十二人をつくるイエス 2020年6月07日(日曜 朝の礼拝)
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十二人をつくるイエス
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- 村田寿和 牧師
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マルコによる福音書 3章7節~19節
聖書の言葉
3:7 イエスは弟子たちと共に湖の方へ立ち去られた。ガリラヤから来たおびただしい群衆が従った。また、ユダヤ、
3:8 エルサレム、イドマヤ、ヨルダン川の向こう側、ティルスやシドンの辺りからもおびただしい群衆が、イエスのしておられることを残らず聞いて、そばに集まって来た。
3:9 そこで、イエスは弟子たちに小舟を用意してほしいと言われた。群衆に押しつぶされないためである。
3:10 イエスが多くの病人をいやされたので、病気に悩む人たちが皆、イエスに触れようとして、そばに押し寄せたからであった。
3:11 汚れた霊どもは、イエスを見るとひれ伏して、「あなたは神の子だ」と叫んだ。
3:12 イエスは、自分のことを言いふらさないようにと霊どもを厳しく戒められた。
3:13 イエスが山に登って、これと思う人々を呼び寄せられると、彼らはそばに集まって来た。
3:14 そこで、十二人を任命し、使徒と名付けられた。彼らを自分のそばに置くため、また、派遣して宣教させ、
3:15 悪霊を追い出す権能を持たせるためであった。
3:16 こうして十二人を任命された。シモンにはペトロという名を付けられた。
3:17 ゼベダイの子ヤコブとヤコブの兄弟ヨハネ、この二人にはボアネルゲス、すなわち、「雷の子ら」という名を付けられた。
3:18 アンデレ、フィリポ、バルトロマイ、マタイ、トマス、アルファイの子ヤコブ、タダイ、熱心党のシモン、
3:19 それに、イスカリオテのユダ。このユダがイエスを裏切ったのである。マルコによる福音書 3章7節~19節
メッセージ
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序
前回(5月10日)、私たちは、イエスさまが安息日に、片手の萎えた人をいやされたお話を学びました。イエスさまは、安息日の主である人の子として、片手の萎えた人をいやされたのです。そのようにして、イエスさまは、安息日にふさわしいのは、善を行うことであり、命を救うことであることを示されたのです。しかし、ファリサイ派の人々は、そのようには考えませんでした。ファリサイ派の人々にとって、イエスさまは安息日の掟を破る危険人物であったのです。ファリサイ派の人々は、ヘロデ派の人々と一緒に、どのようにしてイエスさまを殺そうかと相談し始めたのです。
今朝の御言葉はその続きとなります。
1.おびただしい群衆
イエスさまは、弟子たちと共にガリラヤ湖の方へ立ち去られました。そのイエスさまにガリラヤから来たおびただしい群衆が従ったのです。ガリラヤだけではなく、南はユダヤ、エルサレム、イドマヤから、東はヨルダン川の向こう側(ペレア)から、北はティルスやシドンの辺り(フェニキア)からもおびただしい群衆が、イエスさまのしておられることを聞いて、集まって来たのです(聖書地図6新約時代のパレスチナ参照)。おびただしい群衆が聞いた、イエスさまのしておられることとは、イエスさまが神の国の福音を宣べ伝え、あらゆる病を癒し、悪霊を追い出しておられたことですね。そのようなうわさを聞いて、おびただしい群衆がイエスさまのもとに集まって来たのです。そこで、イエスさまは弟子たちに小舟を用意してほしいと言われました。弟子たちの中には、ガリラヤ湖で漁師をしていた者もいましたから、小舟を持っていたのでしょう。それにしても、なぜ、イエスさまは、弟子たちに小舟を用意してほしいと言われのでしょうか。10節にこう記されています。「イエスが多くの病人をいやされたので、病気に悩む人たちが皆、イエスに触れようとして、そばに押し寄せたからであった」。イエスさまは、御自分のもとに集まって来た多くの病人をいやされました。しかし、すべての病人を癒すことはできなかったようです。それで、病気に悩む人たちが皆、イエスさまに触れようとそばに押し寄せてきました。その人々に押しつぶされないように、イエスさまは湖の小舟に避難されたのです。
