正しい人の祈りの力 2020年10月18日(日曜 朝の礼拝)
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- 村田寿和 牧師
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ヤコブの手紙 5章13節~20節
聖書の言葉
5:13 あなたがたの中で苦しんでいる人は、祈りなさい。喜んでいる人は、賛美の歌をうたいなさい。
5:14 あなたがたの中で病気の人は、教会の長老を招いて、主の名によってオリーブ油を塗り、祈ってもらいなさい。
5:15 信仰に基づく祈りは、病人を救い、主がその人を起き上がらせてくださいます。その人が罪を犯したのであれば、主が赦してくださいます。
5:16 だから、主にいやしていただくために、罪を告白し合い、互いのために祈りなさい。正しい人の祈りは、大きな力があり、効果をもたらします。
5:17 エリヤは、わたしたちと同じような人間でしたが、雨が降らないようにと熱心に祈ったところ、三年半にわたって地上に雨が降りませんでした。
5:18 しかし、再び祈ったところ、天から雨が降り、地は実をみのらせました。
5:19 わたしの兄弟たち、あなたがたの中に真理から迷い出た者がいて、だれかがその人を真理へ連れ戻すならば、
5:20 罪人を迷いの道から連れ戻す人は、その罪人の魂を死から救い出し、多くの罪を覆うことになると、知るべきです。
ヤコブの手紙 5章13節~20節
メッセージ
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昨年、2019年の9月から月に一度、『ヤコブの手紙』から説教してきました(4月を除く)。今朝は、その最後の説教となります。私たちは、『ヤコブの手紙』の結びの言葉を御一緒に学ぼうとしているのです。
13節を読みます。
あなたがたの中で苦しんでいる人は、祈りなさい。喜んでいる人は、賛美の歌を歌いなさい。
新約聖書にある手紙は、教会の礼拝において公に朗読されました。ヤコブは、この手紙の朗読を聞いている会衆に対して、「あなたがたの中で苦しんでいる人は、祈りなさい。喜んでいる人は、賛美の歌を歌いなさい」と語りかけます。教会の中には、いろいろな人たちがいます。苦しみを耐え忍んでいる人もいれば、ことがうまく運んで喜んでいる人もいます。そして、どちらの人にも、ヤコブは神さまに思いを向けるようにと命じるのです。苦しみに耐えている人は、神などいないのではないかと絶望してしまう恐れがあります。しかし、その苦しみの中で、神さまに祈りなさいとヤコブは命じるのです。『詩編』でダビデが祈っているように、「主よ、わたしを苦しみから救い出してください」と祈るべきであるのです。また、ことがうまく運んで喜んでいる人は、神さまのことを忘れて、自分を誇る恐れがあります。自分で自分をほめたたえてしまうのです。しかし、その喜びの中でこそ、主をほめたたえる、主に感謝をささげるべきであるのです。私たちの人生には、苦しみの時もあれば、喜びの時もあります。私たちは苦しみの時は神さまに祈り、喜びの時は神さまをほめたたえる。それは、私たちが苦しみをも喜びをも、神さまの御手からいただくからです。
14節と15節を読みます。
あなたがたの中で病気の人は、教会の長老を招いて、主の名によってオリーブ油を塗り、祈ってもらいなさい。信仰に基づく祈りは、病人を救い、主がその人を起き上がらせてくださいます。その人が罪を犯したのであれば、主が赦してくださいます。
