エリの警告 2020年10月28日(水曜 聖書と祈りの会)
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エリの警告
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- 村田寿和 牧師
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サムエル記上 2章22節~26節
聖書の言葉
2:22 エリは非常に年老いていた。息子たちがイスラエルの人々すべてに対して行っていることの一部始終、それに、臨在の幕屋の入り口で仕えている女たちとたびたび床を共にしていることも耳にして、
2:23 彼らを諭した。「なぜそのようなことをするのだ。わたしはこの民のすべての者から、お前たちについて悪いうわさを聞かされている。
2:24 息子らよ、それはいけない。主の民が触れ回り、わたしの耳にも入ったうわさはよくない。
2:25 人が人に罪を犯しても、神が間に立ってくださる。だが、人が主に罪を犯したら、誰が執り成してくれよう。」しかし、彼らは父の声に耳を貸そうとしなかった。主は彼らの命を絶とうとしておられた。
2:26 一方、少年サムエルはすくすくと育ち、主にも人々にも喜ばれる者となった。サムエル記上 2章22節~26節
メッセージ
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今朝は、『サムエル記上』の第2章22節から26節より、「エリの警告」という題でお話しします。
非常に年老いたエリは、息子たちがイスラエルの人々すべてに対して行っていることを一部始終聞きました。これは、前回学んだ、エリの息子たちが、主への供え物を軽んじていたことでしょう。エリの息子たちは、イスラエルの人々が供えるすべての献げ物の中から最上のものを取って、私腹を肥やしていたのです(サムエル上2:29参照)。また、エリは、息子たちが、臨在の幕屋の入り口で仕えている女たちとたびたび床を共にしていることも耳にしました(出エジプト38:8参照)。エリの息子たちは、不品行の罪をも犯していたのです。エリは息子たちを諭して、こう言います。「なぜそのようなことをするのだ。わたしはこの民のすべての者から、お前たちについて悪いうわさを聞かされている。息子らよ、それはいけない。主の民が触れ回り、わたしの耳にも入ったうわさはよくない。人が人に罪を犯しても、神が間に立ってくださる。だが、人が主に罪を犯したら、誰が執り成してくれよう」。
今朝、注目したいのは、25節の御言葉です。「人が人に罪を犯しても、神が間に立ってくださる。だが、人が主に罪を犯したら、誰が執り成してくれよう」。「人が人に罪を犯しても、神が間に立ってくださる」。これは、よく分かります。実際、人が人に罪を犯した場合、裁判官は神の名によって裁きをします。しかし、問題は、後半の「人が主に罪を犯したら、誰が執り成してくれよう」という言葉です。これを読むと、まず思うのが、「動物犠牲をはじめとする祭司制度があるではないか」ということです。主は人が罪を犯すことをご存じのうえで、祭司制度を定められたではないかということです。ですから、「人が主に罪を犯したら、祭司がいけにえを献げて執り成してくれる」と思うのです。しかし、問題は、ここで、主に対して罪を犯しているのが祭司であり、その罪が主への供え物に対する罪であったということです。それゆえ、主に対して故意に罪を犯しているエリの息子たちを、だれも執り成すことができないのです。
イエスさまは、『マルコによる福音書』の第3章29節で、「聖霊を冒涜する者は永遠に赦されず、永遠に罪の責めを負う」と言われました。これも同じような理屈です。聖霊は、「イエスは主である」と告白させてくださる御方です。その聖霊を冒涜するならば、その人は、「イエスは主である」と告白することはできず、イエスさまの十字架の贖いにあずかることができないのです。聖霊を冒涜する者は、イエスさまの永遠の祭司職にあずかれないゆえに、永遠に自分の罪の責めを負うことになるのです(イエスさまは永遠の大祭司として、御自身を永遠の贖いのいけにえとしてささげられた。そして、その贖いに基づいて、父なる神の右で執り成しておられる)。
年老いたエリは心を痛めて、息子たちを諭すのですが、彼らは父の声に耳を貸そうとはしませんでした。それは、主が彼らの命を絶とうとしておられたからです。新共同訳は、訳出していませんが、元の言葉には「なぜなら」と訳せる言葉(キー)が記されています。ですから、新改訳2017は、このところを次のように翻訳しています。「しかし、彼らは父の言うことを聞こうとしなかった。彼らを殺すことが主のみこころだったからである」。『出エジプト記』を読むと、主がエジプトの王ファラオの心をかたくなにして、モーセの言うことを聞かないようにされたことが記されています(出エジプト4:21、7:3など)。同じことがここで起こっているのです。エリの息子たちは、父の言葉に耳を傾けることなく、かたくなになり、自分の罪のゆえに死ぬことになるのです。このことは、息子たちのうえに、主の裁きがすでに始まっていることを示しています。主は罪を犯す者たちをその罪の中に放置されるという仕方で裁かれるのです(ローマ1:24「そこで神は、彼らが心の欲望によって不潔なことをするにまかせられ、そのため彼らは互いにその体を辱めました」参照)。
他方、少年サムエルはすくすくと育ち、主にも人々にも喜ばれる者となりました。エリの息子たちの罪が大きくなり、死を招くことになるのに対して、少年サムエルは、健やかに成長し、神と人々に喜ばれる者となるのです。
このように、聖書は、エリの息子たちとサムエルを対比しながら記します。そして、ここに、神さまの御計画がどのようなものであるかが暗示されているのです。主は、御自分を畏れないエリの息子たちに代えて、少年サムエルを祭司として立てようとしておられるのです。そのような神さまの御計画が、エリの息子たちの罪を通しても、進められていくのです。