また、汚れた霊に取りつかれた人は、イエスさまを見るとひれ伏して、「あなたは神の子だ」と叫んで、その人から出て行きました。「汚れた霊」とは「悪霊」のことです。ですから、汚れた霊どもは、イエスさまにひれ伏していますが、礼拝しているわけではありません。これは完全な敗北の姿であるのです。また、「あなたは神の子だ」と叫んだのも、信仰の告白ではなく、最後の抵抗であります。イエスさまの正体を言い当てることによって、悪霊はイエスさまに抵抗するのです(1:24参照)。その悪霊どもに、イエスさまは、自分のことを言いふらさないように厳しくお叱りになりました。「イエスさまが神の子である」ということは、汚れた霊、悪霊によって人々に示されることではなく、神の霊、聖霊によって、人々に示されることであるからです。
前にも申しましたが、イエスさまの病の癒しや悪霊の追放は、イエスさまにおいて神の国が到来したことのしるしであります。そのような意味で、イエスさまが多くの病人を癒されたこと、汚れた霊を追い出されたことは、私たちにとって、啓示(出来事啓示)としての意味をもっています。イエスさまの癒やしの記事を読むときに、このことをしっかりとらえることが大切です。イエスさまは、あらゆる病いをいやすことができる。また、イエスさまは汚れた霊どもを追い出すことができる。そのことは、イエスさまにおいて神の国が到来していることを示しているのです。もっと言えば、イエスさまこそ、神の子であることを示しているのです。イエスさまが、多くの病人を癒された記事を読むと、病気に悩む人ならば、「わたしも癒していただきたい」と願うと思います。そのような願いをもって、礼拝に集う。しかし、礼拝に、目に見える仕方でイエスさまがおられるわけではありません。イエスさまは、今、天の父なる神の右に座しておられる。そのイエスさまが、礼拝において、御言葉と聖霊において臨在してくださるのです。ですから、礼拝に集っても、聖書に書いてあるような病の癒しが起こるわけではありません。では、聖書に書いてあるイエスさまが多くの病人をいやされたという記事は、私たちにとって何の意味もないのかと言えば、そうではありません。イエスさまがおられるところに神の国、天の国が到来しました。天国とは、イエスさまが共におられるところであり、あらゆる病が癒され、悪霊が存在することのできないところです(黙示21:4参照)。その天の国の祝福に、私たちはやがて完全にあずかることができるのです。その保証を私たちは、イエスさまの癒やしの記事に見ることができるのです。そして、実際、イエスさまは、私たちから悪霊を追い出して、聖霊を与えてくださり、「イエスは主である」と告白させ、神さまを礼拝することができるようにしてくださったのです。このことは、イエスさまの癒やしの御業が、私たちの内に既に始まっていることを示しているのです。
2.十二人をつくるイエス
13節から、場面が湖から山へと移っています。イエスさまは、弟子たちの中からこれと思う人々を呼び寄せられました。『新共同訳聖書』は「これと思う人々」と訳していますが、『新改訳2017』は「ご自分が望む者たち」と翻訳しています。16節以下に、12人の名前のリストが記されていますが、この人々が選ばれたのは、イエスさまがお望みになったからなのです。イエスさまの自由な選びによって、弟子の中から十二人が任命され、使徒と名付けられたのです。ところで、なぜ、イエスさまは、12人を任命されたのでしょうか。それは、イスラエルがもともとは12部族から成っていたことに由来します。『出エジプト記』の第19章に、神さまがシナイ山で、イスラエルに律法を与えられ、御自分の民とされたことが記されています。山から主はモーセにこう言われました。「あなたたちは、わたしにとって/祭司の王国、聖なる国民となる。これが、イスラエルの人々に語るべき言葉である」(出エジプト19:6)。主イエスさまは山で12人を任命することによって、新しく御自分の民を、新しいイスラエルをつくられたのです。『新共同訳聖書』は「任命する」と翻訳していますが、元の言葉を直訳すると「つくる」となります。イエスさまは、12人をつくられた、御自分の民を新しく創造されたのです。すなわち、12人を土台とするキリストの教会を造られたのであります。今朝の御言葉には、キリスト教会の原点が記されているのです。
14節と15節に、イエスさまが12人をつくった目的が記されています。「彼らを自分のそばに置くため、また、派遣して宣教させ、悪霊を追い出す権能を持たせるためであった」。イエスさまは12人を御側において教え、訓練するために、そして、御自分の代わりに神の国の福音を宣べ伝え、悪霊を追い出す権能を持つ者として遣わすために、12人をつくったのです。先程も申しましたように、12人は教会の土台となった人々であります。ですから、ここに、イエスさまが御自分の教会をつくられた目的が記されていると読むことができます。私たちは聖書を、特に福音書を学ぶことによって、イエスさまから親しく教えを受けることができます。そして、イエスさまから権威を与えられ遣わされた使徒的な教会として、福音を宣べ伝え、悪霊を追い出しているのです。イエスさまを信じていなかった人が、イエスさまを信じて、神さまを父として崇めるようになる。そこに、私たちは、悪霊追放の御業を見ることができるのです。このようにして、十二人は、そして、私たち教会は、イエスさまの御業を引き継いでいるのです。
