安息日にふさわしいこと 2020年5月10日(日曜 朝の礼拝)
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安息日にふさわしいこと
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- 村田寿和 牧師
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マルコによる福音書 3章1節~6節
聖書の言葉
3:1 イエスはまた会堂にお入りになった。そこに片手の萎えた人がいた。
3:2 人々はイエスを訴えようと思って、安息日にこの人の病気をいやされるかどうか、注目していた。
3:3 イエスは手の萎えた人に、「真ん中に立ちなさい」と言われた。
3:4 そして人々にこう言われた。「安息日に律法で許されているのは、善を行うことか、悪を行うことか。命を救うことか、殺すことか。」彼らは黙っていた。
3:5 そこで、イエスは怒って人々を見回し、彼らのかたくなな心を悲しみながら、その人に、「手を伸ばしなさい」と言われた。伸ばすと、手は元どおりになった。
3:6 ファリサイ派の人々は出て行き、早速、ヘロデ派の人々と一緒に、どのようにしてイエスを殺そうかと相談し始めた。マルコによる福音書 3章1節~6節
メッセージ
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序
前回(3月29日)、私たちは、安息日に、イエスさまの弟子たちが麦の穂を摘んだことを、ファリサイ派の人々から咎められたお話を学びました。ファリサイ派の人々にとって、麦の穂を摘むことは刈り入れであり、安息日に禁じられていた労働であったのです。そのようなファリサイ派の人々に、イエスさまは、ダビデが祭司のほかにはだれも食べてはならない供えのパンを食べ、一緒にいた者たちにも与えたではないかと言われたのです。ダビデは空腹を満たすために、掟を破っても罪に定められませんでした。ここでは、空腹を満たすという人間の必要が掟を守ることよりも優先されています。それゆえ、イエスさまは、「安息日は、人のために定められた。人が安息日のためにあるのではない。だから、人の子は安息日の主でもある」と言われたのです。イエスさまは、神さまが人のために安息日を定められたこと。そして、御自分が安息日の主であると宣言されたのです。イエスさまこそ、私たちを罪から贖い、聖霊によって新しく創造することにより、まことの安息を与えてくださる主であるのです。
1.安息日の会堂にて
その続きである今朝の御言葉も、安息日の出来事であります。安息日はいかなる仕事も止めて、神さまの創造の御業と贖いの御業を思い起こして、神さまを礼拝する日でありました。『レビ記』の第23章3節にこう記されています。「六日の間仕事をする。七日目は最も厳かな安息日であり、聖なる集会の日である。あなたたちはいかなる仕事もしてはならない。どこに住もうとも、これは主のための安息日である」。イスラエルの民は、仕事を休んで、家でゴロゴロしていたわけではありません。集まって、神さまを礼拝したのです。そのようにして、神さまの安息にあずかったのです。イエスさまの時代、イスラエルの民は、安息日ごとに会堂に集まり、神さまを礼拝していました。イエスさまも安息日には会堂に行って、神さまを礼拝したのです。イエスさまが会堂にお入りになると、そこに片手の萎えた人がいました。2節に、「人々はイエスを訴えようと思って、安息日にこの人の病気をいやされるかどうか、注目していた」とあります。ここでの「人々」は、前回の続きであることを考えると「ファリサイ派の人々」のことでしょう。ファリサイ派の人々は、神の掟を熱心に守っていた真面目な人たちでありました。彼らは、安息日に禁じられている「いかなる仕事」をリストアップして、その仕事をしないように人々に教え、人々を見張っていたのです。ファリサイ派の人々は、病気を癒すことも、安息日に禁じられている労働であると考えていました。ただし、例外がありまして、命に関わる緊急の場合は、安息日であっても、癒しの業をしてもよいとしていました。そのように考えるファリサイ派の人々が、イエスさまを訴えようと思って、安息日にイエスさまが片手の萎えた人を癒されるかどうか、注目していたのです。彼らの考えによれば、片手の萎えた人を癒すことは、命に関わる緊急を要することではありません。ですから、イエスさまが安息日に片手の萎えた人を癒されたとすれば、イエスさまを安息日を汚す者として訴えることができるわけです。『出エジプト記』の第31章15節に、「だれでも安息日に仕事をする者は必ず死刑に処せられる」と記されています。ファリサイ派の人々は、イエスさまを「安息日に仕事をする者」として、死刑にしようとしていたのです。
