奇跡を行うイエスを信じよう 2020年10月11日(日曜 朝の礼拝)

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奇跡を行うイエスを信じよう

日付
説教
村田寿和 牧師
聖書
マルコによる福音書 6章1節~6節

聖句のアイコン聖書の言葉

6:1 イエスはそこを去って故郷にお帰りになったが、弟子たちも従った。
6:2 安息日になったので、イエスは会堂で教え始められた。多くの人々はそれを聞いて、驚いて言った。「この人は、このようなことをどこから得たのだろう。この人が授かった知恵と、その手で行われるこのような奇跡はいったい何か。
6:3 この人は、大工ではないか。マリアの息子で、ヤコブ、ヨセ、ユダ、シモンの兄弟ではないか。姉妹たちは、ここで我々と一緒に住んでいるではないか。」このように、人々はイエスにつまずいた。
6:4 イエスは、「預言者が敬われないのは、自分の故郷、親戚や家族の間だけである」と言われた。
6:5 そこでは、ごくわずかの病人に手を置いていやされただけで、そのほかは何も奇跡を行うことがおできにならなかった。
6:6 そして、人々の不信仰に驚かれた。それから、イエスは付近の村を巡り歩いてお教えになった。マルコによる福音書 6章1節~6節

原稿のアイコンメッセージ

 前回(先週)、私たちは、イエスさまが12年間も出血の止まらない女を癒されたこと。また、死んでしまった12歳の少女を生き返らせたことを見ました。イエスさまは、不治の病を癒し、死者を生き返らせる命の主、神その方であるのです。

 今朝の御言葉はその続きとなります。

 イエスさまは、ヤイロの家を去って故郷に行きました。故郷とは、「ガリラヤのナザレ」のことであります(1:9、1:24参照)。新共同訳は、「お帰りになった」と翻訳していますが、元の言葉は「行く」と記されています。イエスさまは、休息を取るために故郷にお帰りになったのではありません。イエスさまは、福音を宣べ伝えるために、弟子たちを従えて、故郷へ行ったのです。安息日になったので、イエスさまは、会堂で教え始められました。私が、今、説教しているように、イエスさまは聖書の言葉を解き明かされたのです(ルカ4章参照)。イエスさまが、どのような説教をされたのかは記されていませんが、説教を聞いた多くの人々の反応が記されています。多くの人々は、イエスさまの教えを聞いて、驚き、こう言いました。「この人は、このようなことをどこから得たのだろう。この人が授かった知恵と、その手で行われるこのような奇跡は一体何か。この人は、大工ではないか。マリアの息子で、ヤコブ、ヨセ、ユダ、シモンの兄弟ではないか。姉妹たちは、ここで我々と一緒に住んでいるではないか」。多くの人々は、ナザレに住んでいる人々ですから、イエスさまのことを昔からよく知っていました。彼らは、イエスさまが大工であること、マリアの息子で、4人の兄弟と姉妹たちがいることを知っていたのです。私たちは、このナザレの人々の発言によって、イエスさまの職業や家族構成について知ることができるのです。もし、このナザレの人々の発言がなければ、私たちは、イエスさまの職業も家族構成も知ることはできませんでした。そのような意味で、3節は、イエスさまについての貴重な情報源であるのです。

 多くの人々は、「この人は、このようなことをどこから得たのだろう。この人が授かった知恵と、その手で行われるこのような奇跡は一体何か」と驚きました。それは、この人が、大工であり、自分たちがよく知っている人物であったからです。では、多くの人々は、イエスさまの教えを聞き、奇跡を見て、神さまをほめたたえ、イエスさまを重んじたかと言えばそうではありません。人々はイエスさまにつまずいたのです。人々はイエスさまのうちに、神さまの働きを認めず、イエスさまのことを大工として、自分たちがよく知っている人物として扱ったのです。

