行いが伴う信仰 2020年1月12日(日曜 朝の礼拝)

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行いが伴う信仰

日付
説教
村田寿和 牧師
聖書
ヤコブの手紙 2章14節~17節

聖句のアイコン聖書の言葉

2:14 わたしの兄弟たち、自分は信仰を持っていると言う者がいても、行いが伴わなければ、何の役に立つでしょうか。そのような信仰が、彼を救うことができるでしょうか。
2:15 もし、兄弟あるいは姉妹が、着る物もなく、その日の食べ物にも事欠いているとき、
2:16 あなたがたのだれかが、彼らに、「安心して行きなさい。温まりなさい。満腹するまで食べなさい」と言うだけで、体に必要なものを何一つ与えないなら、何の役に立つでしょう。
2:17 信仰もこれと同じです。行いが伴わないなら、信仰はそれだけでは死んだものです。ヤコブの手紙 2章14節~17節

原稿のアイコンメッセージ

 前回(12月8日)、私たちは、人を分け隔てするならば、「隣人を自分のように愛しなさい」という最も尊い律法に違犯していることを学びました。そのことは、私たちが「隣人を自分のように愛しなさい」という律法に従うとき、人を分け隔てすることがなくなることを教えています。私たちは、「隣人を自分のように愛しなさい」という律法によって、いずれは裁かれる者として、憐れみの業に生きることが求められているのです。

 今朝の御言葉はその続きであります。

1 行いが伴なわない信仰はその人を救うことができない

 14節をお読みします。

 わたしの兄弟たち、自分は信仰を持っていると言う者がいても、行いが伴わなければ、何の役に立つでしょうか。そのような信仰が、彼を救うことができるでしょうか。

 ヤコブは、自分は信仰を持っていると言いながら、行いが伴わない人たちに、今朝の御言葉を記しています。前回学んだ御言葉で言えば、「わたしたちの主イエス・キリストを信じながら、人を分け隔てする人たち」のことです。このような人たちは、信仰と行いを切り離して考えていたようです。しかし、ヤコブは、信仰に行いが伴わないならば、何の役にも立たないと言うのです。さらには、行いの伴わない信仰は、その人を救うことはできないと記すのです。このことは、主イエス・キリストが弟子たちに教えられたことでありました。前回、マタイによる福音書の第25章に記されている「栄光の人の子がすべての民を裁く」という預言を読みました。今朝は、そのところをもう一度読みたいと思います。新約の50ページです。マタイによる福音書第25章の31節から46節までをお読みします。

 人の子は、栄光に輝いて天使たちを皆従えて来るとき、その栄光の座に着く。そして、すべての国の民がその前に集められると、羊飼いが羊と山羊を分けるように、彼らをより分け、羊を右に、山羊を左に置く。そこで、王は右側にいる人たちに言う。「さあ、わたしの父に祝福された人たち、天地創造の時からお前たちのために用意されている国を受け継ぎなさい。お前たちは、わたしが飢えていたときに食べさせ、のどが渇いていたときに飲ませ、旅をしていたときに宿を貸し、裸のときに着せ、病気のときに見舞い、牢にいたときに訪ねてくれたからだ。」すると、正しい人たちが王に答える。「主よ、いつわたしたちは、飢えておられるのを見て食べ物を差し上げ、のどが渇いておられるのを見て飲み物を差し上げたでしょうか。いつ、旅をしておられるのを見てお宿を貸し、裸でおられるのを見てお着せしたでしょうか。いつ、病気をなさったり、牢におられたりするのを見て、お訪ねしたでしょうか。」そこで、王は答える。「はっきり言っておく。わたしの兄弟であるこの最も小さい者の一人にしたのは、わたしにしてくれたことなのである。」

 それから、王は左側にいる人たちにも言う。「呪われた者ども、わたしから離れ去り、悪魔とその手下のために用意してある永遠の火に入れ。お前たちは、わたしが飢えていたときに食べさせず、のどが渇いていたときに飲ませず、旅をしていたときに宿を貸さず、裸のときに着せず、病気のとき、牢にいたときに、訪ねてくれなかったからだ。」すると、彼らは答える。「主よ、いつわたしたちは、あなたが飢えたり、渇いたり、旅をしたり、裸であったり、病気であったり、牢におられたりするのを見て、お世話しなかったでしょうか。」そこで、王は答える。「はっきり言っておく。この最も小さい者の一人にしなかったのは、わたしにしてくれなかったことなのである。」こうして、この者どもは永遠の罰を受け、正しい人たちは永遠の命にあずかるのである。

