ハンナの賛美 2020年10月14日(水曜 聖書と祈りの会)
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ハンナの賛美
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- 村田寿和 牧師
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サムエル記上 2章1節~11節
聖書の言葉
2:1 ハンナは祈って言った。「主にあってわたしの心は喜び/主にあってわたしは角を高く上げる。わたしは敵に対して口を大きく開き/御救いを喜び祝う。
2:2 聖なる方は主のみ。あなたと並ぶ者はだれもいない。岩と頼むのはわたしたちの神のみ。
2:3 驕り高ぶるな、高ぶって語るな。思い上がった言葉を口にしてはならない。主は何事も知っておられる神/人の行いが正されずに済むであろうか。
2:4 勇士の弓は折られるが/よろめく者は力を帯びる。
2:5 食べ飽きている者はパンのために雇われ/飢えている者は再び飢えることがない。子のない女は七人の子を産み/多くの子をもつ女は衰える。
2:6 主は命を絶ち、また命を与え/陰府に下し、また引き上げてくださる。
2:7 主は貧しくし、また富ませ/低くし、また高めてくださる。
2:8 弱い者を塵の中から立ち上がらせ/貧しい者を芥の中から高く上げ/高貴な者と共に座に着かせ/栄光の座を嗣業としてお与えになる。大地のもろもろの柱は主のもの/主は世界をそれらの上に据えられた。
2:9 主の慈しみに生きる者の足を主は守り/主に逆らう者を闇の沈黙に落とされる。人は力によって勝つのではない。
2:10 主は逆らう者を打ち砕き/天から彼らに雷鳴をとどろかされる。主は地の果てまで裁きを及ぼし/王に力を与え/油注がれた者の角を高く上げられる。」
2:11 エルカナはラマの家に帰った。幼子は祭司エリのもとにとどまって、主に仕えた。サムエル記上 2章1節~11節
メッセージ
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今朝は、『サムエル記上』第2章1節から11節より、「ハンナの賛美」という題でお話しします。
1節と2節を読みます。
ハンナは祈って言った。「主にあってわたしの心は喜び/主にあってわたしは角を高く上げる。わたしは敵に対して口を大きく開き/御救いを喜び祝う。聖なる方は主のみ。あなたと並ぶ者はだれもいない。岩と頼むのはわたしたちの神のみ。」
ハンナが「主にあってわたしの心は喜び」と歌うとき、その喜びは、主にあって子供を授かった喜びであります。ハンナは夫エルカナとの間に男の子を産んだのです。それゆえ、ハンナは「主にあってわたしは角を高く上げる」と言うのです。角とは、雄牛の角のことで「力」の象徴であります。子供のいないハンナは、沢山の子を持つペニナのによって、苦しめられていました。しかし、子供を産んだ今、ハンナは家庭で力ある者となったのです。ハンナが「わたしは敵に対して口を大きく開き/御救いを喜び祝う」と言うとき、その「敵」は、ペニナのことを指すと考えられます(しかし元の言葉は複数形の「敵たち」)。子供のいなかったハンナは、肩身の狭い思いをしていましたが、主にあって子供を授けられ、家庭において力ある者となり、自分を苦しめていたペニナの前で口を大きく開き、御救いを喜び祝うのです(聖書協会共同訳参照)。
2節は、ハンナの信仰告白です。ハンナは主の御救いを喜ぶ者として、「聖なる方は主のみ。あなたと並ぶ者はだれもいない。岩と頼むのはわたしたちの神のみ」と歌うのです。イスラエルの神、主だけが、唯一の神であり、確かな拠り所である。そのように、ハンナは、主に祈りを聞いていただいた体験から、告白するのです。
3節を読みます。
驕り高ぶるな、高ぶって語るな。思い上がった言葉を口にしてはならない。主は何事も知っておられる神/人の行いが正されずに済むであろうか。
ここには、警告の言葉が記されています。主は、私たちの語る言葉に耳を傾けておられます。それゆえ、ハンナは、「あなたがたは驕り高ぶってはなりません」と言うのです(聖書協会共同訳参照)。なぜなら、驕り高ぶりこそ、あらゆる罪の源であるからです。主は何事も知っておられる神であります。主は、人の心をご存じの御方として、人の行いを量られるのです(聖書協会共同訳参照)。すなわち、主は人の心と言葉と行いを裁かれるのです。
4節から8節前半までを読みます。