 イエスさまは、御自分を信じないナザレの人々に、こう言われました。「預言者が敬われないのは、自分の故郷、親戚や家族の間だけである」。このイエスさまの御言葉を読むと、かつてイエスさまの家族がイエスさまを取り押さえに来たことを思い起こします。第3章21節に、こう記されていました。「身内の人たちはイエスのことを取り押さえに来た。『あの男は気が変になっている』と言われていたからである」。イエスさまの母と兄弟姉妹たちは、イエスさまをナザレの村に連れ戻そうとしたのです。イエスさまの家族は、イエスさまのうちに神さまの働き、聖霊の働きを見ることができなかったのです。そして、イエスさまの故郷の人たちも、イエスさまの教えと力ある業に驚きながらも、イエスさまを預言者として重んじなかったのです。なぜでしょうか。考えられる一つのことは、彼らがイエスさまを妬んだということです。彼らは妬みの心から、大工であり、マリアの息子であるイエスさまを神さまから遣わされた預言者として敬うことができなかったのです。イエスさまの知恵と力が、神さまを源とするものであると認めることができなかったのです。

 ナザレの人々は、イエスさまを「マリアの息子」と呼んでいます。当時のユダヤにおいて、母親の息子と呼ばれることは珍しいことでした。ですから、ある人は、父親はすでに亡くなっていたのだろうと推測します。しかし、他の人が指摘するには、父親が死んでいても、父親の息子と呼ばれたようです。では、なぜ、イエスさまは、「マリアの息子」と呼ばれているのか。それは、イエスさまの父親がだれであるか分からないからだと言うのです。『マルコによる福音書』はイエスさまの誕生の次第について記していません。しかし、『マタイによる福音書』と『ルカによる福音書』を読みますと、マリアがヨセフと生活を共にする前に、聖霊によって、男の子を身ごもったことが記されています。代々の教会が告白してきたように、主イエス・キリストは、聖霊によって、おとめマリアの胎に宿り、お生まれになったのです(使徒信条)。しかし、イエスさまを神の子と信じないユダヤ人たちは、「マリアがヨセフと生活を共にする前に、どこかの男と関係をもってもうけた子がイエスである」と中傷したのです。『ヨハネによる福音書』の第8章で、イエスさまは、御自分を信じないユダヤ人と激しく論争しています。イエスさまが、御自分を殺そうとするユダヤ人に、「あなたがたはアブラハムの子ではない」と言いますと、彼らは、こう言い返しました。「わたしたちは姦淫によって生まれたのではありません」(ヨハネ8:41)。このユダヤ人の言葉は、『ヨハネによる福音書』が記されたとき(紀元90年頃)、イエスさまを信じないユダヤ人たちが「イエスは姦淫によって生まれた」と言っていたことを背景としています(いわゆる二重のドラマ)。このように考えると、ナザレの人々がつまずいた理由が、よく分かるのではないでしょうか。「この人は、マリアの息子、父親の名前も分からないマリアの息子ではないか。そのような人が、預言者であるはずはない」、そう彼らは考えたのです。しかし、そうではありません。イエスさまは聖霊によって、おとめマリアの胎に宿られた神の子であるのです。『マタイによる福音書』の第1章18節から25節までを読みます。新約の1ページです。

 イエス・キリストの誕生の次第は次のようであった。母マリアはヨセフと婚約していたが、二人が一緒になる前に、聖霊によって身ごもっていることが明らかになった。夫ヨセフは正しい人であったので、マリアのことを表ざたにするのを望まず、ひそかに縁を切ろうと決心した。このように考えていると、主の天使が夢に現れて言った。「ダビデの子ヨセフ、恐れず妻マリアを迎え入れなさい。マリアの胎の子は聖霊によって宿ったのである。マリアは男の子を産む。その子をイエスと名付けなさい。この子は自分の民を罪から救うからである。」このすべてのことが起こったのは、主が預言者を通して言われていたことが実現するためであった。「見よ、おとめが身ごもって男の子を産む。その名はインマヌエルと呼ばれる。」この名は、「神は我々と共におられる」という意味である。ヨセフは眠りから覚めると、主の天使が命じたとおり、妻を迎え入れ、男の子が生まれるまでマリアと関係することはなかった。そして、その子をイエスと名付けた。

 このようにイエスさまは、聖霊によっておとめマリアの胎に宿り、お生まれになりました。それゆえ、イエスさまは、まことの神であり、まことの人であるのです。ヨセフは、主の天使の言葉を受け入れ、マリアとその胎の子を迎え入れました。そのようにして、ヨセフはイエスさまの法的な父となり、イエスさまは、聖書の約束のとおり、ダビデの子孫からお生まれになったのです。しかし、ナザレの人々は、そのようなことを知りませんでした。彼らは、自分たちが、イエスさまのことをよく知っていると思っていましたが、イエスさまの誕生の次第については知らないのです。ナザレの人々がイエスさまにつまずいたのは、イエスさまのことをよく知っていたからではありません。彼らがつまずいた、イエスさまのことをよく知っていると思い込んでいたからなのです。