 ここで注意したいことは、天の国を受け継ぐ者たちも、永遠の火に入る者たちも、栄光のイエスさまのことを「主よ」と呼びかけていることです。彼らはどちらも、口では「イエスは主である」と告白する者でありました。では、天の国を受け継ぐ者たちと、永遠の火に入る者たちとの違いは何でしょうか。それは、行いの伴う信仰であるか、行いの伴わない信仰であるかの違いです。もっと言えば、まことの信仰か、偽りの信仰かの違いです。イエスさまは、律法の専門家から、「先生、律法の中でどの掟が最も重要でしょうか」と尋ねられたとき、次のようにお答えになりました。「『心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。』これが最も重要な第一の掟である。第二も、これと同じように重要である。『隣人を自分のように愛しなさい。』律法全体と預言者は、この二つの掟に基づいている」(マタイ22:37~40)。イエスさまは、申命記の第6章5節の掟とレビ記の第19章18節の掟を結びつけて、最も重要な掟であると言われました。ですから、ヤコブも、「隣人を自分のように愛しなさい」という掟を最も尊い律法、王の律法と言ったわけです。この王の律法を私たちが一心に見つめて歩むならば、主にある兄弟姉妹が飢えているときに食べ物を差し上げるのは当然のことです。なぜ、天の国を受け継ぐ者たちは、最も小さい兄弟姉妹が飢えているとき食べ物を差し上げることができたのでしょうか。それは、彼らが、「隣人を自分のように愛しなさい」という王の律法を一心に見つめて、それを実践していたからです。

 また、神の国の王であるイエスさまは、山上の説教の中で、次のようにもお命じになりました。「人にしてもらいたいと思うことは何でも、あなたがたも人にしなさい。これこそ律法と預言者である」(マタイ7:12)。このイエスさまの御言葉は、先程の王の律法、「隣人を自分のように愛しなさい」という掟を言い換えたものですね。飢えている人を見たら、何か食べたいだろうなぁと思う。それは、自分に置き換えればすぐ分かることです。自分が飢えていたら、何か食べたいと思う。そうであれば、その飢えている人に、あなたが食べ物を差し上げなさい、とイエスさまは言われるのです。天の国を受け継ぐ者たちは、「人にしてもらいたいと思うことは何でも、あなたがたも人にしなさい」という掟を一心に見つめて歩んでいたのです。

 ヤコブは、行いの伴わない信仰は、その人を救うことができないと記しました。このことは、主イエス・キリストが前もって警告しておられたことです。マタイによる福音書の第7章21節から23節で、イエスさまは次のように言われています。

 わたしに向かって、「主よ、主よ」と言う者が皆、天の国に入るわけではない。わたしの天の父の御心を行う者だけが入るのである。かの日には、大勢の者がわたしに、「主よ、主よ、わたしたちは御名によって預言し、御名によって悪霊を追い出し、御名によって奇跡をいろいろ行ったではありませんか」と言うであろう。そのとき、わたしはきっぱりとこう言おう。「あなたたちのことは全然知らない。不法を働く者ども、わたしから離れ去れ。」

 イエスさまは、「わたしに向かって、『主よ、主よ』という者が皆、天の国に入るわけではない」と言われました。このことが、第25章の預言の中で実現しているわけです。天の国を受け継ぐ者たちは、イエスさまを主と呼ぶだけでなく、イエスさまによって示された天の父の御心を行う者であったのです。イエスさまにおいて示された天の父の御心、それが「隣人を自分のように愛しなさい」という掟であり、「人にしてもらいたいと思うことは何でも、あなたがたも人にしなさい」という掟であるのです。このようなイエスさまの教えを背景にして、今朝の御言葉で、ヤコブは、「行いの伴わない信仰は、その人を救うことができない」と言っているのです。

 今朝の御言葉に戻ります。新約の423ページです。

2  行いが伴わない信仰は死んだもの

 15節から17節までをお読みします。

 もし、兄弟あるいは姉妹が、着る物もなく、その日の食べ物にも事欠いているとき、あなたがたのだれかが、彼らに、「安心して行きなさい。温まりなさい。満腹するまで食べなさい」と言うだけで、体に必要なものを何一つ与えないなら、何の役に立つでしょう。信仰もこれと同じです。行いが伴わないなら、信仰はそれだけでは死んだものです。

