あなたの信仰があなたを救った 2020年10月04日(日曜 朝の礼拝)

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あなたの信仰があなたを救った

日付
説教
村田寿和 牧師
聖書
マルコによる福音書 5章21節~43節

聖句のアイコン聖書の言葉

5:21 イエスが舟に乗って再び向こう岸に渡られると、大勢の群衆がそばに集まって来た。イエスは湖のほとりにおられた。
5:22 会堂長の一人でヤイロという名の人が来て、イエスを見ると足もとにひれ伏して、
5:23 しきりに願った。「わたしの幼い娘が死にそうです。どうか、おいでになって手を置いてやってください。そうすれば、娘は助かり、生きるでしょう。」
5:24 そこで、イエスはヤイロと一緒に出かけて行かれた。大勢の群衆も、イエスに従い、押し迫って来た。
5:25 さて、ここに十二年間も出血の止まらない女がいた。
5:26 多くの医者にかかって、ひどく苦しめられ、全財産を使い果たしても何の役にも立たず、ますます悪くなるだけであった。
5:27 イエスのことを聞いて、群衆の中に紛れ込み、後ろからイエスの服に触れた。
5:28 「この方の服にでも触れればいやしていただける」と思ったからである。
5:29 すると、すぐ出血が全く止まって病気がいやされたことを体に感じた。
5:30 イエスは、自分の内から力が出て行ったことに気づいて、群衆の中で振り返り、「わたしの服に触れたのはだれか」と言われた。
5:31 そこで、弟子たちは言った。「群衆があなたに押し迫っているのがお分かりでしょう。それなのに、『だれがわたしに触れたのか』とおっしゃるのですか。」
5:32 しかし、イエスは、触れた者を見つけようと、辺りを見回しておられた。
5:33 女は自分の身に起こったことを知って恐ろしくなり、震えながら進み出てひれ伏し、すべてをありのまま話した。
5:34 イエスは言われた。「娘よ、あなたの信仰があなたを救った。安心して行きなさい。もうその病気にかからず、元気に暮らしなさい。」
5:35 イエスがまだ話しておられるときに、会堂長の家から人々が来て言った。「お嬢さんは亡くなりました。もう、先生を煩わすには及ばないでしょう。」
5:36 イエスはその話をそばで聞いて、「恐れることはない。ただ信じなさい」と会堂長に言われた。
5:37 そして、ペトロ、ヤコブ、またヤコブの兄弟ヨハネのほかは、だれもついて来ることをお許しにならなかった。
5:38 一行は会堂長の家に着いた。イエスは人々が大声で泣きわめいて騒いでいるのを見て、
5:39 家の中に入り、人々に言われた。「なぜ、泣き騒ぐのか。子供は死んだのではない。眠っているのだ。」
5:40 人々はイエスをあざ笑った。しかし、イエスは皆を外に出し、子供の両親と三人の弟子だけを連れて、子供のいる所へ入って行かれた。
5:41 そして、子供の手を取って、「タリタ、クム」と言われた。これは、「少女よ、わたしはあなたに言う。起きなさい」という意味である。
5:42 少女はすぐに起き上がって、歩きだした。もう十二歳になっていたからである。それを見るや、人々は驚きのあまり我を忘れた。
5:43 イエスはこのことをだれにも知らせないようにと厳しく命じ、また、食べ物を少女に与えるようにと言われた。

マルコによる福音書 5章21節~43節

原稿のアイコンメッセージ

 今朝は、『マルコによる福音書』の第5章21節から43節より、御言葉の恵みにあずかりたいと願います。

 イエスさまと弟子たちは、舟に乗って再び向こう岸に渡られました。ゲラサ人が住む異邦人の土地からユダヤ人の住む土地へと戻って来られたのです。すると、大勢の群衆がそばに集まって来ました。その中に、会堂長の一人でヤイロという名の人がいました。ヤイロは、イエスさまが、病気にかかっている多くの人を癒されたことを聞いていたのでしょう。ヤイロは、イエスさまの足もとにひれ伏して、こうしきりに願いました。「わたしの幼い娘が死にそうです。どうか、おいでになって手を置いてやってください。そうすれば、娘は助かり、生きるでしょう」。ここに、ヤイロのイエスさまに対する信仰があります。「イエスさまが来てくださって、娘に手を置いてくだされば、娘は助かり、生きる」。そのように信じて、ヤイロは、イエスさまの足もとにひれ伏し、激しく願ったのです。そこで、イエスさまは、ヤイロと一緒に出かけて行きました。

