サムエルの召命 2020年11月11日(水曜 聖書と祈りの会)
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サムエルの召命
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- 村田寿和 牧師
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サムエル記上 3章1節~4章1節
聖書の言葉
3:1 少年サムエルはエリのもとで主に仕えていた。そのころ、主の言葉が臨むことは少なく、幻が示されることもまれであった。
3:2 ある日、エリは自分の部屋で床に就いていた。彼は目がかすんできて、見えなくなっていた。
3:3 まだ神のともし火は消えておらず、サムエルは神の箱が安置された主の神殿に寝ていた。
3:4 主はサムエルを呼ばれた。サムエルは、「ここにいます」と答えて、
3:5 エリのもとに走って行き、「お呼びになったので参りました」と言った。しかし、エリが、「わたしは呼んでいない。戻っておやすみ」と言ったので、サムエルは戻って寝た。
3:6 主は再びサムエルを呼ばれた。サムエルは起きてエリのもとに行き、「お呼びになったので参りました」と言った。エリは、「わたしは呼んでいない。わが子よ、戻っておやすみ」と言った。
3:7 サムエルはまだ主を知らなかったし、主の言葉はまだ彼に示されていなかった。
3:8 主は三度サムエルを呼ばれた。サムエルは起きてエリのもとに行き、「お呼びになったので参りました」と言った。エリは、少年を呼ばれたのは主であると悟り、
3:9 サムエルに言った。「戻って寝なさい。もしまた呼びかけられたら、『主よ、お話しください。僕は聞いております』と言いなさい。」サムエルは戻って元の場所に寝た。
3:10 主は来てそこに立たれ、これまでと同じように、サムエルを呼ばれた。「サムエルよ。」サムエルは答えた。「どうぞお話しください。僕は聞いております。」
3:11 主はサムエルに言われた。「見よ、わたしは、イスラエルに一つのことを行う。それを聞く者は皆、両耳が鳴るだろう。
3:12 その日わたしは、エリの家に告げたことをすべて、初めから終わりまでエリに対して行う。
3:13 わたしはエリに告げ知らせた。息子たちが神を汚す行為をしていると知っていながら、とがめなかった罪のために、エリの家をとこしえに裁く、と。
3:14 わたしはエリの家について誓った。エリの家の罪は、いけにえによっても献げ物によってもとこしえに贖われることはない。」
3:15 サムエルは朝まで眠って、それから主の家の扉を開いた。サムエルはエリにこのお告げを伝えるのを恐れた。
3:16 エリはサムエルを呼んで言った。「わが子、サムエルよ。」サムエルは答えた。「ここにいます。」
3:17 エリは言った。「お前に何が語られたのか。わたしに隠してはいけない。お前に語られた言葉を一つでも隠すなら、神が幾重にもお前を罰してくださるように。」
3:18 サムエルは一部始終を話し、隠し立てをしなかった。エリは言った。「それを話されたのは主だ。主が御目にかなうとおりに行われるように。」
3:19 サムエルは成長していった。主は彼と共におられ、その言葉は一つたりとも地に落ちることはなかった。
3:20 ダンからベエル・シェバに至るまでのイスラエルのすべての人々は、サムエルが主の預言者として信頼するに足る人であることを認めた。
3:21 主は引き続きシロで御自身を現された。主は御言葉をもって、シロでサムエルに御自身を示された。
4:1 サムエルの言葉は全イスラエルに及んだ。
サムエル記上 3章1節~4章1節
メッセージ
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今朝は、『サムエル記上』の第3章1節から第4章1節前半より、「サムエルの召命」という題でお話しします。
少年サムエルはエリのもとで主に仕えておりました。ユダヤ人の歴史家ヨセフスによると、このとき、サムエルは12歳でありました。少年サムエルは祭司エリの教育を受けながら、シロの神殿で主に仕えていたのです。そのころ、主の言葉が臨むことは少なく、幻が示されることもまれでありました。このことは、祭司であるエリの家が、主を侮って、罪を犯していたことと関係があります。前回、学びましたように、主は、「わたしを重んじる者をわたしは重んじ、わたしを侮る者をわたしは軽んじる」御方であります。それゆえ、主は、御自分を軽んじる者たちに、まれにしか言葉と幻を示されなかったのです。
ある日、エリは自分の部屋で床に就いていました。エリは目がかすんできて、見えなくなっていました。エリは年を重ねて衰えていたのです。まだ神のともし火は消えておらず、サムエルは神の箱が安置されている主の神殿に寝ていました。神殿では、一晩中、ともし火をともすことが命じられていました(出エジプト27:20、21参照)。ですから、「まだ神のともし火は消えておらず」とは、これから起こることが、夜明け前の出来事であることを示しているのです。少年サムエルは、神の箱を守る者として、神殿で寝ていたのでしょう。主はサムエルを呼ばれました。サムエルは、「ここにいます」と答えて、エリのもとに走って行きました。サムエルは、主に呼ばれたことが分からず、エリから呼ばれたと思ったのです。エリの部屋は、聖所のすぐ近くにあったようですね。エリは、目がかすんできて、見えなくなっていましたから、サムエルを呼ぶことがあったのでしょう。それで、サムエルは、エリのもとに走って行ったのです。サムエルが「お呼びになったので参りました」と言うと、エリは、「わたしは呼んでいない。戻っておやすみ」と言いました。それで、サムエルは戻って寝ました。このようなことが三度ありました。それで、エリは、サムエルを呼ばれたのは主であると悟り、サムエルにこう言いました。「戻って寝なさい。もしまた呼びかけられたら、『主よ、お話しください。僕は聞いております』と言いなさい」。サムエルは戻って、元の場所、つまり、神の箱が安置されている聖所で寝ました。
