行いと共に働く信仰 2020年2月09日(日曜 朝の礼拝)
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行いと共に働く信仰
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- 村田寿和 牧師
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ヤコブの手紙 2章18節~26節
聖書の言葉
2:18 しかし、「あなたには信仰があり、わたしには行いがある」と言う人がいるかもしれません。行いの伴わないあなたの信仰を見せなさい。そうすれば、わたしは行いによって、自分の信仰を見せましょう。
2:19 あなたは「神は唯一だ」と信じている。結構なことだ。悪霊どももそう信じて、おののいています。
2:20 ああ、愚かな者よ、行いの伴わない信仰が役に立たない、ということを知りたいのか。
2:21 神がわたしたちの父アブラハムを義とされたのは、息子のイサクを祭壇の上に献げるという行いによってではなかったですか。
2:22 アブラハムの信仰がその行いと共に働き、信仰が行いによって完成されたことが、これで分かるでしょう。
2:23 「アブラハムは神を信じた。それが彼の義と認められた」という聖書の言葉が実現し、彼は神の友と呼ばれたのです。
2:24 これであなたがたも分かるように、人は行いによって義とされるのであって、信仰だけによるのではありません。
2:25 同様に、娼婦ラハブも、あの使いの者たちを家に迎え入れ、別の道から送り出してやるという行いによって、義とされたではありませんか。
2:26 魂のない肉体が死んだものであるように、行いを伴わない信仰は死んだものです。ヤコブの手紙 2章18節~26節
メッセージ
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序
前回(1月12日)、私たちは、行いの伴わない信仰は私たちを神の裁きから救うことができないことを、主イエス・キリストの教えに遡って、御一緒に学びました。「イエスは主である」という信仰は、主イエスの掟に従う行いをも含んでいます。それゆえ、行いの伴わない信仰は口先だけの信仰であり、役に立たないのです。
今朝の御言葉はその続きであります。
1 行いによって見える信仰
18節をお読みします。
しかし、「あなたには信仰があり、わたしには行いがある」と言う人がいるかもしれません。行いの伴わないあなたの信仰を見せなさい。そうすれば、わたしは行いによって、自分の信仰を見せましょう。
ヤコブは、直前の17節で、「行いが伴わないなら、信仰はそれだけでは死んだものです」と記しました。その反論として、「『あなたには信仰があり、わたしには行いがある』と言う人がいるかもしれません」と記していますが、この反論の言葉は、後の文書とうまくかみ合っていません。この反論の言葉が「わたしには信仰があり、あなたには行いがある」という文であれば、うまくつがなります。しかし、そうなっていないので、解釈が難しいのです。口語訳聖書は、このところを次のように翻訳しています。「しかし、『ある人には信仰があり、またほかの人には行いがある』と言う者があろう」。この口語訳聖書の翻訳は、「あなた」と「わたし」に強調点を置かずに、「信仰」と「行い」に強調点を置いた翻訳となっています。「行いの伴わない信仰もあるのではないか」と反論しているわけですね。そのようは反論に対して、「行いの伴わないあなたの信仰を見せなさい。そうすれば、わたしは行いによって、自分の信仰を見せましょう」と言うのです。ヤコブが言いたいことは、「信仰は行いによって見せることができる。それゆえ、行いの伴わない信仰は見せることができない。つまり、行いの伴わない信仰は無いのだ」ということです。「イエスは主である」と信じていると言っても、主イエスさまの律法に従っていないならば、そのような信仰は無きに等しいのです。
ヤコブの言葉はさらに厳しさを増していきます。行いが伴わない信仰があるならば、それは悪霊どもの信仰だというのです。
19節をお読みします。