 着る物もなく、その日の食べ物にも事欠いている兄弟姉妹に、「安心して行きなさい。温まりなさい。満腹するまで食べなさい」と言うだけで、体に必要なものを何一つ与えないならば、それは兄弟姉妹にとって何の役にも立ちません。そのような、行いの伴わない、口先だけの信仰は何の役にも立たないのです。このヤコブの言葉は、先程お読みしたマタイによる福音書の第25章の御言葉を思い起こさせます。兄弟姉妹が着る物もなく、飢えているときに、何も与えない、行いの伴わない信仰は、確かに、その人を最後の裁きから救うことができないのです。

 ヤコブは「行いが伴わないなら、信仰はそれだけでは死んだものです」と記しています。このヤコブの言葉は、信仰が行いを伴うものであること。まことの信仰とは、行いが伴う生きて働く信仰であることを教えています。なぜなら、信仰とは、生きて働いておられる復活のイエス・キリストと私たちを結びつけるものであるからです。私たちが信仰によって復活のイエス・キリストと結びついているならば、当然、私たちの信仰に行いが伴うはずです。また、私たちが信仰によって復活のイエス・キリストに結びついているならば、当然、私たちの信仰は生きて働く信仰となるはずです。そもそも、行いの伴わない信仰は、本来、あり得ないのです。なぜなら、私たちの信仰告白は、「イエスは主である」という信仰告白であるからです(一コリント12:3参照)。「イエスは主である」と告白することは、「わたしはイエスの僕です」と告白することでもあります。イエスさまと私たちの関係は、主人と僕の関係、主従(しゅじゅう)関係であるのです。「イエスは主である」という信仰には、主であるイエスさまに従うことが含まれているのです。ですから、ある人は、信仰と訳されている言葉(ピスティス)を信従(しんじゅう)と翻訳しています。信仰とは信じて従うことであるのです。そのような信仰を持っているならば、私たちは確かにイエス・キリストと結びついていると言えるのです。私たちを救うのは、信仰そのものではなく。信仰の対象である主イエス・キリストであります。私たちは「イエスは主である」と告白し、イエスさまの掟に従って歩んでいるならば、信仰によってイエスさまと結ばれているのです。また、信仰は聖霊の御業でありますから、私たちが「イエスは主である」と告白し、イエスさまの掟に従って歩んでいるならば、私たちは聖霊によってイエスさまと結ばれているのです(一コリント12:3「聖霊によらなければ、だれも『イエスは主である』とは言えないのです」参照)。

3 行いが伴う信仰

 今朝は最後に、ヨハネによる福音書の第15章を読んで終わりたいと思います。新約の198ページです。1節から5節前半までをお読みします。

 わたしはまことのぶどうの木、わたしの父は農夫である。わたしにつながっていながら、実を結ばない枝はみな、父が取り除かれる。しかし、実を結ぶものはみな、いよいよ豊かに実を結ぶように手入れをなさる。わたしの話した言葉によって、あなたがたは既に清くなっている。わたしにつながっていなさい。わたしもあなたがたにつながっている。ぶどうの枝が、木につながっていなければ、自分では実を結ぶことができないように、あなたがたもわたしにつながっていなければ、実を結ぶことができない。わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である。人がわたしにつながっており、わたしもその人につながっていれば、その人は豊かに実を結ぶ。

 私たちが信仰によって、また聖霊によってイエスさまと結ばれているならば、私たちは豊かに実を結ぶことができます。それは、使徒パウロがガラテヤの信徒への手紙の第5章で記しているように、聖霊の結ぶ実であります。そして、その聖霊の結ぶ実は何よりも愛であるのです(ガラテヤ5:22「霊の結ぶ実は愛であり、喜び、平和、寛容、親切、善意、誠実、柔和、節制です」参照)。イエスさまと信仰によって、また聖霊によってつながっているならば、私たちは必ず愛という実を結ぶのです。ヤコブの言葉で言えば、イエスさまと信仰によって結ばれているならば、必ず行いが伴うのです。私たちは、イエスさまによって示された愛が、口先だけの愛ではなく、行いを伴う愛であることを知っています。イエスさまは、口先だけで、「わたしはあなたを愛している」と言われたのではありません。イエスさまは、十字架の上で、御自分の命を捨てられるほどに、私たちを愛してくださったし、また愛してくださっているのです。そのようなイエス・キリストと信仰によって、また聖霊によってつながっている者として、私たちはイエス・キリストの掟を守っていきたいと願います(ヨハネ15:10「わたしが父の掟を守り、その愛にとどまっているように、あなたがたも、わたしの掟を守るなら、わたしの愛にとどまっていることになる」参照)。

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