エルカナとハンナ 2020年9月23日(水曜 聖書と祈りの会)
問い合わせ
エルカナとハンナ
- 日付
-
- 説教
- 村田寿和 牧師
- 聖書
サムエル記上 1章1節~8節
聖書の言葉
1:1 エフライムの山地ラマタイム・ツォフィムに一人の男がいた。名をエルカナといい、その家系をさかのぼると、エロハム、エリフ、トフ、エフライム人のツフに至る。
1:2 エルカナには二人の妻があった。一人はハンナ、もう一人はペニナで、ペニナには子供があったが、ハンナには子供がなかった。
1:3 エルカナは毎年自分の町からシロに上り、万軍の主を礼拝し、いけにえをささげていた。シロには、エリの二人の息子ホフニとピネハスがおり、祭司として主に仕えていた。
1:4 いけにえをささげる日には、エルカナは妻ペニナとその息子たち、娘たちにそれぞれの分け前を与え、
1:5 ハンナには一人分を与えた。彼はハンナを愛していたが、主はハンナの胎を閉ざしておられた。
1:6 彼女を敵と見るペニナは、主が子供をお授けにならないことでハンナを思い悩ませ、苦しめた。
1:7 毎年このようにして、ハンナが主の家に上るたびに、彼女はペニナのことで苦しんだ。今度もハンナは泣いて、何も食べようとしなかった。
1:8 夫エルカナはハンナに言った。「ハンナよ、なぜ泣くのか。なぜ食べないのか。なぜふさぎ込んでいるのか。このわたしは、あなたにとって十人の息子にもまさるではないか。」サムエル記上 1章1節~8節
メッセージ
関連する説教を探す
今朝から「聖書と祈りの会」では、『サムエル記』を読み進めていきます。
『サムエル記』は、イスラエルの12部族が一つの王国となる過程を記しています。ヘブライ語の聖書において、『サムエル記』の前に置かれている『士師記』は、その終わりをこう結んでいました。「そのころ、イスラエルには王がなく、それぞれ自分の目に正しいとすることを行っていた」。そのイスラエルに王が立てられる過程を『サムエル記』は記しています。「サムエル記」のおもな登場人物は、サムエルとサウルとダビデです。サムエルは、最後の士師であり、サウルとダビデに油を注いだ人物であります。また、サウルは、イスラエルの初代の王となった人物です。ダビデは、サウルに代わってイスラエルの王となった人物で、神さまの救いの約束は、このダビデに受け継がれていきます。ダビデの子孫から、私たちの主イエス・キリストはお生まれになるのです。ダビデがイスラエルの王となったのは、およそ紀元前1000年頃ですから、今からおよそ3000年前となります。そのようなことを踏まえて、今朝は、1節から8節より、「エルカナとハンナ」という題でお話します。
小見出しに「サムエルの誕生」とあるように、第1章は、サムエルの誕生について記しています。サムエルはどのような夫婦から生まれたのでしょうか。
エフライムの山地ラマタイム・ツォフィムに、エルカナ(「神は創造したもうた」の意)という男がいました。聖書は、4代に遡って系図を記すことにより、エルカナが由緒正しいエフライム人であることを記しています。エルカナには二人の妻がいました。一人はハンナ(「恵み」の意)で、もう一人はペニナ(「真珠」の意)です。ペニナには子供がありましたが、ハンナには子供がありませんでした。ハンナは不妊の女であったのです。
エルカナは毎年、シロに上り、万軍の主を礼拝し、いけにえをささげていました。シロには、臨在の幕屋があり、年ごとに祭りが行われていました(ヨシュア18:1、士師21:19参照)。シロには、エリ(「主は高く上げられる」の意)の息子ホフニ(「おたまじゃくし」の意)とピネハス(「黒人」の意)がおり、祭司として仕えていました。4節以下に食卓でのことが記されていますから、このいけにえは「和解の献げ物」であったようです(レビ3:1、7:11参照)。いけにえをささげた人とその家族は、いけにえの動物の肉の一部を聖所で一緒に食べることができました。いけにえをささげる日は、家族で御馳走を囲む楽しい一時であったのです。エルカナは妻ペニナとその息子たち、娘たちにそれぞれの分け前を与えました。ペニナは子だくさんであったようです。他方、ハンナには一人分を与えました。ハンナには子供がいなかったので、一人分を与えたのです。『新共同訳聖書』は「一人分を与えた」と記していますが、『聖書協会共同訳』は「二人分に匹敵するものを与えた」と記しています。また、『新改訳2017』では、「特別の受ける分を与えていた」と記しています。特別においしい部分ということでしょう。エルカナがハンナに一人分を与えたのか、それとも二人分を与えたのか、それとも特別においしそうな部分を与えたのかでは、受ける印象がだいぶ変わってきます。エルカナがハンナに、二人分を与えたり、特別においしそうな部分を与えたとすれば、ペニナが嫌みを言って、ハンナを苦しめたのも分かるような気がします。しかし、ここでは、『新共同訳聖書』の「一人分を与えた」という翻訳を取りたいと思います。シロのいけにえの食事は、ハンナにとって、自分に子供がいないことを、思い知らされる一時であったのです。ハンナのことを敵と見るペニナは、ここぞとばかりに、ハンナに嫌みを言って、苦しめたのでしょう。ハンナに子供がなかったのは、エルカナが夫婦の交わりを控えていたからではありません。エルカナはハンナを愛していました。しかし、主がハンナの胎を閉ざしておられたのです。子供は主からの授かりものですから、子供が授けられない苦しみを、ハンナは主に訴えます。そのことは、次回学ぶことになる9節以下に記されています。今朝は、ハンナを慰めるエルカナの言葉を読んで終わります。泣いて、何も食べようとしないハンナに、夫エルカナはこう言いました。「ハンナよ、なぜ泣くのか。なぜ食べないのか。なぜふさぎ込んでいるのか。このわたしは、あなたにとって十人の息子にもまさるではないか」。これは夫エルカナのハンナに対する最大の愛情表現です。「十人の息子にまさる私があなたを愛しているのだから、ふさぎ込まないで欲しい」と、エルカナは言うのです。これよりも遙かに大きな愛情表現を、私たちは、神さまからいただいています。それは、『ヨハネによる福音書』の第3章16節です。
神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。
神さまは、愛する独り子を十字架につけられるほどに、私たちを愛してくださいました。神さまは、これ以上ないほどの大きな愛で、私たちを愛してくださっているのです。