あなたは「神は唯一だ」と信じている。結構なことだ。悪霊どももそう信じて、おののいています。
「神は唯一である」。これは、イエスさまが最も重要な掟として引用された『申命記』の第6章に記されています。聖書を開いて確認したいと思います。旧約の291ページです。『申命記』の第6章4節と5節をお読みします。
聞け、イスラエルよ。我らの神、主は唯一の主である。あなたは心を尽くし、魂を尽くし、力を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい。
行いが伴わない信仰もあると考える人は、4節と5節を切り離して、4節でとどまってしまう人です。しかし、イエスさまが律法の中で最も重要な掟であると言われたのは、他ならない、この5節でありました。私たちには、我らの神、主は唯一の主であると告白することと、主の民として心を尽くし、魂を尽くし、力を尽くして、主を愛することが求められているのです。ヤコブの言葉で言えば、行いの伴う信仰が求められているのです。
今朝の御言葉に戻りましょう。新約の423ページです。
「神は唯一だ」と信じるだけならば、それは悪霊と同じであるとヤコブは記します。なぜなら、悪霊ども「神は唯一だ」と信じて、おののいているからです。ある研究者は、神は唯一だと信じて、何もしない人間は、悪霊よりも悪いと記しています。悪霊はおののいているのに、その人は平然としているからです。もっと言えば、自分は信仰を持っていると思い込んで、信仰に伴うはずの行いを否定しているからです。
2 行いと共に働く信仰
20節から24節までをお読みします。
ああ、愚かな者よ、行いの伴わない信仰が役に立たない、ということを知りたいのか。神がわたしたちの父アブラハムを義とされたのは、息子のイサクを祭壇の上に献げるという行いによってではなかったですか。アブラハムの信仰がその行いと共に働き、信仰が行いによって完成されたことが、これで分かるでしょう。「アブラハムは神を信じた。それが彼の義と認められた」という聖書の言葉が実現し、彼は神の友と呼ばれたのです。これであなたがたも分かるように、人は行いによって義とされるのであって、信仰だけによるのではありません。
アブラハムが息子イサクを祭壇の上に献げたことは、『創世記』の第22章に記されています。アブラハムにとって、イサクは約束の子であり、祝福の源となる子でありました。神さまは、アブラハムに、「あなたの子孫を増やして大いなる国民にする」と言われました。その約束はアブラハムと妻サラとの間に産まれたイサクによって実現するのです。しかし、神さまは、そのイサクを焼き尽くす献げ物として献げるようアブラハムに命じられたのです。この主の御言葉にアブラハムは信仰をもって従ったのです。アブラハムが手を伸ばして刃物をとり、イサクを屠ろうとしたとき、主の御使いはこう言いました。「その子に手を下すな。何もしてはならない。あなたが神を畏れる者であることが、今、分かったからだ。あなたは、自分の独り子である息子すら、わたしにささげることを惜しまなかった」(創世22:12)。さらに、主の御使いは次のようにも言いました。「わたしは自らにかけて誓う、と主は言われる。あなたがこの事を行い、自分の独り子である息子すら惜しまなかったので、あなたを豊かに祝福し、あなたの子孫を天の星のように、海辺の砂のように増やそう。あなたの子孫は敵の城門を勝ち取る。地上の諸国民はすべて、あなたの子孫によって祝福を得る。あなたがわたしの声に聞き従ったからである」(創世22:16~18)。このように、アブラハムは息子イサクを祭壇の上に献げる行いによって、義とされたとヤコブは言うのです。しかし、ここで注意したいことは、ヤコブの言う「行い」は、信仰と切り離された行いではありません。続けてヤコブはこう記しているからです。「アブラハムの信仰がその行いと共に働き、信仰が行いによって完成されたことが、これで分かるでしょう。『アブラハムは神を信じた。それが彼の義と認められた』という聖書の言葉が実現し、彼は神の友と呼ばれたのです」。ヤコブは信仰と行いを切り離して考えてはいません。ましてや信仰と行いが対立すると考えてはいません。アブラハムが約束の子であるイサクを祭壇の上に献げることができたのはなぜか。それは、アブラハムが神さまを信じる者であったからだ。その信仰が行いと共に働いて、信仰が行いによって完成されたのだとヤコブは記すのです(ヘブライ11:19「アブラハムは、神が人を死者の中から生き返らせることもおできになると信じたのです」参照)。「アブラハムは神を信じた。それが彼の義と認められた」。これは『創世記』の第15章に記されている御言葉ですが、そのアブラハムの信仰が第22章に記されているイサクを焼き尽くす献げ物として献げるという行いによって実証されたのです。それゆえ、アブラハムは神の友と呼ばれるほどに、神さまから信頼されたのです。
