の同じ穴から、甘い水と苦い水がわき出るでしょうか。
3:12 わたしの兄弟たち、いちじくの木がオリーブの実を結び、ぶどうの木がいちじくの実を結ぶことができるでしょうか。塩水が甘い水を作ることもできません。ヤコブの手紙 3章1節~12節

原稿のアイコンメッセージ

 前回(2月16日)、私たちは、信仰とは知識の認識にとどまることなく、行いが伴うことをご一緒に学びました。信仰の父アブラハムも、娼婦ラハブも、行いの伴う信仰によって、神さまの御前に正しい者として受け入れられたのです。使徒パウロも言っているように、大切なのは、愛の実践を伴う信仰であるのです(ガラテヤ5:6「キリスト・イエスに結ばれていれば、割礼の有無は問題ではなく、愛の実践を伴う信仰こそ大切です」参照)。

 今朝の御言葉はその続きであります。

1.大言壮語する小さな舌

 第3章1節から5節前半までをお読みします。

 わたしの兄弟たち、あなたがたの多くの人が教師になってはなりません。わたしたち教師がほかの人たちより厳しい裁きを受けることになると、あなたがたは知っています。わたしたちは皆、度々過ちを犯すからです。言葉で過ちを犯さないなら、それは自分の全身を制御できる完全な人です。馬を御するには、口にくつわをはめれば、その体全体を意のままに動かすことができます。また、船を御覧なさい。あのように大きくて、強風に吹きまくられている船も、舵取りは、ごく小さい舵で意のままに操ります。同じように、舌は小さな器官ですが、大言壮語するのです。

 1節のヤコブの言葉を読みますと、この手紙の宛先である教会では、多くの人が御言葉の教師になりたがっていたようです。自分も御言葉を教えたいという人が多かったようです。しかし、ヤコブは、「私の兄弟たち、あなたがたの多くの人が教師になってはなりません」と釘を刺します。そして、その理由として、「わたしたち教師がほかの人たちより厳しい裁きを受けることになると、あなたがたは知っています」と記すのです。「わたしたち教師」とあるように、ヤコブは自分が教師であることを自覚しています。そして、教師である自分がほかの人たちより厳しい裁きを受けることになることを自覚しているのです。では、御言葉の教師は、どのような点で、他の人たちよりも厳しい裁きを受けることになるのでしょうか。それは、「言葉で過ちを犯す」という点においてであります。イエスさまが言われたように、「人は自分の話したつまらない言葉についてもすべて、裁きの日には責任を問われる」ことになるのです(マタイ12:36)。教師がほかの人たちより厳しい裁きを受けることになることは、説教のことを考えればすぐに分かります。聖書の解き明かしである説教において間違った教え(言葉)が語られるならば、キリストの教会は成り立ちません。ですから、御言葉の教師である説教者は、勤勉な準備と祈りをもって、説教原稿の作製に当たるわけです。そして、説教原稿を何度も読み、整えて、礼拝において祈りつつ語るのです(礼拝指針第38条「説教には、研究・黙想・祈りが必要である。牧師は、不謹慎な即興的演説にふけったり、安易な自己主張、軽薄な知識をもって努力なしに神に仕えたりすることなく、聖霊の導きを求めつつ、慎重に説教の準備をなし、福音の単純性を保ち、すべての人が理解できる言葉で、会衆への愛をもって説教する」参照)。しかし、そうであっても、度々過ちを犯すわけです。また、様々な場面において、言葉で過ちを犯してしまうのです(礼拝指針第39条「また、牧師は、説教において語る福音を自らの生活をもって飾り、言葉と行いにおいて信者の模範となるように努める」参照)。そして、言葉で過ちを犯してしまうことは、教師だけではなく、すべてのキリスト者において言えることなのです。2節にありますように、「わたしたちは皆、度々過ちを犯す」のです。ヤコブは、「言葉で過ちを犯さないなら、それは自分の全身を制御できる完全な人です」と記します。そして、その例として、馬の体全体を御するくつわについて、また、大きな船を意のままに操る小さな舵について記すのです。馬のくつわと船の舵の役割を果たしているのが、言葉を発する舌であるのです。5節に、「同じように、舌は小さな器官ですが、大言壮語するのです」とあります。「大言壮語」とは、「実力もないのに大きなことを言うこと」の意味です。新改訳2017では、「大きなことを言って自慢します」と翻訳しています。舌は小さな器官であっても、私たちの生き方全体に大きな役割を担っているのです。そして、舌はしばしば大きなことを言って自慢し、私たちに災いを招くのです(「口は災いの元」)。

