信仰に基づく忍耐 2020年9月20日(日曜 朝の礼拝)
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信仰に基づく忍耐
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- 村田寿和 牧師
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ヤコブの手紙 5章7節~12節
聖書の言葉
5:7 兄弟たち、主が来られるときまで忍耐しなさい。農夫は、秋の雨と春の雨が降るまで忍耐しながら、大地の尊い実りを待つのです。
5:8 あなたがたも忍耐しなさい。心を固く保ちなさい。主が来られる時が迫っているからです。
5:9 兄弟たち、裁きを受けないようにするためには、互いに不平を言わぬことです。裁く方が戸口に立っておられます。
5:10 兄弟たち、主の名によって語った預言者たちを、辛抱と忍耐の模範としなさい。
5:11 忍耐した人たちは幸せだと、わたしたちは思います。あなたがたは、ヨブの忍耐について聞き、主が最後にどのようにしてくださったかを知っています。主は慈しみ深く、憐れみに満ちた方だからです。
5:12 わたしの兄弟たち、何よりもまず、誓いを立ててはなりません。天や地を指して、あるいは、そのほかどんな誓い方によってであろうと。裁きを受けないようにするために、あなたがたは「然り」は「然り」とし、「否」は「否」としなさい。ヤコブの手紙 5章7節~12節
メッセージ
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前回(8月23日)、私たちは、富んでいる人たちに対する言葉から、地上に宝を蓄えるのではなく、天上に宝を蓄えるべきことを御一緒に学びました。主イエス・キリストが「小さな群れよ、恐れるな。あなたがたの父は喜んで神の国をくださる。自分の持ち物を売り払って施しなさい。擦り切れることのない財布を作り、尽きることのない富を天に積みなさい」と言われたように、神の国に生きる私たちは、貧しい人に施して、朽ちることのない宝を天に積むべきであるのです(ルカ12:33、34)。
今朝の御言葉はその続きとなります。
7節から9節までを読みます。
兄弟たち、主が来られるときまで忍耐しなさい。農夫は、秋の雨と春の雨が降るまで忍耐しながら、大地の尊い実りを待つのです。あなたがたも忍耐しなさい。心を固く保ちなさい。主が来られる時が迫っているからです。兄弟たち、裁きを受けないようにするためには、互いに不平を言わぬことです。裁く方が戸口に立っておられます。
新共同訳聖書は訳出していませんが、元の言葉を見ると、「それゆえ」(聖書協会共同訳)と訳せる接続詞が記されています。ヤコブは、刈り入れをした人々の叫びが万軍の主の耳に達したことを記した後で、「それゆえ、兄弟たち、主が来られるときまで忍耐しなさい」と記すのです。「万軍の主が、地上でぜいたくに暮らし、快楽にふける富んでいる者を裁いてくださる。それゆえ、兄弟たち、主が来られるときまで忍耐しなさい」とヤコブは記すのです。この書き方ですと、兄弟たちは、富んでいる人たちのもとで苦しい生活をしていたようです。その人たちにとっての希望は、不正を行う富んでいる者たちを裁く、主イエス・キリストが来てくださることであるのです。
ヤコブは、忍耐する人のたとえとして、農夫のことを記します。当時は、種を蒔いてから、土を耕しました。秋の雨は、種を蒔いた直後に降る雨のことです。そして、春の雨とは刈り取る直前に降る雨のことです。秋の雨と春の雨が降らないと作物は豊かに実りません。農夫は、秋の雨と春の雨が降るまで忍耐しながら、大地の尊い実りを待つのです。ここで、注意したいことは、秋の雨と春の雨を降らせてくださるのは神さまであるということです。『申命記』の第11章13節と14節にこう記されています。旧約の299ページです。
もしわたしが今日あなたたちに命じる戒めに、あなたたちがひたすら聞き従い、あなたたちの神、主を愛し、心を尽くし、魂を尽くして仕えるならば、わたしは季節季節に、あなたたちの土地に、秋の雨と春の雨を降らせる。あなたには穀物、新しいぶどう酒、オリーブ油の収穫がある。
この御言葉を背景にすると、農夫が自然現象として雨が降るのを待っていたのではないことが分かります。農夫は、主を愛し、心を尽くして、魂を尽くして仕えながら、主からの祝福である秋の雨と春の雨が降るのを待っていたのです。農夫は、主が豊かな収穫を与えてくださることを期待して、作物を育てるのです。その農夫のように、あなたがたも主が来られるときまで忍耐しなさいとヤコブは言うのです。
今朝の御言葉に戻ります。新約の426ページです。
ヤコブは、「主が来られる時が迫っている」と記します。どのくらい迫っているかと言えば、「裁く方が戸口に立っておられる」ほどであるのです。私たちは、「自分が生きている間には、イエスさまは来てくださらない」と思っているのではないでしょうか?ヤコブがこの手紙を書いてから、2000年ほどが経っています。ヤコブが、「主の来られる時が迫っている」「裁く方が戸口に立っておられる」と記してから2000年ほど経っているので、自分が生きている間には、来ないのではないかと、どこかで考えているのです。けれども、その私たちに、神さまは、『ヤコブの手紙』を通して、「主が来られる時が迫っている」「裁く方が戸口に立っておられる」と告げるのです。そのことを覚えて、私たちが目を覚まして、主に裁かれる者として歩むことを、神さまは求めておられるのです。ですから、私たちも、「主が来られる時が迫っている」という信仰をもって、心を固く保ちたいと思います。「心を固く保つ」とは「主イエス・キリストを信じる信仰に固く留まる」ということです。忍耐するとは、まさにこのことですね。また、私たちは、「裁く方が戸口に立っておられる」ことを信じて、互いに不平を言わないようにしたいと思います(壁に耳)。主は、富める者たちだけではなく、私たちをも裁かれる御方です。旧約聖書を読むと、イスラエルの民が荒れ野で不平を言って、主から裁かれたことが記されています。そのようなことがないように、私たちは、互いに不平を言わないようにしたいと思います(フィリピ2:14参照)。
