安息日の主であるイエス 2020年3月29日(日曜 朝の礼拝)
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安息日の主であるイエス
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- 村田寿和 牧師
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マルコによる福音書 2章23節~28節
聖書の言葉
2:23 ある安息日に、イエスが麦畑を通って行かれると、弟子たちは歩きながら麦の穂を摘み始めた。
2:24 ファリサイ派の人々がイエスに、「御覧なさい。なぜ、彼らは安息日にしてはならないことをするのか」と言った。
2:25 イエスは言われた。「ダビデが、自分も供の者たちも、食べ物がなくて空腹だったときに何をしたか、一度も読んだことがないのか。
2:26 アビアタルが大祭司であったとき、ダビデは神の家に入り、祭司のほかにはだれも食べてはならない供えのパンを食べ、一緒にいた者たちにも与えたではないか。」
2:27 そして更に言われた。「安息日は、人のために定められた。人が安息日のためにあるのではない。
2:28 だから、人の子は安息日の主でもある。」
マルコによる福音書 2章23節~28節
メッセージ
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序
前回(3月8日)、私たちは、花婿(メシア)であるイエスさまが来られたことによって、神の国の祝宴が既に始まっていること。その神の国の祝宴にあずかるには、私たちの存在そのものが神さまによって新しいものとされなければならないことを御一緒に学びました。今朝の御言葉はその続きとなります。
1.ある安息日に
今朝の御言葉には、ある安息日の出来事が記されています。安息日とは、週の最後の日、土曜日のことです。ユダヤでは、日没から一日が始まりましたから、より正確に言うと、金曜日の日没から土曜日の日没までです。安息日には、あらゆる労働が禁じられておりました。十戒の第四戒にはこう記されています。『出エジプト記』の第20章8節から11節までをお読みします。旧約の126ページです。
安息日を心に留め、これを聖別せよ。六日の間働いて、何であれあなたの仕事をし、七日目は、あなたの神、主の安息日であるから、いかなる仕事もしてはならない。あなたも、息子も、娘も、男女の奴隷も、家畜も、あなたの町の門の中に寄留する人々も同様である。六日の間に主は天と地と海とそこにあるすべてのものを造り、七日目に休まれたから、主は安息日を祝福して聖別されたのである。
このように、神さまは、御自分の民イスラエルに、いかなる仕事もしないで安息するようにと命じられたのです。神さまが六つの日に渡って天地万物をお造りになり、七日目に休まれたように、イスラエルの民も六日の間働いて、七日めに休むことが命じられたのです。
十戒は、『出エジプト記』だけではなく、『申命記』にも記されています。『出エジプト記』と『申命記』の第四戒を比べると、文面が少し違います。『申命記』の第5章にある十戒では次のように記されています。旧約の289ページです。『申命記』の第5章12節から15節までをお読みします。
安息日を守ってこれを聖別せよ。あなたの神、主が命じられたとおりに。六日の間働いて、何であれあなたの仕事をし、七日目は、あなたの神、主の安息日であるから、いかなる仕事もしてはならない。あなたも、息子も、娘も、男女の奴隷も、牛、ろばなどすべての家畜も、あなたの町の門の中に寄留する人々も同様である。そうすれば、あなたの男女の奴隷もあなたと同じように休むことができる。あなたはかつて、エジプトの国で奴隷であったが、あなたの神、主が力ある御手と御腕を伸ばしてあなたを導き出されたことを思い起こさねばならない。そのために、あなたの神、主は安息日を守るよう命じられたのである。
ここでは、安息日を守って聖別する根拠が、『出エジプト記』の十戒とは違っています。『出エジプト記』では、神さまの創造の御業を覚えて休むようにと言われていました。しかし、『申命記』では、神さまの贖いの御業、イスラエルをエジプトの奴隷状態から導き出されたことが根拠とされているのです。イスラエルの民は、神さまの創造の御業と贖いの御業を覚えて、安息日には仕事を止めて、神さまを礼拝したのです(レビ23:3「六日の間仕事をする。七日目は最も厳かな安息日であり、聖なる集会の日である」参照)。安息日は、仕事を止めて、神さまを礼拝することによって、肉体的にも霊的にも安息する日であったのです。また、安息日は、神さまとイスラエルの民との間の契約のしるしでありました。紀元前587年に、南王国ユダは、バビロン帝国によって滅ぼされます。それはイスラエルの民が契約のしるしである安息日を汚したからでありました(エゼキエル20:12,20参照)。そのことが『ネヘミヤ記』の第13章に記されています。旧約の761ページです。『ネヘミヤ記』の第13章15節から18節までをお読みします。
