洗礼者ヨハネの殉教 2020年11月08日(日曜 朝の礼拝)

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洗礼者ヨハネの殉教

日付
説教
村田寿和 牧師
聖書
マルコによる福音書 6章14節~29節

聖句のアイコン聖書の言葉

6:14 イエスの名が知れ渡ったので、ヘロデ王の耳にも入った。人々は言っていた。「洗礼者ヨハネが死者の中から生き返ったのだ。だから、奇跡を行う力が彼に働いている。」
6:15 そのほかにも、「彼はエリヤだ」と言う人もいれば、「昔の預言者のような預言者だ」と言う人もいた。
6:16 ところが、ヘロデはこれを聞いて、「わたしが首をはねたあのヨハネが、生き返ったのだ」と言った。
6:17 実は、ヘロデは、自分の兄弟フィリポの妻ヘロディアと結婚しており、そのことで人をやってヨハネを捕らえさせ、牢につないでいた。
6:18 ヨハネが、「自分の兄弟の妻と結婚することは、律法で許されていない」とヘロデに言ったからである。
6:19 そこで、ヘロディアはヨハネを恨み、彼を殺そうと思っていたが、できないでいた。
6:20 なぜなら、ヘロデが、ヨハネは正しい聖なる人であることを知って、彼を恐れ、保護し、また、その教えを聞いて非常に当惑しながらも、なお喜んで耳を傾けていたからである。
6:21 ところが、良い機会が訪れた。ヘロデが、自分の誕生日の祝いに高官や将校、ガリラヤの有力者などを招いて宴会を催すと、
6:22 ヘロディアの娘が入って来て踊りをおどり、ヘロデとその客を喜ばせた。そこで、王は少女に、「欲しいものがあれば何でも言いなさい。お前にやろう」と言い、
6:23 更に、「お前が願うなら、この国の半分でもやろう」と固く誓ったのである。
6:24 少女が座を外して、母親に、「何を願いましょうか」と言うと、母親は、「洗礼者ヨハネの首を」と言った。
6:25 早速、少女は大急ぎで王のところに行き、「今すぐに洗礼者ヨハネの首を盆に載せて、いただきとうございます」と願った。
6:26 王は非常に心を痛めたが、誓ったことではあるし、また客の手前、少女の願いを退けたくなかった。
6:27 そこで、王は衛兵を遣わし、ヨハネの首を持って来るようにと命じた。衛兵は出て行き、牢の中でヨハネの首をはね、
6:28 盆に載せて持って来て少女に渡し、少女はそれを母親に渡した。
6:29 ヨハネの弟子たちはこのことを聞き、やって来て、遺体を引き取り、墓に納めた。マルコによる福音書 6章14節~29節

原稿のアイコンメッセージ

序.

 小見出しに、「洗礼者ヨハネ、殺される」とありますように、今朝の御言葉は、洗礼者ヨハネの死について記しています。洗礼者ヨハネについては、第1章に記されていました。洗礼者ヨハネは、『イザヤ書』に預言されていた人物で、主に先立って遣わされ、主の道を準備する者でありました。洗礼者ヨハネは、主イエスに先立って活動した、主イエスの先駆者であったのです。主イエスはヨハネから洗礼を受けて、罪人の救い主として歩みを始められたのです。ヨハネが捕らえられたことについては、第1章14節に、こう記されていました。「ヨハネが捕らえられた後、イエスはガリラヤへ行き、神の福音を宣べ伝えて、『時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい』と言われた」(~15)。このようにイエスさまは、ヨハネが捕らえられた後に、ガリラヤで福音を宣べ伝えられたのです。そのことを念頭において、今朝の御言葉を読み進めていきたいと思います。