10節と11節を読みます。
兄弟たち、主の名によって語った預言者たちを、辛抱と忍耐の模範としなさい。忍耐した人たちは幸せだと、わたしたちは思います。あなたがたは、ヨブの忍耐について聞き、主が最後にどのようにしてくださったかを知っています。主は慈しみ深く、憐れみに満ちた方だからです。
ヤコブは、辛抱と忍耐の模範として、主の名によって語った預言者たちをあげています。主の名によって語った預言者たち、例えば、エレミヤは苦しみを耐え忍びながら、主の御言葉を語り続けました。主の名によって語った預言者たちは、私たちにとって、辛抱と忍耐の模範であるのです。
ヤコブは、「忍耐した人たちは幸せだと、わたしたちは思います」と記します。そして、その根拠として、ヨブの忍耐について記すのです。ヨブは、サタンによって、財産と子どもたちを同じ日に失い、彼自身もひどい皮膚病にかかりました。『ヨブ記』の第1章と第2章を読むと、ヨブが被った災いの背景には、天上での神さまとサタンとのやりとりがあったことが記されています。そして、第3章以下に、ヨブの独白と三人の友人たちとの議論が記されているのです。ここで注意したいことは、ヨブは自分が受けた災いを神さまの御手から受け取っているということです。ヨブはサタンについて一切語りません。ヨブは神さまに完全に従う義人として、なぜ、自分がこのような災いに遭うのかを問い続けるのです。それこそ、信仰をもって、忍耐強く問い続けるのです。ヤコブが、「ヨブの忍耐」というとき、ヨブと三人の友人たちとの議論、それを越えた、神さまへの訴えのことを言っているのだと思います。そこで、ヨブは、神さまを冒涜しているとも思える言葉を語っています。ですから、友人たちは、ヨブをいさめるわけです。しかし、その友人たちに、神さまは、こう言われました。「わたしはお前(エリファズ)とお前の二人の友人(ビルダドとツォファル)に対して怒っている。お前たちは、わたしについてわたしの僕ヨブのように正しく語らなかった」(ヨブ42:7)。これはどういう意味でしょうか。友人たちの言葉はすべて間違いであるということでしょうか?そうではありません。彼らが語って来た言葉は、イスラエルの伝統的な知恵の言葉であり、それ自体は正しいのです。ここで神さまが問題とされているのは、語る者の態度、その心です。つまり、ヨブが主の僕として信仰を持って語ったのに対して、友人たちは神さまへの信仰を持たずに、神さまについて語ったのです。それは神さまに対して正しくない態度であるのです。ヨブは、忍耐をもって、神さまに自分の困窮を訴え、問い続けました。それは、ヨブが、「主は慈しみ深く、憐れみに満ちた方である」と信じていたからです。今朝の説教題を「信仰に基づく忍耐」と付けましたが、ヨブの忍耐を支えていたのは、「主は慈しみ深く、憐れみに満ちた方である」という信仰であったのです。そして、主は、そのような御方として、ヨブを以前にも増して祝福されたのです。主イエス・キリストを信じて、忍耐している私たちには、ヨブ以上の祝福が約束されています。主イエス・キリストと共に、新しい天と新しい地を相続し、神さまとの永遠の交わりに生きるという祝福が約束されているのです(ローマ8章、黙示21章参照)。
12節を読みます。
わたしの兄弟たち、何よりもまず、誓いを立ててはなりません。天や地を指して、あるいは、そのほかどんな誓い方によってであろうと。裁きを受けないようにするために、あなたがたは「然り」は「然り」とし、「否」は「否」としなさい。
ヤコブは、「誓いを立ててはなりません」と記します。このことは、主イエスが、山上の説教で教えられたことでありました(マタイ5:33~37参照)。「誓いを立ててはいけない」とは、「誓う必要がないほどに、真実な言葉を語りなさい」ということです。なぜ、人は、神さまの御名を持ちだして誓うのでしょうか。それは、自分が真実を言っていることを保証するためです。そしてこのことがしばしば、悪用されたわけですね。真実ではないのに、神さまの御名を口にして、真実であるかのように語るのです。それゆえ、ヤコブは、「あなたがたは誓いを立ててはならない。『然り』は『然り』とし、『否』は『否』としなさい」と記すのです。「然り」とは肯定の返事「はい」YESということです。「否」とは否定の返事「いいえ」NOということです。「はい」を「はい」とし、「いいえ」を「いいえ」とするとは、「そのときそのときに、真実で明確な言葉を語りなさい」ということです。誓う必要がないほどに、そのときそのときに真実で明確な言葉を語ることが私たちに求められているのです。それは、私たちの関係が、神さまの真実に基づいているからです。使徒パウロは、『コリントの信徒への手紙二』の第1章で、「神の約束は、ことごとくイエス・キリストにおいて然りとなった」と記しています。主にある兄弟姉妹である私たちの関係は、イエス・キリストにおいて実現した神の真実のうえに成り立っているのです。ですから、私たちは、真実で明確な言葉を語るべきであるのです。
ヤコブは、「然り」は「然り」とし、「否」は「否」とする理由を、「裁きを受けないようにするため」と記します。私たちが、「然り」を「否」とし、「否」を「然り」とするならば、私たちは、神さまからの裁きを受けることになるのです。このことは、十戒の第九戒で言われていることでもあります。「あなたは隣人に関して偽証してはならない」(出エジプト20:16)。私たちは、裁きを受けることがないためにも、真実で明確な言葉を語る者でありたいと願います。