 大勢の群衆も、イエスさまに従い、押し迫って来ました。この群衆の中に、12年間も出血の止まらない女がいました。これは婦人病の一つで、宗教的な汚れと見なされていました(レビ15:25~27参照)。12年間も出血の止まらない女は、宗教的に汚れた者とされ、神さまと人々との交わりから閉め出されていたのです。これまで女は、病を治そうと、多くの医者にかかりました。女は、そのために全財産を使い果たしたのです。しかし、ひどく苦しめられ、何の役にもたたず、ますます悪くなるだけであったのです。このことは、女の病が、人間にはいやすことができない、不治の病であることを示しています。その不治の病を患っている女が、イエスさまのうわさを聞いたのです。「イエスさまはあらゆる病をいやすことがおできになる」、そのような噂を聞いて、女は群衆の中に紛れ込み、後ろからイエスさまの服に触れたのです。なぜなら、女は、「この方の服にでもふれればいやしていただける」と思ったからです。私は、最初、この所を読んだとき、この女もヤイロのように、イエスさまの前に出て、ひれ伏して、しきりに願ったらよかったのに、と思いました。しかし、よくよく考えると、それは女にはできなかったのだと思います。女にとって、群衆の中に紛れ込み、イエスさまの服に触れるだけで、精一杯であったと思います。そして、女にとって、それで十分であったのです。なぜなら、女は、「この方の服にでも触れればいやしていただける」と信じていたからです。女がイエスさまの服に触れると、すぐに出血が止まって病気がいやされたことを体に感じました。十二年間も患っていた病がいやされたのです。

 女がイエスさまの服に触れたとき、イエスさまは、自分の内から力が出て行ったことに気づかれました。そして、群衆の中で振り返り、「わたしの服に触れたのはだれか」と言われたのです。イエスさまは、自分の服に触れた者を捜されたのです。そこで、弟子たちは、こう言いました。「群衆があなたに押し迫っているのがお分かりでしょう。それなのに、『だれがわたしに触れたのか』とおっしゃるのですか」。弟子たちは、「群衆がさっきから、あなたの服に触れているではありませんか」といぶかりました。確かに、弟子たちが言うとおり、多くの人がイエスさまの服に触れていたのでしょう。しかし、それはイエスさまから力を引き出すような触れ方ではありませんでした。イエスさまが捜しておられるのは、自分の内から力を引き出す触れ方をした人であったのです。イエスさまは、ヤイロの家へと向かう足を止めて、触れた人を見つけようと、辺りを見回しておられました。イエスさまは、自分に触れた人と、顔と顔を合わせて、出会うことを欲せられるのです。女は自分の身に起こったことを知って恐ろしくなり、震えながら進み出て、ひれ伏し、すべてをありのまま話しました。このとき、女は、イエスさまから怒られると思ったかも知れません。なぜなら、この女は汚れた者であり、公の場に出てはならない身であったからです。この女は、群衆の中に紛れ込みましたが、そのこと自体、禁じられていたことでありました。女は、「汚れた者に触れれば、その人も汚れる」という宗教的な掟が支配する社会で、あえて、後ろからイエスさまの服に触れたのです。また、女は、12年間も患っていた不治の病がたちまちいやされたことを体験して、イエスさまが本当に神さまから遣わされた御方であることを知って、恐ろしくなり、震えながら進み出てひれ伏したのです。女は、イエスさまの前で、また、群衆の前で、すべてをありのまま話しました。女は、自分が12年間も、出血の止まらない病に苦しんできたこと。「イエスさまの服にでも触れればいやしていただける」と信じて、群衆に紛れて、後ろからイエスさまの服に触れたこと。そして、イエスさまの服に触れると、たちまち病が癒されたことを話したのです。このことは、女が避けたいと願っていたことですね。女は、後ろからイエスさまの服に触れて、いやしてもらえばそれでよかった。その後は、人知れず、その場を立ち去るつもりであったはずです。しかし、イエスさまは、それをゆるされませんでした。イエスさまは、自分に触れた人と顔と顔を合わせて、交わりを持つことを望まれたのです。そして、女の口から、すべての真実を聞いたうえで、こう言われるのです。「娘よ、あなたの信仰があなたを救った。安心して行きなさい。もうその病気にかからず、元気に暮らしなさい」。イエスさまは、「娘よ」と親しく呼びかけられました。そして、「あなたの信仰があなたを救った」と宣言されたのです。「この方の服にでもふれればいやしていただける」という女の思いを、イエスさまは「あなたの信仰」と言われるのです。「あなたの信仰があなたを救った」。このイエスさまの言葉は、とても大切な御言葉であります。イエス・キリストの使徒パウロは、ローマ書やガラテヤ書の中で、「人は律法の行いによるのではなく、イエス・キリストへの信仰によって救われる」と教えています。その使徒パウロの教えの源となる御言葉が、「あなたの信仰があなたを救った」という主イエスの御言葉であるのです。イエスさまは、「安心して行きなさい」と言われました。ここで「安心」と訳されている言葉(エイレーネー)は、「平和」とも訳すことができます。ヘブライ語で言えば、「シャローム」です。イエスさまは、「平和の中に行きなさい」(直訳)と言われたのです。そして、その平和とは、イエスさまによって救われた人に与えられる平和、神さまとの平和であるのです。続けて、イエスさまは、「もうその病気にかからず、元気に暮らしなさい」と言われました。イエスさまは、「健やかに生きよ」と女を祝福して、神さまと人々との交わりの中へと送り出されたのです。このようにして、女は、肉体の病を癒されただけではなく、心も体も魂も、その存在まるごとをイエスさまに救っていただいたのです。