主は来てそこに立たれ、これまでと同じように、サムエルを呼ばれました。
「サムエル、サムエル」。新共同訳聖書は、「サムエルよ」と一度しか名前が呼ばれていませんが、元の言葉では、「サムエル、サムエル」と二度名前が呼ばれています(聖書協会共同訳参照)。主は、かつて、モーセの名前を二度呼ばれたように、サムエルの名前を二度呼ばれるのです(出エジプト3:4参照)。サムエルは答えてこう言いました。「どうぞお話しください。僕は聞いております」。これは、エリから教えられた言葉であります。ここに、私たちが神の言葉を聞く姿勢が示されています。私たちにとりまして、神の言葉は、聖書とその解き明かしである説教であります。その神の言葉を私たちはどのような姿勢で聞けばよいのか。それは、「どうぞお話しください。僕は聞いております」という姿勢であるのです。別の言い方をすれば、「神さまは、神の言葉を求めて、へりくだる者にお語りになる」ということです。私たちが聞こうとしない人に話すことができないように、神さまも聞こうとしない人には語ることができないのです。ですから、私たちは、「どうぞお話しください」と祈るべきであるのです。また、私たちが人の話を心の準備をして聞くように、神さまのお話を聞くためには、ふさわしい心の備えが必要であります。その心の備えこそ、僕に象徴されるへりくだった心であるのです。「どうぞお話しください。僕は聞いております」。このサムエルの言葉は、説教を準備する説教者の祈りであります。また、説教を聴く会衆の祈りでもあります。神の言葉を語る者にも、神の言葉を聞く者にも、へりくだった心が求められるのです。それゆえ、私たちが神の言葉を語り、聞くことができるのは、礼拝においてであるのです。神の言葉を求めて集い、「どうぞお話しください。僕は聞いております」と祈る礼拝において、神さまは、私たちに語りかけてくださるのです。
主はサムエルにこう言われました。「見よ、わたしは、イスラエルに一つのことを行う。それを聞く者は皆、両耳が鳴るだろう。その日わたしは、エリの家に告げたことをすべて、始めから終わりまでエリに対して行う。わたしはエリに告げ知らせた。息子たちが神を汚す行為をしていると知りながら、とがめなかった罪のために、エリの家をとこしえに裁く、と。わたしはエリの家について誓った。エリの家の罪は、いけにえによっても献げ物によってもとこしえに贖われることはない」。「両耳が鳴る」とは、災いの出来事を耳にするときに用いる表現です(列王下21:12参照)。主がサムエルにお語りになった災いの出来事は、神の人がエリに告げた内容とほとんど同じです。祭司エリの家の罪は、神さまへのいけにえに対する罪でありました。神さまは、罪の赦しをもたらすために、動物犠牲を定められ、祭司を立てられました。しかし、祭司エリの家は、そのいけにえの最上のものを盗むことによって、私腹を肥やしていたのです。それゆえ、エリの家の罪は、いけにえによっても献げ物によってもとこしえに贖われることはないのです。
サムエルは朝まで眠って、それから主の家の扉を開きました。サムエルはエリにこのお告げを伝えることを畏れました。それはエリにとって災いを告げるものであったからです。エリはサムエルを呼んでこう言いました。「わが子、サムエルよ」。エリは、ならず者の息子たちの代わりに、サムエルをわが子のように可愛がっていたのです。サムエルが、「ここにいます」と答えると、エリはこう言いました。「お前に何が語られたのか。わたしに隠してはいけない。お前に語られた言葉を一つでも隠すなら、神が幾重にもお前を罰してくださるように」。ここで、エリは、神の言葉を聞いた者がなすべきことを教えています。神の言葉を聞いた者は、人の顔色をうかがって、隠し立てしてはならないのです。むしろ、神さまが語られたとおりに、人に語らねばならないのです(エレミヤ1:7、8参照)。サムエルはエリに一部始終を話し、隠し立てはしませんでした。サムエルは、エリに主の裁きを告げたのです。エリは、サムエルの話を聞いて、サムエルに語りかけた御方が、確かに主であることが分かりました。それで、こう言うのです。「それを話されたのは主だ。主が御目にかなうとおりに行われるように」。このように、エリは、自分たちの罪に対する主の裁きを受け入れるのです。
サムエルは成長し、主はサムエルと共におられました。「その言葉は一つたりとも地に落ちることはなかった」とは、サムエルの言葉が一つ残らずそのとおりになったことを示しています(申命18:22参照)。ダンからベエルシェバまで、つまり北から南まで、イスラエルのすべての人々はサムエルが主の預言者として信頼に足る人であることを認めました。祭司として主に仕えていたサムエルは、預言者として召され、立てられたのです(エレミヤもエゼキエルも祭司であったが預言者として召された)。主は引き続きシロで、御言葉をもって、サムエルに御自身を示されました。こうして、サムエルの言葉、サムエルを通して語られる主の御言葉が全イスラエルに臨んだのです。そして、ここに、主が御言葉の説教者を召し、教会を立ててくださっている目的があるのです。主は、この日本の埼玉県の羽生市に住む人たちにも神の言葉が及ぶように、説教者を召し、教会を立ててくださっているのです。