永遠に赦されない罪 2020年6月14日(日曜 朝の礼拝)
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永遠に赦されない罪
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- 村田寿和 牧師
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マルコによる福音書 3章20節~30節
聖書の言葉
3:20 イエスが家に帰られると、群衆がまた集まって来て、一同は食事をする暇もないほどであった。
3:21 身内の人たちはイエスのことを聞いて取り押さえに来た。「あの男は気が変になっている」と言われていたからである。
3:22 エルサレムから下って来た律法学者たちも、「あの男はベルゼブルに取りつかれている」と言い、また、「悪霊の頭の力で悪霊を追い出している」と言っていた。
3:23 そこで、イエスは彼らを呼び寄せて、たとえを用いて語られた。「どうして、サタンがサタンを追い出せよう。
3:24 国が内輪で争えば、その国は成り立たない。
3:25 家が内輪で争えば、その家は成り立たない。
3:26 同じように、サタンが内輪もめして争えば、立ち行かず、滅びてしまう。
3:27 また、まず強い人を縛り上げなければ、だれも、その人の家に押し入って、家財道具を奪い取ることはできない。まず縛ってから、その家を略奪するものだ。
3:28 はっきり言っておく。人の子らが犯す罪やどんな冒涜の言葉も、すべて赦される。
3:29 しかし、聖霊を冒涜する者は永遠に赦されず、永遠に罪の責めを負う。」
3:30 イエスがこう言われたのは、「彼は汚れた霊に取りつかれている」と人々が言っていたからである。マルコによる福音書 3章20節~30節
メッセージ
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序
前回(先週)、私たちは、イエスさまが新しいイスラエルとして、12人を選ばれ、使徒と名付けられたことを学びました。イエスさまは、派遣して宣教させ、悪霊を追い出す権能を持たせるために、12人をつくられたのです。イエスさまは、御自分のお働きを引き継ぐものとして12人を、私たちキリストの教会をつくられたのです。
今朝の御言葉はその続きであります。
1.律法学者からの中傷
イエスさまが家に帰られると、群衆がまた集まって来て、一同は食事をする暇もないほどでありました。ここでの「家」は、ナザレにある実家のことではなくて、カファルナウムにあるペトロの家であります。第1章29節に、イエスさま一行がシモンとアンデレの家に行ったことが記されていました。イエスさまは、ペトロの家を、自分の家のように用いていたのです。あるいは、御自分の教会として用いていたのです(当時の教会は家の教会)。その家、教会に、大勢の人が集まってきました。おそらく、彼らは、イエスさまに病を癒していただくために、また悪霊を追い出していただくために、集まって来たのでしょう。イエスさまと弟子たちは、食事も取らずに、大勢の人の病を癒し、悪霊を追い出したのです。
他方、イエスさまの身内の人たちは、イエスさまのことを聞いて取り押さえに来ました。息子がナザレの村から出て行ったきり、帰ってこない。どうしているかと思っていたら、「あの男は気が変になっている」という噂が聞こえてきた。「これは、大変だ」ということで、イエスさまを取り押さえに、ナザレからカファルナウムまで来たのです。このお話の続きは、次回学ぶことになる31節から35節までに記されています。今朝は、22節から30節までに記されている、イエスさまと律法学者たちとの論争について学びたいと思います。
この律法学者たちは、「エルサレムから下って来た」と記されています。エルサレムは、神殿のあるユダヤの国の首都であり、宗教と政治の中心地でありました(最高法院から遣わされた律法学者たち)。そのエルサレムから下って来た律法学者たちが、イエスさまについて「あの男はベルゼブルに取りつかれている」と言い、また、「あの男は悪霊の頭の力で悪霊を追い出している」と言っていたのです。イエスさまの身内の人たちが聞いた噂の出所は、どうも、エルサレムから下って来た律法学者たちであったようです。彼らは、律法学者ですから、権威があります。しかも、エルサレムから下って来た律法学者ですから、なおさら、権威があります。その律法学者たちのイエスさまに対する評価は、「あの男はベルゼブルに取りつかれている」、「悪霊の頭の力で悪霊を追い出している」というものであったのです。「ベルゼブル」とは「悪霊の頭」の名前ですね(列王下1:3「エクロンの神バアル・ゼブブ」参照)。律法学者たちも、イエスさまが悪霊を追い出していることを認めています。そのことは否定していません。しかし、彼らは、イエスさまが「悪霊の頭、ベルゼブルによって、悪霊を追い出している」と言ったのです。イエスさまから追い出された悪霊は「あなたは神の子だ」と叫んだわけですが(3:11参照)、律法学者たちは、イエスさまが、悪霊の頭ベルゼブルの力によって悪霊を追い出していると言うのです。
2.イエスの反論
そこで、イエスさまは、律法学者たちを呼び寄せて、たとえを用いてお語りになりました。「どうして、サタンがサタンを追い出せよう。国が内輪で争えば、その国は成り立たない。家が内輪で争えば、その家は成り立たない。同じように、サタンが内輪もめして争えば、立ち行かず、滅びてしまう」。律法学者たちは、悪霊がイエスさまの言うことをきくのは、イエスさまが「悪霊の頭であるベルゼブルに取りつかれているからだ」と言いました。しかし、イエスさまは、「もしそうであれば、それは内輪で争うことであり、立ち行かずに、滅んでしまう」と反論します。どのような国(王国)であっても、また、どのような家であっても、内輪で争えば、成り立ちません。同じことが、サタンにおいても、言えるのです。ですから、イエスさまが悪霊の力で悪霊を追い出しているという律法学者の考えは、この世の常識に反する、受け入れがたいものであるのです。