 今朝の御言葉に戻ります。新約の71ページです。

 イエスさまは、ナザレでは、ごくわずかの病人に手を置いていやされただけで、そのほかは何も奇跡を行うことがおできになりませんでした。ここで「奇跡」と訳されている言葉は、直訳すると「力ある業」となります。イエスさまに手を置いて癒していただいた人々は、イエスさまの力の源が、神さまにあることを認めて、イエスさまに病の癒しを願い求めたのでしょう。しかし、イエスさまの力の源が神さまにあることを認めない人々は、病を患っていても、イエスさまに癒していただこうとしなかったのです。それは、彼らが、イエスさまを信じていなかったからです。私たちは、ここで、前回の御言葉を思い起こしたいと思います。イエスさまは、12年間も出血の止まらない病で苦しんでいた女に、こう言われました。「娘よ、あなたの信仰があなたを救った。安心して行きなさい。もうその病気にかからず、元気に暮らしなさい」。イエスさまは、「病の癒しも含めた救いをもたらしたのは、わたしに対するあなたの信頼なのですよ」と言われました。しかし、ナザレの多くの人々には、そのイエスさまに対する信仰、信頼がないのです。それで、イエスさまは、何の奇跡も行うことができなかったのです。イエスさまの内に働く神さまの力を信じない者たちに対して、イエスさまは、神さまの力ある業を行うことができないのです。これは、私たちにとって、ひとつの衝撃ではないでしょうか。イエスさまは、力ある御方である。そうであれば、私たちの信仰にかかわらず、その力を発揮してくださる。そう、私たちは考えてしまう。しかし、そうではありません。私たちのイエスさまに対する信仰、信頼がなければ、イエスさまは、私たちに力ある業を行うことはできないのです。それは、イエスさまと私たちとの関係が相互的な人格関係であるからです。

 イエスさまは、人々の不信仰に驚かれました。聖霊を与えられて、神の知恵を語り、力ある業を行っている自分を、なぜ、人々は信じないのか。その人々の不信仰に驚かれたのです。しかし、イエスさまがつまずくことはありませんでした。イエスさまは、付近の村を巡り歩いて、神の国の福音を告げ知らせたのです。

 今朝の御言葉で、私たちが考えたいことは、「イエスさまが、今の私たちを見たときに、どうであろうか」ということです。イエスさまの力ある業、それは何よりも、「イエス・キリストが信じる者が起こされる」ということです。『ヨハネによる福音書』の第6章29節で、イエスさまはこう言われました。「神がお遣わしになった者を信じること、それが神の業である」。啓示の書としての聖書が完結した時代に生きている私たちにとって、イエス・キリストを信じる人が起こされることこそ、神の力ある業、神の奇跡であるのです。そして、この神の奇跡は、「イエスは主である」と告白する私たち自身のうちに起こった奇跡であるのです。しかし、そのことを私たちは忘れてしまいます。そして、この神の奇跡が、他の人にも起こることを期待しなくなってしまうのです。聖霊と御言葉において、共にいてくださるイエス・キリストが、人々を教会へと招いて、信じる者を起こしてくださることを信じられなくなるのです。「なかなか新しい人が来ないのに、新型コロナウイルス感染症によって、ますます新しい人は来なくなってしまうのではないか」。そのように考えてしまうのです。しかし、そうであるならば、主イエス・キリストは、私たちの間で、力ある業を何も行うことができないのです。「なぜ、新しい人が来ないのか」と私たちが問うならば、イエスさまはこう答えられるでしょう。「それは、あなたがたが、新しい人は来ないと思っているからである」と。「そのようなあなたたちに対して、わたしは力ある業ができない」と。そのような私たちの不信仰にイエスさまが驚かれることのないように、私たちは、神の子であるイエス・キリストが奇跡を行ってくださることを信じて、福音を宣べ伝えていきたいと願います。

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