ヤコブは、教会の中にいる病を患っている人にも語りかけています。私たちは、今は健康で礼拝に出席することができても、病を患って、礼拝に出席できなくなるかも知れません(あるいは、高齢になり、衰えて礼拝に出席できなくなるかも知れません)。そのとき、私たちはどうしたらよいのでしょうか。ヤコブは、教会の長老たちを招いて、主の名によってオリーブ油を塗り、祈ってもらいなさいと命じます。『新共同訳聖書』は、「長老」と記していますが、元の言葉を見ると、複数形で記されています。ヤコブは、教会の長老たちを招くようにと記しているのです。この長老たちは、教会を代表する者たちであります。その教会を代表する長老たちに、執り成しの祈りをささげてもらいなさいとヤコブは言うのです。ここで、思い起こすべきは、『マタイによる福音書』の第18章に記されている主イエスの御言葉です。「はっきり言っておくが、どんな願い事であれ、あなたがたのうち二人が地上で心を一つにして求めるなら、わたしの天の父はそれをかなえてくださる。二人または三人がわたしの名によって集まるところには、わたしもその中にいるのである」。病気を患って、礼拝に集うこともできず、一人で横になっている。そこに、教会を代表する長老たちが、来て、オリーブ油を塗り、祈ってくれる。そこは、イエスさまの名によって集まる小さな教会であります。ですから、その祈りを主は必ず聞いてくださる。かつて、ガリラヤで多くの人々を癒された主イエスが、自分たちの祈りに応えて、病を癒し、起き上がらせてくださる。そのことを信じて、祈ることができるのです。15節に、「信仰に基づく祈り」とありますが、その信仰とは、主イエスが病人を救い、起き上がらせてくださるという信仰であります。私たちは、病を患っている人のために祈るとき、そのような信仰をもって祈っているのです。15節の後半に、「その人が罪を犯したのであれば、主が赦してくださいます」とあります。誤解のないように申しますが、ヤコブは、必ずしも、病と罪を結びつけてはいません。「その人が罪を犯したのであれば」とあるように、ある特定の事例のことを言っているのです。罪の思いにさいなまれて、体調をくずしてしまうことはあり得ることです。人間の心と体が密接に結びついていることは、現代医学も証明していることであります。病を患っている人が、自分の罪に苦しんでいるならば、教会の長老たちは、罪の告白を聞き、主イエスの名によって罪の赦しを宣言するのです。そのように、長老たちは、心と体からなる全人的な癒しの業をするのです。
ローマ・カトリック教会は、ここから「病者の塗油(とゆ)の秘跡」を主張します(七つの秘跡の一つ)。ローマ・カトリック教会では、病気の人に、油を塗って、お祈りするのです。私たち改革派教会は、油を塗ることはしませんが、お祈りすることは大切であると考えています。私たち日本キリスト改革派教会の『礼拝指針』の第128条と第129条には次のように記されています。
第128条(病者のための祈り)
キリスト者は、それぞれの賜物に応じて、病気の人々の肉体的・霊的必要のために奉仕する。また、聖霊が良しとされる時と場所においていやしをなしてくださることを覚え、病者の回復といやしのために用いられる手段の上に神の祝福があることを信じて祈る。
第129条(病者の訪問)
病者とその家族は、牧師に彼らの病気の状態を報告する。牧師と教会役員は、聖霊が人間の生命の危機をも用いて恵みをあらわしてくださることを覚え、病者を訪問し、特にその霊的益のために、病者とその家族に奉仕するように召されている。
この礼拝指針の規定は、今朝の御言葉の適用であると言えます。私たちは、私たちの群れの中で病を患っている人のために、信仰をもって祈りたいと願います。病を患っている方は、牧師に知らせていただきたいと思います。また、訪問を希望される方には、牧師と長老で、あるいは牧師と執事で、訪問させていただきたいと思います(実際には、牧師一人で、あるいは牧師とその配偶者で訪問することが多い。そこには、長老と執事が働いていたり、遠方に住んでいるなどの理由がある)。
16節から18節までを読みます。
だから、主にいやしていただくために、罪を告白し合い、互いのために祈りなさい。正しい人の祈りは、大きな力があり、効果をもたらします。エリヤは、わたしたちと同じような人間でしたが、雨が降らないようにと熱心に祈ったところ、三年半にわたって地上に雨が降りませんでした。しかし、再び祈ったところ、天から雨が降り、地は実を実らせました。