勇士の弓はおられるが/よろめく者は力を帯びる。食べ飽きている者はパンのために雇われ/飢えている者は再び飢えることがない。子のない女は七人の子を産み/多くの子をもつ女は衰える。主は命を絶ち、また命を与え、陰府に下し、また引き上げてくださる。弱い者を塵の中から立ち上がらせ/貧しい者を芥の中から高く上げ/高貴な者と共に座に着かせ/栄光の座を嗣業としてお与えになる。
ここには、主が社会的な立場を逆転させてくださることが歌われています。主は勇士の弓を折り、よろめく者に力を帯びさせてくださいます。また、主は食べ飽きている者をパンのために働く者とし、飢えている者を満ち足らせてくださいます。さらに主は、子のない女に七人の子を授け、多くの子をもつ女を衰えさせます。このように、主は社会の秩序をひっくり返されるのです。それは、ひとえに主の主権によることであります。主は命を絶ち、また命を与える御方です。また、主は、陰府に下し、また引き上げてくださる御方であります。また、主は「弱い者を塵の中から立ち上がらせ/貧しい者を芥の中から高く上げ/高貴な者と共に座に着かせ/栄光の座を嗣業としてお与えになる」お方であります。そのような主によって、現在の秩序はひっくり返され、新しい秩序が再構築されるのです。主によって子供を産んだハンナに起こった出来事は、まさにそのようなことであったのです。
8節後半から10節までを読みます。
大地のもろもろの柱は主のもの/主は世界をそれらの上に据えられた。主の慈しみに生きる者の足を主は守り/主に逆らう者を闇の沈黙に落とされる。人は力によって勝つのではない。主は逆らう者を打ち砕き/天から彼らに雷鳴をとどろかされる。主は地の果てまで裁きを及ぼし/王に力を与え/油注がれた者の角を高く上げられる。
「大地のもろもろの柱は主のもの/主は世界をそれらの上に据えられた」。ここで、ハンナが言いたいことは、世界は主が打ち立てられた秩序の上に成り立っているということです。この世には、勇士もいれば、よろめく者もいます。食べ飽きている者もいれば、飢えている者もいます。子のない女もいれば、多くの子をもつ女もいます。その背後にあるのは、主によって打ち立てられた秩序です。そして、この秩序は、固定的なものではなく、主の自由な主権によって、ひっくり返されます。では、主は、気ままにこの世の秩序をひっくり返されるのでしょうか。そうではありません。「主の慈しみに生きる者の足を主は守り/主に逆らう者を闇の沈黙に落とされる」のです。世の秩序がひっくり返る、その背後にあるのは、主に忠実な者を守り、悪しき者を闇に落とされるという主の裁きであるのです。主に逆らう人は、自分の力によって勝つことができると考えます。しかし、そうではありません。勝利は、主によってもたらされるのです。ハンナは、「主は逆らう者を打ち砕き/天から彼らに雷鳴をとどろかされる」と歌いますが、そのとおりのことが第7章に記されています。第7章7節から10節までを読みます。旧約の437ページです。
イスラエルの人々がミツパに集まっていると聞いて、ペリシテの領主たちはイスラエルに攻め上って来た。イスラエルの人々はそのことを聞き、ペリシテ軍を恐れて、サムエルに乞うた。「どうか黙っていないでください。主が我々をペリシテ人の手から救ってくださるように、我々の神、主に助けを求めて叫んでください。」サムエルはまだ乳離れしない小羊一匹を取り、焼き尽くす献げ物として主にささげ、イスラエルのために主に焼き尽くす献げ物としてささげ、イスラエルのため主に助けを求めて叫んだ。主は彼に答えられた。サムエルが焼き尽くす献げ物をささげている間に、ペリシテ軍はイスラエルに戦いを挑んだが、主がこの日、ペリシテ軍の上に激しい雷鳴をとどろかせ、彼らを混乱に陥れられたので、彼らはイスラエルに打ち負かされた。
このように、主は御自分に忠実な者たちに、勝利を賜るのです。
今朝の御言葉に戻ります。旧約の430ページです。
10節の後半は、預言ともいえる言葉であります。「主は地の果てまで裁きを及ぼし、王に力を与え/油注がれた者の角を高く上げられる」。ハンナがこの祈りをささげたとき、イスラエルに王はいませんでした。しかし、ハンナは「主の裁きが地の果てにまで及び、その裁きが主によって油を注がれた王によって行われる」と預言するのです。この預言は、サムエルによって油を注がれる、サウルやダビデによって実現することになります。そして、最終的には、ダビデの子孫であるイエス・キリストにおいて実現することになるのです。主は、イエス・キリストを、十字架の死から復活させられ、神の右の座に着かせられることによって、全世界を裁くメシア(王)とされました。そのようにして、この世の秩序をひっくり返し、神の国の秩序を打ち立てられたのです(ルカ22:26、一コリント1:26~29参照)。その神の国の秩序に生きる者として、私たちは、主の救いの御業を喜び祝いたいと願います。