またそのころ、ユダで、人々が安息日に酒ぶねでぶどうを踏み、穀物の束をろばに負わせて運んでいるのを、わたしは見た。また、ぶどう酒、ぶどうの実、いちじく、その他あらゆる種類の荷物も同じようにして、安息日にエルサレムに運び入れていた。そこで、彼らが食品を売っているその日に、わたしは彼らを戒めた。ティルス人もそこに住み着き、魚をはじめあらゆる種類の商品を持込み、安息日に、しかもエルサレムで、ユダの人々に売っていた。わたしはユダの貴族を責め、こう言った。「なんという悪事を働いているのか。安息日を汚しているではないか。あなたたちの先祖がそのようにしたからこそ、神はわたしたちとこの都の上に、あれほどの不幸をもたらされたのではなかったか。あなたたちは安息日を汚すことによって、またしてもイスラエルに対する神の怒りを招こうとしている。」
このような認識から、ファリサイ派の人々も、安息日の掟を熱心に守っていたのです。また、ファリサイ派の人々は、他の人々が安息日の掟をちゃんと守っているかを監視していたのです。
今朝の御言葉に戻ります。新約の64ページです。
2.安息日に麦の穂を摘む弟子たち
ある安息日に、イエスさまが麦畑を通って行かれると、弟子たちは歩きながら麦の穂を摘み始めました。これを見たファリサイ派の人々は、イエスさまにこう言いました。「御覧なさい。なぜ、彼らは安息日にしてはならないことをするのか」。他の人の麦畑に入って、手で穂を摘む行為は律法で許されていました。『申命記』の第23章26節にはこう記されています。「隣人の麦畑に入るときは、手で穂を摘んでもよいが、その麦畑で鎌を使ってはならない」。問題は、弟子たちが手で穂を摘んでいたのが安息日であったということです。ファリサイ派の人々は、弟子たちの行為を安息日に禁じられている刈り入れであると見做して、イエスさまを非難したのです。しかし、イエスさまはこう言われたのです。「ダビデが、自分も供の者たちも、食べ物がなくて空腹だったときに何をしたか、一度も読んだことがないのか。アビアタルが大祭司であったとき、ダビデは神の家に入り、祭司のほかはだれも食べてはならない供えのパンを食べ、一緒にいた者たちにも与えたではないか」。
ダビデが供えのパンを食べたことは、『サムエル記上』の第21章に記されています。旧約の463ページです。『サムエル記上』第21章1節から7節までをお読みします。
ダビデは立ち去り、ヨナタンは町に戻った。ダビデは、ノブの祭司アヒメレクのところに行った。ダビデを不安げに迎えたアヒメレクは、彼に尋ねた。「なぜ、一人なのですか。供はいないのですか。」ダビデは祭司アヒメレクに言った。「王はわたしに一つの事を命じて、『お前を遣わす目的、お前に命じる事を、だれにも気づかれるな』と言われたのです。従者たちには、ある場所で落ち合うよう言いつけてあります。それよりも、何か、パン五個でも手もとにありませんか。ほかに何かあるなら、いただけますか。」祭司はダビデに答えた。手もとに普通のパンはありません。聖別されたパンならあります。従者が女を遠ざけているなら差し上げます。」ダビデは祭司に答えて言った。「いつものことですが、わたしが出陣するときには女を遠ざけています。従者たちは身を清めています。常の遠征でもそうですから、まして今日は、身を清めています。」普通のパンがなかったので、祭司は聖別されたパンをダビデに与えた。パンを供え換える日で、焼きたてのパンに替えて主の御前から取り下げた、供えのパンしかなかった。
ここに、「安息日」という言葉は出て来ませんが、律法によれば、パンを供え替えるのは安息日でありました(レビ24:8「アロンはイスラエルの人々による供え物として、安息日ごとに主の御前に絶えることなく供える」参照)。ですから、ダビデと従者たちが供えのパンを食べたのは安息日の出来事でした。安息日に、サウルのもとから逃れて来たダビデは、空腹を満たすために、祭司しか食べてはならない供えのパンを食べたのです。
今朝の御言葉に戻ります。新約の64ページです。