2.安息日にふさわしいこと
イエスさまは、ファリサイ派の人々の考えを、御自分の霊によって見抜かれたのでしょう(マルコ2:8参照)。イエスさまは、手の萎えた人に、「真ん中に立ちなさい」と言われました。どうやら、他の人々は座っていたようです。イエスさまは、手の萎えた人を会堂の真ん中に立たせることによって、人々の関心をこの人に向けさせるのです。そして、人々にこう言われました。「安息日に律法で許されているのは、善を行うことか、悪を行うことか、命を救うことか、殺すことか」。このイエスさまの御言葉は、前回学んだ第2章27節と28節の御言葉を前提にしています。イエスさまは、第2章27節と28節でこう言われました。「安息日は、人のために定められた。人が安息日のためにあるのではない。だから、人の子は安息日の主でもある」。今朝の御言葉でも、「片手の萎えた人」(萎えた手を持っている人)と記されています(1節「片手の萎えた人」、3節「片手の萎えた人」、5節「その人に、『手を伸ばしなさい』と言われた」)。福音書記者マルコは、「彼」とは記さずに、「人」という言葉を記しています。それは、「安息日は、人のために定められた。人が安息日のためにあるのではない」という原則が、手の萎えた人にも当てはまることを教えています。神さまは、片手の萎えた人のためにも、安息日を定められた。それゆえ、イエスさまは、片手の萎えた人に、「真ん中に立ちなさい」と言われたのです。また、イエスさまは、安息日の主として、人々に、「安息日に律法で許されているのは、善を行うことか、悪を行うことか。命を救うことか、殺すことか」と言われたのです。「安息日に許されているのは」とありますが、『新改訳2017』では、「安息日にかなっているのは」と翻訳しています。イエスさまは、「安息日に合法的なこと、ふさわしいことは、善を行うことか、悪を行うことか。命を救うことか、殺すことか」と問われたのです。安息日の由来については、『創世記』の第2章1節から3節にこう記されています。「天地万物は完成された。第七の日に、神は御自分の仕事を完成され、第七の日に、神は御自分の仕事を離れ、安息なさった。この日に神はすべての創造の仕事を離れ、安息なさったので、第七の日を神は祝福し、聖別された」。神さまは、安息日を祝福し、御自分の日として聖別されました。それは人間を御自分の祝福と安息にあずからせるためですね。その安息日にふさわしいのは、「善を行うことか、悪を行うことか。命を救うことか、殺すことか」と言われたのです。これは、抽象的な議論ではありません。イエスさまは、御自分を訴えようとしている人々の前に、片手の萎えた人を立たせて、こう言われたのです。ですから、善を行うこと、命を救うことは、片手の萎えた人を癒すことです。悪を行うこと、殺すことは、片手の萎えた人を癒さないことです。「安息日に律法で許されているのは、善を行うことか、悪を行うことか。命を救うことか。殺すことか」。答えは明かだと思います。けれども、人々は黙っていたのです。彼らは、「安息日にふさわしいのは、善を行うことであり、命を救うことです。ですから、どうぞ、イエスさまは、片手の萎えた人を癒してください」とは言いませんでした。彼らは、安息日にふさわしいのは、善を行うことであり、命を救うことであっても、安息日に手の萎えた人を癒すことを正当化しないと考えたのです。『ルカによる福音書』の第13章に、イエスさまが安息日に、会堂で、腰の曲がった婦人を癒したお話が記されています。そこで、会堂長は、イエスさまが安息日に病人を癒されたことに腹を立て、群衆にこう言いました。「働くべき日は六日ある。その間に来て治してもらうがよい。安息日はいけない」(ルカ13:14)。おそらく、ファリサイ派の人々も同じように考えたのではないでしょうか。「安息日にふさわしいのは、善を行うことであり、命を救うことだ。しかし、そのことが安息日に片手の萎えた人を癒してよい理由にはならない。働くべき日は六日あるのだから、他の日に癒せばよい」。そのように考えて、彼らは黙っていたのです。
3.怒り、悲しむイエス