続けて、イエスさまはこう言われます。「また、まず強い人を縛り上げなければ、だれも、その人の家に押し入って、家財道具を奪い取ることはできない。まず縛ってから、その家を略奪するものだ」。ここでイエスさまは、御自分を家(家財道具)を略奪する者に譬えています。ここでの「家」(家財道具)は悪霊に取りつかれている人のことです。そして、「強い人」とは「家」(家財道具)を占拠している悪霊のことです。イエスさまは悪霊に取りつかれている人から悪霊を追い出すことを、家に押し入って、強い人を縛り上げて、その家を略奪することに譬えられるのです。ここで注意したいことは、「強い人を縛り上げるには、より強い人でなければならない」ということです。それでは、強い人である悪霊よりも強い人とは誰でしょうか?それは、追い出された悪霊が叫んだように、「神の子」であるのです。ここで、第1章9節から11節までをもう一度読みたいと思います。新約の61ページです。
そのころ、イエスはガリラヤのナザレから来て、ヨルダン川でヨハネから洗礼を受けられた。水の中から上がるとすぐ、天が裂けて、霊が鳩のように御自分に降って来るのを、御覧になった。すると、「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」という声が天から聞こえた。
イエスさまは、神さまから聖霊を注がれたメシア(王、救い主)となられました。「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」という天からの声は、メシアであるイエスさまが、神の独り子であり、主の僕であることを示しています。イエスさまは、聖霊を注がれた神の子として、聖霊の力によって、人々から悪霊を追い出していたのです。
今朝の御言葉に戻ります。新約の66ページです。
3.永遠に赦されない罪
律法学者たちは、イエスさまが悪霊の力によって悪霊を追い出していると言いました。そのような彼らに対して、イエスさまはこう言われます。「はっきり言っておく。人の子らが犯す罪やどんな冒涜の言葉も、すべて赦される。しかし、聖霊を冒涜する者は永遠に赦されず、永遠に罪の責めを負う」。「はっきり言っておく」と訳されている言葉は、直訳すると「アーメン、わたしはあなたがたに言う」となります。私たちは、祈りを「アーメン」という言葉で結びます。それは、「確かにそのとおりです」という確信を表します。しかし、イエスさまは、そのアーメンという言葉を、頭に持って来て、「アーメン、わたしはあなたがたに言う」と言われたのです。それは、「これからあなたがたに言うことは確かなことだ」という意味でしょう。イエスさまは、権威ある者として、「アーメン、わたしはあなたがたに言う」と断言されるのです(1:22,27参照)。
ここでの「人の子ら」とは人間のことでしょう。イエスさまは、「人間たちの犯す罪やどんな冒涜の言葉も、すべて赦される」と言われます。私たちは、今朝、先ずこの御言葉を福音(良き知らせ)として心に刻みたいと思います。私たちは、自分が犯した罪や、口にした冒涜の言葉を思い起こすとき、神さまは、私を赦してくださらないのではないかと恐れます。しかし、イエスさまは、権威を持って、「人の子らが犯す罪やどんな冒涜の言葉も、すべて赦される」と断言されるのです。それは、神の子であり、主の僕であるイエスさまが、私たちのメシア(王、救い主)として、十字架の死を死んでくださるからです。イエスさまが、私たちに代わって神の掟を完全に守り、なおかつ、私たちに代わって罪の刑罰としての十字架の死を死んでくださるからです。イエスさまは、そのような御方として、「はっきり言っておく。人の子らが犯す罪やどんな冒涜の言葉も、すべて赦される」と言われるのです。このイエスさまの御言葉は、イエスさまの命がかかった重い言葉であるのです。
しかし、イエスさまは、永遠に赦されない罪があると言われます。「しかし、聖霊を冒涜する者は永遠に赦されず、永遠に罪の責めを負う」。これは、律法学者たちへの警告の言葉ですね。律法学者たちは、イエスさまのうちに働く聖霊の働きを汚れた霊の働きであると言っていました(30節参照)。それは、聖霊を冒涜する罪であるのです。そして、聖霊を冒涜する罪は、永遠に赦されず、永遠に罪の責めを負うのです。なぜ、人の子らが犯す罪やどんな冒涜の言葉も、すべて赦されるのに、聖霊を冒涜する罪は赦されないのでしょうか?それは、聖霊が、私たちに「イエスは主である」と告白させてくださる御方であるからです(一コリント12:3参照)。聖霊は、私たちを悪霊の支配から解放し、イエス・キリストを信じる信仰を与え、神さまの支配に生かしてくださる御方であるからです。その聖霊の働きを悪霊の働きであると言うならば、その人は、イエス・キリストの救いにあずかることはできません。聖霊は、イエスさまと私たち人間を結びつける御方ですから、その聖霊を汚れた霊、悪霊と呼んで冒涜するならば、その人は、イエスさまの永遠の贖いにあずかることができないのです。結果として、その人は自分の罪の責めを永遠に負うことになるのです。
私たちキリスト者は、イエス・キリストを神の御子、救い主と信じて、信仰生活、教会生活を送っています。それは、聖霊のお働きによるものです。しかし、その聖霊のお働きを、悪霊によるものだと主張する人がいるならば、その人は、永遠に赦されない罪を犯しているのです。また、私たちが、自分がイエスさまを信じて歩んでいるのは、悪霊によると考えるならば、それは聖霊を冒涜する罪であるのです。
「はっきり言っておく。人の子らが犯す罪やどんな冒涜の言葉も、すべて赦される。しかし、聖霊を冒涜する者は永遠に赦されず、永遠に罪の責めを負う」。このようにイエスさまが厳しく言われるのは、一人でも多くの人が聖霊のお働きを認めて、罪の赦しにあずかってほしいからです。イエスさまは、すべての人を罪から贖う御方として、すべての人を御自分の救いへと招いておられるのです。