ダビデが神の家に入り、祭司のほかにはだれも食べてはならない供えのパンを食べ、一緒にいた者たちも与えたこと。このことは、安息日であろうがなかろうが、神の掟に違反することです(レビ24:9「このパンはアロンとその子らのものであり、彼らはそれを聖域で食べねばならない」参照)。しかし、聖書は、そのダビデの行為を罪として咎めていません。それは、ダビデとその従者たちの空腹を満たすことが、供えのパンについての掟よりも優先されるからです。そうであれば、「安息日に、わたしの弟子たちが空腹を満たすために、麦の穂を積んで食べることに何の問題があるのか」。そのようにイエスさまは言われるのです。ここで、イエスさまが問題とされていることは、神さまがイスラエルに掟を与えられた目的でありますね。神さまがイスラエルの民に掟を与えられたのは、彼らに善と悪との区別を教え、命を与えるためでありました。神さまが安息日の掟を与えられたのも、イスラエルの民を休ませて、元気にするためです。安息日は、仕事を止めることによって体を休ませ、神さまを礼拝することによって魂を休ませる、命を回復する日であるのです。けれども、ファリサイ派の人々は、安息日にしてはならない仕事を細かくリストアップして(39種類)、それを守るように教え、ちゃんと守っているか監視していたのです。命を回復する日が、なんとも寒々しい日となっていたのです。
3.安息日の主であるイエス
更に、イエスさまはこう言われました。「安息日は、人のために定められた。人が安息日のためにあるのではない。だから、人の子は安息日の主でもある」。神さまは、安息日にはいかなる仕事も止めて、その日を神さまの日として聖別するように命じられました。それは先程も申しましたように、人のためであるのです。安息日は、人が休んで元気を回復するために、神さまを礼拝し、神さまの安息にあずかるために定められたのです。その神さまの御心を忘れて、ファリサイ派の人々は、人が安息日のためにあるかのように、振る舞っていたのです。では、人は、安息日に好きなことをしてもよいのでしょうか。「安息日は、人のために定められた」のだから、安息日に人は好きなことをしてもよいのでしょうか。そうではありません。なぜなら、イエスさまは、「人の子は安息日の主でもある」と言われるからです。ここで、「人は安息日の主である」と言われていないことに注意したいと思います。もし、イエスさまが、「人は安息日の主である」と言われたならば、人は安息日に何をしてもよいということになります。しかし、イエスさまは、「人の子は安息日の主でもある」と言われたのです。ここでの「人の子」は、イエスさま御自身のことです。イエスさまは、御自分が安息日の主でもあると言われたのですね。地上で罪を赦す権威を持つ人の子であるイエスさまは、安息日の主でもあるのです(マルコ2:10参照)。そのように言われることによって、イエスさまは御自分が神さまと等しい御方であることを示されたのです。もちろん、ファリサイ派の人々は、イエスさまの御言葉をそのようには理解しなかったと思います。前にも申しましたように、「人の子」には、人間という意味もありますから、ファリサイ派の人々は、「人の子」を人間と解釈して、イエスさまがとんでもないことを言うと思ったのです。けれども、キリストの弟子の群れである教会は、イエスさまこそが、安息日の主でもあることを知っているのです。それは、イエス・キリストが、私たちを罪の奴隷状態から贖い出すために、十字架の死を死んでくださり、三日目に復活してくださったからです。また、復活されたイエス・キリストが天に昇り、聖霊を遣わして、私たちを新しく創造してくださったからです。安息日は、神さまの創造の御業と贖いの御業を思い起こして、神さまを礼拝する日でありました。それと同じように、私たちは、主の日に、イエス・キリストの新しい創造の御業と十字架の贖いの御業を思い起こして、神さまを父として礼拝しているのです。そのようにして、私たちはイエス・キリストにおいて実現された神さまの安息にあずかるのです。
イエス・キリストが週の初めの日に復活されてから、教会は週の初めの日を「主の日」と呼び、礼拝をささげるようになりました(使徒20:7、黙1:10参照)。「主の日」とは「主イエス・キリストの日」ということです。復活された主イエス・キリストは、週の初めの日を、御自分の日として過ごすように求めておられます(ウ小教理 問59「神は、世の初めからキリストの復活までは、週の第七日を週ごとの安息日と指定されました。そして、キリストの復活からは、週の第一日を世の終わりまで続けるように指定されました。これがキリスト教安息日です」参照)。それは、私たちが主イエス・キリストの安息にあずかるためであるのです(マタイ11:28「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう」参照)。