 イエスさまがまだ話しておられるときに、会堂長の家から人々が来てこう言いました。「お嬢さんは亡くなりました。もう、先生を煩わすには及ばないでしょう」。イエスさまが自分に触れた人を捜して立ち止まって、話をしている間に、ヤイロの娘は死んでしまったのです。「生きている内は、助かるかも知れない。しかし、死んでしまったらおしまいだ」、そのように考えて、人々は、「もう、先生を煩わすには及ばないでしょう」と言いました。しかし、イエスさまは、その言葉を聞き流されて、こう言われるのです。「恐れることはない。ただ信じなさい」。ヤイロが、「イエスさまがいるから大丈夫だ」と言ったのではありません。崩れてしまいそうなヤイロの信仰を支えるかのように、イエスさまが、「恐れることはない。ただ信じ続けなさい」とヤイロに言われたのです。そして、イエスさまは、ペトロとヤコブとヨハネのほか、だれもついて来ることをお許しになりませんでした。イエスさまは、これから自分が行うことの、証人(証し人)として、ペトロとヤコブとヨハネの三人だけを伴われたのです(申命19:15、マルコ9:9参照)。一行が会堂長の家に着くと、人々は大声で泣きわめいて騒いでおりました。イエスさまは、家の中に入り、人々にこう言われました。「なぜ、泣き騒ぐのか。子供は死んだのではない。眠っているのだ」。人々はイエスさまをあざ笑いました。人々は子供が確かに死んだことを知っていたからです。しかし、イエスさまは、人々を外に出して、子供の両親と三人の弟子たちを連れて、子供のいる所へ入って行きました。そして、子供の手を取って、「タリタ、クム」と言われたのです。「タリタ、クム」、これはユダヤ人が日常生活で用いていたアラム語であります(新約聖書の原典はギリシア語で記されている)。福音書記者マルコは、「これは、『少女よ、わたしはあなたに言う。起きなさい』という意味である」と注釈を記しています。しかし、「わたしはあなたに言う」という言葉は、アラム語にはない、マルコが付け加えた言葉です。マルコは、「わたしはあなたに言う」という言葉を付け加えることによって、少女を起き上がらせたのは、他ならない、イエスさまであることを強調しているのです。旧約聖書の『列王記上』の第17章に、エリヤがサレプタのやもめの息子を生き返らせたことが記されています。また、『列王記下』の第4章に、エリシャがシュネムの婦人の息子を生き返らせたことが記されています。エリヤにしても、エリシャにしても、主に祈って、主に生き返らせていただいています。例えば、エリヤは、「主よ、わが神よ、この子の命を元に返してください」と祈っています(列王上17:21)。そして、主がサレプタのやもめの息子を生き返らせたのです。しかし、イエスさまは、そうではありません。イエスさまは、「娘よ、起きなさい」と直接、死んでいた娘に言われたのです。すると、少女はすぐに起き上がって歩き出したのです。このことは、イエスさまが主その方であることを示しています。主イエスの御言葉は、死者をも従わせることのできる命の言葉であるのです(ヨハネ11:43、44参照)。12歳になる少女が起き上がり、歩き出したの見て、人々は気を失って倒れるほど驚きました(聖書協会共同訳参照)。イエスさまは、このことをだれにも知らせないようにと厳しく命じられ、食べ物を少女に与えるように言われました。そのようにして、イエスさまは、ヤイロの娘を日常生活へと回復されたのです。

 今朝の御言葉、イエスの服に触れる女の話とヤイロの娘の話は密接に結びついて記されています(サンドイッチ形式)。女は12年間苦しんだ不治の病をいやしていただき、ヤイロは12歳の死んだ娘を生き返らせていただきました。イエスさまは、不治の病をいやすことのできる御方、死者を生き返らせることのできる御方であるのです。そのイエスさまの救いにあずかる鍵は、イエスさまを信じる、信仰であります。イエスさまは女の信仰を迷信的なものから人格的な信頼へと引き上げられました。また、崩れてしまいそうなヤイロの信仰を、イエスさまは支えてくださいました。そのようにして、イエスさまは、彼らを救ってくださったのです。同じことが、私たちにおいても言えます。イエスさまは、今、天の父なる神の右に座しておられます。しかし、イエスさまは、聖霊において、御自分の名によって、二人、または三人が集まる只中にいてくださるのです(マタイ18:20参照)。イエスさまは、目には見えませんが、聖霊と御言葉において、私たちと出会ってくださいます。そして、私たちの信仰を引き上げ、私たちの信仰を支えてくださるのです。そのようにして、イエスさまは、私たちを救ってくださったし、これからも救ってくださるのです。

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