2.不義の世界である舌

 5節後半から8節までをお読みします。

 御覧なさい。どんなに小さな火でも大きい森を燃やしてしまう。舌は火です。舌は「不義の世界」です。わたしたちの体の器官の一つで、全身を汚し、移り変わる人生を焼き尽くし、自らも地獄の火によって燃やされます。あらゆる種類の獣や鳥、また這うものや海の生き物は、人間によって制御されていますし、これまでも制御されてきました。しかし、舌を制御できる人は一人もいません。舌は疲れを知らない悪で、死をもたらす毒に満ちています。

 ヤコブは、舌を火に譬えて、私たちの生き方にどれほど大きな災いをもたらすかを記します。「舌は『不義の世界』です」とありますように、私たち人間の罪は、舌によって力を振るうのです。このことは、イエスさまが教えられたことでもあります。イエスさまは、「口から出て来るもの(言葉)は、心から出て来るので、これこそ人を汚す。悪意、殺意、姦淫、みだらな行い、盗み、偽証、悪口などは、心から出て来るからである。これが人を汚す」と言われました(マタイ15:18~20)。私たちの心にある罪は、言葉となってあらわとなるのです。その言葉を発する舌は、私たちの体の器官の一つでありながら、私たちの全身を汚し、移り変わる人生を焼き尽くし、自らも地獄の火に燃やされるのです。ヤコブが「舌は火です」というとき、その「火」は、私たちを滅ぼす地獄の火であるのです(「舌の剣は命を絶つ」)。

 また、ヤコブは、人間があらゆる種類の獣や鳥、また這うものや海の生き物を制御してきたのに対して、舌を制御できる人は一人もいないと記します。ここでヤコブは創世記の第9章に基づいて記しています。創世記の第9章1節から7節までをお読みします。旧約の11ページです。

 神はノアと彼の息子たちを祝福して言われた。「産めよ、増えよ、地に満ちよ。地のすべての獣と空のすべての鳥は、地を這うすべてのものと海のすべての魚と共に、あなたたちの前に恐れおののき、あなたたちの手にゆだねられる。動いている命あるものは、すべてあなたたちの食糧とするがよい。わたしはこれらすべてのものを、青草と同じようにあなたたちに与える。ただし、肉は命である血を含んだまま食べてはならない。また、あなたたちの命である血が流された場合、わたしは賠償を要求する。いかなる獣からも要求する。人間どうしの血については、人間から人間の命を賠償として要求する。人の血を流す者は/人によって自分の血を流される。人は神にかたどって造られたからだ。あなたたちは産めよ、増えよ/地に群がり、地に増えよ。」

 このように、神さまは御自分にかたどって造られた人の手に、地のすべての獣と空のすべての鳥と地を這うすべてのものと海のすべての魚をゆだねられたのです。

 今朝の御言葉に戻ります。新約の424ページです。

 人間はあらゆる種類の鳥や、また這うものや海の生き物を制御してきました。しかし、私たち人間はだれ一人として、自分の舌を制御することはできないのです。このヤコブの教えは、「正しい人は一人もいない」という使徒パウロの教えと通じるものであります。パウロはローマの信徒への手紙の第3章で、「ユダヤ人もギリシア人も皆、罪の下にあるです」と記した後で、旧約聖書の詩編から自由に引用しています。その詩編の中で、パウロはこう記しています。「彼らののどは開いた墓であり、彼らは舌で人を欺き、その唇には蝮の毒がある。口は、呪いと苦味で満ち」ている(ローマ3:13,14、詩140:4LXX、10:7LXX参照)。パウロにとっても、人間の罪は、舌によって大きく力を振るうのです。私たち人間の舌は、疲れを知らない悪で、死をもたらす毒に満ちているのです。

3.二枚舌に対する戒め

 9節から12節までをお読みします。

 わたしたちは舌で、父である主を賛美し、また、舌で、神にかたどって造られた人間を呪います。同じ口から賛美と呪いが出て来るのです。わたしの兄弟たち、このようなことがあってはなりません。泉の同じ穴から、甘い水と苦い水がわき出るでしょうか。わたしの兄弟たち、いちじくの木がオリーブの実を結び、ぶどうの木がいちじくの実を結ぶことができるでしょうか。塩水が甘い水を作ることもできません。