1.イエスについての評判

 イエスさまが、ナザレ付近の村を巡り歩いて教えられたことにより、また、使徒たちを二人ずつ遣わされることによって、イエスさまの名が知れ渡りました。イエスさまの評判は、ガリラヤの領主であるヘロデの耳にも入ったのです。「ヘロデ王」と記されておりますが、この「ヘロデ」は「ヘロデ大王」の息子である「ヘロデ・アンティパス」のことです。「ヘロデ・アンティパス」は、王ではなく、ガリラヤとペレアの領主でありました。「ヘロデ王」はいわば俗称(俗世間で言いならわしている名称)であるのです。人々は、イエスさまについて、こう言っていました。「洗礼者ヨハネが死者の中から生き返ったのだ。だから、奇跡を行う力が彼に働いている」。これは、イエスさまが奇跡を行うことができることの解釈ですね。「なぜ、イエスは、奇跡を行うことができるのか。それは、ヨハネが死者の中から生き返って、イエスのうちに働いているからだ」と言うのです。イエスさまは、神の霊、聖霊によって、力ある業を行っているのですが、人々は、「死者の中から生き返ったヨハネの霊が、イエスの内に働いて、力ある業を行っている」と言ったのです。ヨハネの肉体が生き返ったというよりも、ヨハネの霊がイエスさまの内に働くという仕方で、ヨハネが生き返ったと言っているのです。『列王記下』の第2章に、天に上げられたエリヤの霊を、エリシャが受け継いだ話が記されています。それと同じような捉え方を人々はしていたのです。

 その他にも、イエスさまについて、「彼はエリヤだ」という人もいれば、「昔の預言者のような預言者だ」という人もいました。『マラキ書』を読むと、主の日が来る前に、預言者エリヤが遣わされると記されています(マラキ3:23参照)。炎の馬車で天に上げられたエリヤが、主の日が来る前に、遣わされると人々は信じていたのです。「そのエリヤこそ、イエスだ」とある人は言っていたのです。これも、イエスさまの内にエリヤの霊が宿っているという意味で言ったのかも知れません。また、ある人は、イエスさまを「昔の預言者のような預言者だ」と言いました。確かにイエスさまは、御自分が預言者であることを意識しておられました(6:4参照)。しかし、イエスさまは、預言者に留まらない、王であり、大祭司でもあるのです。

 このようなイエスさまについての評判を聞いて、ヘロデはこう言いました。「わたしが首をはねたあのヨハネが、生き返ったのだ」。このヘロデの言葉によって、私たちは、ヨハネがヘロデの手によって殺されたことを知るわけです。そして、福音書記者マルコは、過去に起こったヨハネの死の物語を記すのです。

2.ヨハネの投獄

 ヘロデは、自分の兄弟フィリポの妻へロディアと結婚しており、そのことで、ヨハネを捕らえ、牢につないでいました。なぜなら、ヨハネが、「自分の兄弟の妻と結婚することは、律法で許されていない」とヘロデに言っていたからです(レビ20:21参照)。ヨハネという人は、相手が王(領主)であろうと、悪いことは悪いとはっきり言える人でありました。その点でも、ヨハネは預言者エリヤに似ているわけです(列王上18:18参照)。ヨハネは、服装(毛衣を着て、腰に革帯をしめる)だけではなく、王に対して神の言葉をはっきりと語ることにおいても、エリヤとそっくりであったのです(列王下1:8、マルコ1:6参照)。へロディアはヨハネを恨み、彼を殺そうと思っていました。へロディアは、ヨハネを殺すことによって、ヨハネが語る神の言葉を聞かなくてすむようにしようとしたのです。しかし、それができませんでした。なぜなら、ヘロデが、ヨハネは正しい聖なる人であることを知って、彼を恐れ、保護していたからです。また、その教えを聞いて非常に当惑しながらも、なお喜んで耳を傾けていたからです。へロディアは、ヨハネを殺して、その教えを聞かないで済むようにしたかった。しかし、ヘロデは、ヨハネの教えを聞いて非常に当惑しながらも、喜んで耳を傾けていたのです。ヘロデは、ヨハネを捕らえて、ヨハネが公の場で、自分の結婚を非難しなければ、それでよかったわけです。ヨハネの命まで取るつもりはなく、むしろ、ヨハネを保護して、当惑しながらも、その言葉に喜んで耳を傾けていたのです。

3.ヘロデの宴会

 ところが、ヨハネを殺そうと思っていたへロディアにとって、良い機会が訪れました。ヘロデが、自分の誕生日の祝いに高官や将校、ガリラヤの有力者などを招いて宴会を催したのです。その宴会の場に、へロディアは、娘を送りこみます。そして、妖艶(ようえん「なまめかしくあでやかなこと」の意)な踊りをおどらせたのです。喜んだヘロデ王は、少女にこう言いました。「欲しいものがあれば何でも言いなさい。お前にやろう」。更には、「お前が願うなら、この国の半分でもやろう」と固く誓ったのです。「この国の半分でもやろう」という言葉は、その昔、ペルシャの王クセルクセスが、王妃エステルに言ったのと同じセリフです(エステル5:3、7:2参照)。しかし、先程も申しましたように、ヘロデは王ではなく、領主ですから、実際は、そのような権限があるわけではありません。しかし、ヘロデは、あたかも王であるかのように振る舞うのです。