14節と15節は、礼拝に出席できない病床にある人についての記述でしたが、16節は、礼拝に集う群れ全体に言われています。「罪を犯した者を主は赦してくださる。だから、主にいやしていただくために、罪を告白し合い、互いのために祈りなさい」とヤコブは記すのです。罪を赦されることと癒されることは、深く結びついています。主イエスの癒しは、主イエスから罪を赦されることであるのです。そのために、私たちは、自分の罪を告白して、他の人に聞いてもらい、祈ってもらう必要があるのです。他の人に自分の弱さを知ってもらい、執り成しの祈りをささげてもらう。そのようにして、私たちは、癒しの共同体となることができるのです。ヤコブが罪について記すとき、それは、最も尊い律法である「隣人を自分のように愛しなさい」という掟に対する違反のことを考えているのだと思います(ヤコブ2:8参照)。そして、この最も尊い律法を私たちは、「罪の告白の勧告と祈祷」の中で聞いているのです。私たちは、個人的に罪を告白し合い、祈り合うことを、あまりしていないかもしれません。けれども、私たちは、礼拝ごとに、最も尊い律法を聞き、それに従えなかった者として、声を合わせて罪を告白しているのです。そして、私たちは、父と子と聖霊なる三位一体の神の御名によって、罪の赦しをいただくのです。そのようにして、私たちは、神さまからの癒しにあずかっているのです。
16節の後半に、「正しい人の祈りは、大きな力があり、効果をもたらします」とあります。ここでの「正しい人」は、罪を犯さない完全な人のことではありません。文脈で言えば、「罪を告白して、赦された人」のことです。私たちは、礼拝において罪を告白し、父と子と聖霊の御名によって罪の赦しの宣言を受けます。私たちは、イエス・キリストにあって正しい人とされているのです。ですから、私たちの祈りは、大きな力があり、効果をもたらすのです。エリヤの祈りに大きな力があったように、私たちの祈りにも大きな力があるのです。神さまは、イエス・キリストにあって正しい者とされた私たちの祈りを、必ず聞いてくださる。そのことを信じて、祈っていきたいと願います。(カルヴァン著『ジュネーブ教会信仰問答』問252「われわれはあたかも彼(イエス)の口によって祈るようなものでありますから」参照)。
19節と20節を読みます。
わたしの兄弟たち、あなたがたの中に真理から迷い出た者がいて、だれかがその人を真理へと連れ戻すならば、罪人を迷いの道から連れ戻す人は、その罪人の魂を死から救い出し、多くの罪を覆うことになると、知るべきです。
以前、ある長老さんが、「私たちの群れから一人も迷い出ることなく、天の国に入ることができますように」と祈りました。ヤコブがここで願っていることも同じことです。ヤコブは、福音の真理から迷い出る者がいるならば、その人を連れ戻すようにと記します。そして、そのことは、主イエスの御業に匹敵する大きな働きであるのです。20節に、「罪人」とありますが、この「罪人」は真理から迷い出た者のことです。私たちは、イエス・キリストにあって正しい人とされていますが、イエス・キリストから離れてしまうならば、神さまの御前に滅ぶべき罪人であるのです。その罪人を迷いの道から連れ戻すならば、あなたは、その罪人の魂を死から救い、その罪人の多くの罪を覆うことになるであろうと言うのです。そのようにして、私たちは、主イエス・キリストの御業にあずかるものとなるのです。真理から迷い出た人を連れ戻す。このことは、牧師だけに命じられていることではありません。「だれかが」とあるように、すべての信徒が命じられているのです。私たちは主にある兄弟姉妹として、互いの救いのために配慮し合うことが命じられているのです。牧会のことをドイツ語で「ゼールゾルゲ」魂への配慮と言いますが、私たちは互いに魂への配慮をすること(相互牧会)が命じられているのです。
(現在は、コロナウイルス禍により、各委員会の活動、各会の交わりを中止しているが、そのことは、相互牧会にとって、大きなマイナスである。同世代の兄弟姉妹との交わりが私たちの信仰生活をどれほど励ますことか。)