イエスさまは怒って、沈黙する人々を見回し、彼らのかたくなな心を悲しまれました。かたくなな心とは、イエスさまによって示された神さまの御心を受け入れず、拒む心のことです。「安息日に律法で許されているのは、善を行うことであり、命を救うことです」と答えることのできない凝り固まった心のことです。ここで注目したいことは、イエスさまの怒りが悲しみと結びついているということです。イエスさまは怒り、そして、悲しみながら、その人に、「手を伸ばしなさい」と言われました。イエスさまは、「安息日は人のために定められた」と言われた御方として、また、「安息日の主」として、片手の萎えた人に、「手を伸ばしなさい」と言われたのです。そして、伸ばすと、手は元どおりになったのです。ある研究者は、ここに、創造の回復を見て取っています。この人の片手がなぜ萎えてしまったのかは分かりません。おそらく、生まれたときは、萎えていなかったのでしょう。けれども、病気か事故によって、片手が萎えてしまったのです。その萎えてしまった手が元どおりになった。神さまが最初に造られた姿に回復したというのです。聖書は、神さまが私たち人間を御自分のかたちに似せて造られたと教えています(創世1:26参照)。神さまは、私たち人間を御自分との交わりに生きる者として、御自分を礼拝する者として造られたのです。けれども、はじめの人アダムが禁じられた木の実を食べたことにより、アダムの子孫である人間の神のかたちは歪んでしまいました。なぜ、多くの人が天地万物を造られた、まことの神さま、イエス・キリストの父なる神さまを礼拝しないのでしょうか?それは、アダムの子孫である人間の神のかたちが歪んでしまって、神でないものを神として崇めるようになっているからです。そのような人間である私たちが、週のはじめの日ごとに、教会に集まり、まことの神さまを礼拝していること自体が奇跡であります。イエスさまは、十字架の死によって私たちを罪の支配から贖い、聖霊によって私たちの神のかたちを回復してくださったのです(エフェソ4:22~24参照)。そのようにして、私たちは神さまを礼拝する、本来の人間として新しく造られたのです。
片手の萎えた人の手は元どおりになりました。そのようにして、イエスさまは、安息日の主として、安息日に善を行い、命を救われたのです。ファリサイ派の人々は、安息日に癒しの業をすべきではないと考えました。もし、安息日に癒しの業をするならば、それは安息日を汚すことであると考えたのです。けれども、イエスさまのお考えは、まったく逆であります。安息日においてこそ、癒しの業はなされるべきであるのです。そして、それは一つのしるしとしての意味を持っているのです。安息日は神さまが祝福し、御自分の日とされた特別な日です。その安息日に、イエスさまが癒しの業をなされることは、イエスさまこそ、神さまの安息をもたらす御方、安息日の主であることのしるしであるのです。
このしるしを目の当たりにして、ファリサイ派の人々はどうしたでしょうか?神さまをほめたたえたでしょうか?いいえ、彼らは出て行って、早速、ヘロデ派の人々と一緒に、どのようにしてイエスを殺そうかと相談し始めたのです。『マルコによる福音書』は、第2章からイエスさまとファリサイ派の人々との論争を記してきました。その論争は次第に激しいものとなったことをマルコは記しています。「中風の人をいやす」というお話では、律法学者たちは、心の中で考えるだけです。「レビを弟子にする」というお話では、ファリサイ派の律法学者は、イエスさまの弟子たちに文句を言いました。「安息日に麦の穂を摘む」というお話では、ファリサイ派の人々がイエスさまに直接、文句を言っています。その論争シリーズの結末が、第3章6節なのです。ファリサイ派の人々は、ヘロデ派の人々と一緒に、どのようにしてイエスを殺そうかと相談し始めるのです。ファリサイ派の人々は、イエスさまが安息日に善を行い、命を救われたのを見て、イエスさまに対して悪を行い、殺そうとするのです。心のかたくななファリサイ派の人々にとって、イエスさまは安息日を汚す危険人物であるのです。ここで始めて、「ヘロデ派の人々」が出て来ます。「ヘロデ派の人々」とは、ガリラヤの領主であるヘロデ・アンティパスを支持する人々のことです。ファリサイ派の人々とヘロデ派の人々は、政治的には全く違う立場にありました。しかし、イエスさまを殺すことにおいて、ファリサイ派の人々とヘロデ派の人々は一致したのです(ルカ13:31参照)。ファリサイ派の人々も、このとき怒っていたと思います。けれども、その怒りは悲しみとは結びついてはいませんでした。彼らの怒りは、自分の正しさと結びついていたのです。そのような怒りから、彼らはどのようにしてイエスを殺そうかと相談し始めるのです。そのようにして、彼らはイエスさまが与えようとしておられる、まことの安息から自分たちを閉め出してしまうのです。そのようなことがないように、私たちは心をかたくなにせずに、今日という日に、イエス・キリストを安息日の主として迎え入れたいと願います(ヘブライ4:7参照)。