 ここでの「わたしたち」は、人間一般ではなく、イエス・キリストを信じる私たちキリスト者のことです。私たちは舌で、父である主を賛美します。そして、その同じ舌で神にかたどって造られた人間を呪うのです。同じ口から賛美(良い言葉・祝福)と呪いが出て来るのです。ヤコブは、そのような二枚舌、舌の二重基準(ダブルスタンダート)を厳しく戒めています。同じ口から賛美と呪いが出て来る。そのようなことは、神さまがお造りになった泉や植物にも見られないことです。11節と12節の疑問文は、いずれも否定の答えを期待する疑問文で記されています(否定詞で始まる疑問文)。泉の同じ穴から、甘い水と苦い水が湧き出ることはありません。また、いちじくの木がオリーブの実を結び、ぶどうの木がいちじくの実を結ぶこともありません。けれども、私たちの口からは賛美と呪いが出て来るのです。私たちは、イエス・キリストに結ばれて良い木とされているにもかかわらず、悪い実を結んでいるのです。それは真理の言葉によって新しく生まれた私たちにとって、本来あってはならないことであるのです(1:18参照)。

結.自分の舌を制御せよ

 では、私たちは、どうしたらよいのでしょうか。そのヒントが12節の最後に記されています。「塩水が甘い水を作ることもできません」。現代は、科学技術の進歩によって、塩水から飲料水を作ることができます。けれども、紀元1世紀のヤコブの時代、塩水から甘い水を作ることはできませんでした。しかし、そのできないことを、神さまは、私たちにしてくださったのですね。アダムにあって良き創造の状態から堕落した私たちは、そもそも父である主を賛美することのできない者たちでありました。ヤコブは、「同じ口から賛美と呪いが出て来るようであってはいけない」と記していますが、生まれながらの私たちは呪いしか語ることができない者たちであったのです。そのような私たちが、イエス・キリストによって救われて、父である神さまをほめたたえることができるようになったのです。これはまことに大きな恵みです。しかし、ヤコブはそこで満足しません。ヤコブは、父である主を賛美する私たちが、神のかたちに似せて作られた人間にも良い言葉(祝福)を語ることを求めるのです。ヤコブは、私たちが神さまの御心に従って舌を操り、全身を制御できる完全な人になることを求めるのです。そもそも、なぜ、私たちは神さまを賛美した舌で、人間を呪うのでしょうか。それは、人間が神のかたちに似せて造られたという信仰が知識に留まって、行いに至っていないからです。神さまは人間を御自分のかたちに似せて造られたと信じるならば、私たちは、神のかたちに似せて造られた人間にも良い言葉(祝福)を語ることができるのです。

 神さまは、ノアとその子孫と契約を結ばれた際、「人の血を流す者は/人によって自分の血を流される。人は神にかたどって造られたからだ」と言われました(創世9:6)。また、イエスさまは、兄弟に腹を立てて「ばか」という者、兄弟を軽んじて「愚か者」という者は、隠れた殺人者であり、裁きを受けると言われました(マタイ5:21,22参照)。そのことを心に留めて、私たちは人間にも良い言葉を語るべきであるのです(エフェソ4:29「悪い言葉を一切口にしてはなりません。ただ、聞く人に恵みが与えられるように、その人を造り上げるのに役立つ言葉を、必要に応じて語りなさい」参照)。これは、難しいことですね。私たちキリスト者が生涯をかけて取り組むべき課題です。私たちの罪が舌に表れるならば、私たちのうちに働く聖霊の御業、聖化の御業も舌に表れるのです。そのような意味で、舌を制御することは、私たちにとって、聖化のバロメーターと言えるのです。

 ヤコブは、8節で、「舌を制御できる人は一人もいません」と記しました。このことはアダムにあって良き創造の状態から堕落した人間において言えることであり、最後のアダムであるイエスさまは別であります。罪のない御方、罪を犯したことのないイエスさまは、舌を完全に制御された御方であるのです。その具体例を、私たちは、十字架に磔にされたイエスさまの言葉に見ることができます。イエスさまは、御自分を殺そうとする者たちのために、執り成しの祈りをささげられました。「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです」とイエスさまは祈られたのです(ルカ23:34)。それはイエスさまが、御自分を殺そうとする人々にも、神のかたちを見ておられたからです。イエスさまは、父なる神さまを賛美する御方として、神に似せて造られた人間に対しても良い言葉(罪の赦しの執り成し)をお語りになったのです。私たちは、そのイエスさまの聖霊をいただいている者たちとして、舌を制御することが求められているのです。私たちは、神さまと神に似せて造られた人間に対して良い言葉を語ることによって、神さまの祝福の中を歩んで行きたいと願います。

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