 少女が座を外して、母親に、「何を願いましょうか」と言うと、母親は、「洗礼者ヨハネの首を」と言いました。早速、少女は大急ぎで王の所に行き、「今すぐに洗礼者ヨハネの首を盆に載せて、いただきとうございます」と願いました。王は、少女の願いを聞いて非常に心を痛めました。なぜなら、ヘロデは、ヨハネが正しい聖なる人であることを知っていたからです。しかし、王は、誓ったことではあるし、また客の手前、少女の願いを退けたくありませんでした。ヘロデは、客たちの前で、王として振る舞うのです。王とは、どういう存在でしょうか。王とは、思うままに人を殺し、思うままに人を生かすことができる存在です。少なくとも、まことの神を知らない異邦人の王はそのような存在でした(ダニエル5:19「父王様は思うままに殺し、思うままに生かし、思うままに栄誉を与え、思うままに没落させました」参照)。ヘロデは、神を畏れない王として、衛兵を遣わし、ヨハネの首を持って来るように命じるのです。その王の言葉に従って、衛兵は出て行き、牢の中でヨハネの首をはね、盆に載せて持って来て少女に渡したのです。そして、少女はヨハネの首を母親に渡したのです。ここに記されていることは、何ともおぞましい出来事であります。正しい聖なる人であるヨハネは、少女の踊りの褒美として、首をはねられたのです。このことを聞いたヨハネの弟子たちは、まことにやりきれなかったと思います。ヨハネの弟子たちは、ヨハネの遺体を引き取り、墓に納めました。このようにして洗礼者ヨハネは、その地上の生涯を閉じたのです。

結.洗礼者ヨハネの殉教

 今朝の説教題を「洗礼者ヨハネの殉教」としました。「殉教」と訳されるギリシャ語(マルトゥリア)は「証し」とも訳される言葉であります(黙示6:9「神の言葉と自分たちが立てた証しのために殺された人々の魂を、わたしは祭壇の下に見た」参照)。自分の命(死)をもって信仰を証しする、それが殉教であります。洗礼者ヨハネの死は、無意味な死ではなく、来たるべき御方、イエス・キリストを証しする死でありました。洗礼者ヨハネは、イエスさまに先立って歩んだだけではなく、イエスさまに先立って死んだのです。この後、イエスさまは、信仰を言い表した弟子たちに、御自分の死と復活について予告されます。イエスさまは、「人の子は必ず多くの苦しみを受け、長老、祭司長、律法学者たちから排斥されて殺され、三日目に復活することになっている」と弟子たちに教え始められます(マルコ8:31)。それは、聖書に書いてあるからでありますが、それだけではなかったと思います。なぜ、イエスさまは、そのようにはっきりとお語りになったのか。それは、自分の先駆者であるヨハネが捕らえられ、殺されたからです(マルコ9:12、13参照)。ヨハネの処刑は、イエスさまの処刑の先がけでもあるのです。しかし、イエスさまとヨハネは違います。イエスさまには希望があるのです。なぜなら、イエスさまは、死者の中から復活させられるからです。神さまは、イエスさまを死者の中から栄光の体で復活させられるのです。そして、ここに、イエスさまに遣わされて、福音を宣べ伝える私たちの希望があるのです。復活されたイエスさまの霊が、私たちの内に働いておられる。復活されたイエスさまが、私たちの内に生きておられるのです(ガラテヤ2:20参照)。人々のイエスさまについての評判、「洗礼者ヨハネが死者の中から生き返ったのだ。だから、奇跡を行う力がイエスに働いている」という評判は、見当違いであります。しかし、復活されたイエス・キリストの聖霊が、弟子である私たちの内に働いておられることは、真実であるのです。ですから、私たちは死を恐れることなく、イエス・キリストの福音を宣べ伝えることができるのです(使徒たちが死を恐れることなく、福音を宣べ伝えることができた理由!)。復活されたイエス・キリストの聖霊が私たちの内に働いておられる。それゆえ、私たちは生きるにしても、死ぬにしても、主イエス・キリストを証しすることができるのです(ローマ14:8参照)。

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