3.12人の名前のリスト
16節から19節には、12人の名前のリストが記されています。この12人の中で、ガリラヤ湖で漁師をしていた最初の弟子たち、シモンとヤコブとヨハネの3人だけが、イエスさまから名前をつけられています。これはあだ名、ニックネームのようなものです。それだけ、イエスさまはこの3人と親しくしておられたのです(5:37、9:2、14:33参照)。
イエスさまはシモンに「ペトロ」という名をつけられました。「ペトロ」とは「岩」という意味です。どうして、イエスさまは、シモンに「ペトロ」という名を付けられたのでしょうか?『マタイによる福音書』は、ペトロの信仰告白にその由来があると説明しています。『マタイによる福音書』の第16章で、ペトロは、イエスさまに対して、「あなたはメシア、生ける神の子です」と告白します。すると、イエスさまは、「あなたはペトロ、わたしはこの岩のうえにわたしの教会を建てる」と言われたのです。けれども、『マルコによる福音書』はそのことを記していません。これは私の推測なのですが、「ペトロ」(岩)という名前の意味は頑固者という意味であったと思います。頑固者は、良い言い方をすれば「意思が固い者」となります。シモンの頑固なところが、イエスさまによって良いように用いられ、教会の確かな土台となったのです。
また、イエスさまは、ゼベダイの子ヤコブとヨハネに「雷の子ら」という名を付けられました。これも推測ですが、ゼベダイの子ヤコブとヨハネは、怒りやすい、気性が激しい兄弟であったのではないかと思います。そのことを裏付ける記事が『ルカによる福音書』の第9章に記されています。そこには、イエスさまを歓迎しないサマリア人たちを見て、ヤコブとヨハネが「主よ、お望みなら、天からの火を振らせて、彼らを焼き滅ぼしましょうか」と言ったこと。その二人をイエスさまが叱ったことが記されています。「天からの火」とは「雷」のことです。このように、ヤコブとヨハネは、激しやすい、「雷の子ら」であったのです。しかし、私たちが思い起こしたいことは、「雷の子ら」の一人であったヨハネが後に、「愛の人」に変えられたという事実です。ヨハネは、その第一の手紙で、「互いに愛し合いなさい」と何度も語っています。イエスさまは、「雷の子」を「愛の人」に変えてくださる御方であるのです。
19節に、「イスカリオテのユダ。このユダがイエスを裏切ったのである」と記されています。先程も申しましたように、12人はイエスさまがお望みになった者たちであります。イエスさまが御自分の意志で選ばれた者たちです。その中に、イエスさまを裏切るユダが含まれているのです。このことは、イエスさまは、人を見る目がなかったと言えるのでしょうか。人を見る目がなかったと言えば、そもそも、12人は無学な普通の人たちです。その中には、ガリラヤの漁師がおり、徴税人がおり、熱心党という過激派もおりました。教会のメンバーである私たち自身のことを考えても、イエスさまから選んでいただけるような長所があるわけではありません(一コリント1:26参照)。そして、私たちもそれぞれに異なっているわけです。しかし、イエスさまは、そのような私たちを自由な意志によって選び、御もとに招いてくださったのです。そして、私たちは、そのイエスさまの招きに答えてイエスさまの弟子となったのです。イエスさまがつくられた12人は、人間の目からすれば、決して理想的な弟子たちではありません。マルコは、これから先、弟子たちがどれほどイエスさまに対して無理解であるかを記していきます。そして、イエスさまが捕らえられたときに、すべての弟子たちがイエスさまを見捨てて逃げてしまうことを記すのです。それは、私たちの姿でもあるのです。しかし、その弟子たちが、もう一度立ち上がる時が来ます。それは、イエスさまが十字架の死から復活されたからです。復活されたイエスさまが、弟子たちに出会ってくださったからです。十二人の一人であるユダが、イエスさまを裏切ることになる。それは、教会に暗い影を落とすことです。けれども、ユダは、初めからイエスさまを裏切ってやろうと思って弟子になったのではないと思います。そのような意味で、私たちは誰もがユダになりうる可能性があるのです(14:18,19「一同が席に着いて食事をしているとき、イエスは言われた『はっきり言っておくが、あなたがたのうちの一人で、わたしと一緒に食事をしている者が、わたしを裏切ろうとしている。』弟子たちは心を痛めて、『まさかわたしのことでは』と代わる代わる言い始めた」参照)。けれども、そのユダをイエスさまは12人の一人として選んでくださったのです。愛と忍耐をもって弟子として導いてくださったのです。ですから、私たちも教会の一員として歩むことができるのです。