24節に、「これであなたがたも分かるように、人は行いによって義とされるのであって、信仰だけによるのではありません」とあります。このヤコブの言葉は一見すると、使徒パウロの教えと矛盾するのではないかと思われます。けれども、そうではありません。ヤコブが「人は行いによって義とされる」と記すとき、その「行い」は信仰と共に働き、信仰を完成させる行いであるからです。また、ヤコブが「信仰だけによるのではありません」と記すとき、その「信仰だけ」とは行いと切り離された口先だけの信仰であるからです。ですから、ヤコブが教えていることは、「人は行いの伴う信仰によって、義とされるのであって、行いの伴わない信仰によってではない」ということです。
ヤコブの教えとパウロの教えが矛盾していないことは、パウロが記した『ガラテヤの信徒への手紙』からも確認できます。ガラテヤ書の第2章には、パウロがエルサレムに行き、おもだった人たちに、自分が宣べ伝えている福音について話したことが記されています。そして、おもだった人たち、ヤコブとケファとヨハネは、一致のしるしとしてパウロに右手を差し出したのです。このことは、福音の真理において、ヤコブもパウロも一致していることを示しています。また、ガラテヤ書の第5章6節で、パウロはこう記しています。「キリスト・イエスに結ばれていれば、割礼の有無は問題ではなく、愛の実践を伴う信仰こそ大切です」。パウロも、愛において働く信仰の大切さを知っていたのです(口語訳「尊いのは、愛によって働く信仰だけである」参照)。
3 行いが伴わない信仰は死んだもの
25節をお読みします。
同様に、娼婦ラハブも、あの使いの者たちを家に迎え入れ、別の道から送り出してやるという行いによって、義とされたではありませんか。
ヤコブはアブラハムの事例に続けて、娼婦ラハブのことを記します。娼婦ラハブについては、『ヨシュア記』の第2章に記されています。ラハブはエリコに住む異邦人でしたが、主なる神を信じる者でありました。『ヨシュア記』の第2章10節と11節で、ラハブは二人の斥候にこう言っています。「あなたたちがエジプトを出たとき、あなたたちのために、主が葦の海の水を干上がらせたことや、あなたたちがヨルダン川の向こうのアモリ人の二人の王に対してしたこと、すなわち、シホンとオグを滅ぼし尽くしたことを、わたしたちは聞いています。それを聞いたとき、わたしたちの心は挫け、もはやあなたたちに立ち向かおうとする者は一人もおりません。あなたたちの神、主こそ、上は天、下は地に至るまで神であられるからです」。ヤコブは、ラハブの信仰について記していませんが、使いの者たちを家に迎え入れ、別の道から送り出してやるという行いは、ラハブの信仰と共に働いた行いであったのです。よって、ラハブは行いの伴う信仰によって、神さまに正しい者とされたのです(神さまに対して正しい態度をとったという関係概念!)。
26節で、ヤコブは、「魂のない肉体が死んだものであるように、行いを伴わない信仰は死んだものです」と記しています。「魂」と訳されている言葉(プニューマ)は、「息」とも「霊」とも訳せます。息をしていない肉体が死んでいるように、行いを伴わない、口先だけの信仰は死んだものであるのです。「行いを伴わない信仰は死んだものである」。このことは、17節にも記されていました。ヤコブは、二度記すことによって、強調しているのです。私たちの信仰に行いが伴っていないならば、その信仰は死んでいるのです。しかし、信仰に行いが伴うならば、私たちの信仰は生きて働く信仰であり、確かに、復活された主イエス・キリストに結ばれているのです。