主の憐れみを告げ知らせよ 2020年9月13日(日曜 朝の礼拝)
問い合わせ
主の憐れみを告げ知らせよ
- 日付
-
- 説教
- 村田寿和 牧師
- 聖書
マルコによる福音書 5章1節~20節
聖書の言葉
5:1 一行は、湖の向こう岸にあるゲラサ人の地方に着いた。
5:2 イエスが舟から上がられるとすぐに、汚れた霊に取りつかれた人が墓場からやって来た。
5:3 この人は墓場を住まいとしており、もはやだれも、鎖を用いてさえつなぎとめておくことはできなかった。
5:4 これまでにも度々足枷や鎖で縛られたが、鎖は引きちぎり足枷は砕いてしまい、だれも彼を縛っておくことはできなかったのである。
5:5 彼は昼も夜も墓場や山で叫んだり、石で自分を打ちたたいたりしていた。
5:6 イエスを遠くから見ると、走り寄ってひれ伏し、
5:7 大声で叫んだ。「いと高き神の子イエス、かまわないでくれ。後生だから、苦しめないでほしい。」
5:8 イエスが、「汚れた霊、この人から出て行け」と言われたからである。
5:9 そこで、イエスが、「名は何というのか」とお尋ねになると、「名はレギオン。大勢だから」と言った。
5:10 そして、自分たちをこの地方から追い出さないようにと、イエスにしきりに願った。
5:11 ところで、その辺りの山で豚の大群がえさをあさっていた。
5:12 汚れた霊どもはイエスに、「豚の中に送り込み、乗り移らせてくれ」と願った。
5:13 イエスがお許しになったので、汚れた霊どもは出て、豚の中に入った。すると、二千匹ほどの豚の群れが崖を下って湖になだれ込み、湖の中で次々とおぼれ死んだ。
5:14 豚飼いたちは逃げ出し、町や村にこのことを知らせた。人々は何が起こったのかと見に来た。
5:15 彼らはイエスのところに来ると、レギオンに取りつかれていた人が服を着、正気になって座っているのを見て、恐ろしくなった。
5:16 成り行きを見ていた人たちは、悪霊に取りつかれた人の身に起こったことと豚のことを人々に語った。
5:17 そこで、人々はイエスにその地方から出て行ってもらいたいと言いだした。
5:18 イエスが舟に乗られると、悪霊に取りつかれていた人が、一緒に行きたいと願った。
5:19 イエスはそれを許さないで、こう言われた。「自分の家に帰りなさい。そして身内の人に、主があなたを憐れみ、あなたにしてくださったことをことごとく知らせなさい。」
5:20 その人は立ち去り、イエスが自分にしてくださったことをことごとくデカポリス地方に言い広め始めた。人々は皆驚いた。マルコによる福音書 5章1節~20節
メッセージ
関連する説教を探す
前回(先週)、私たちは、イエスさまが風を叱り、湖に「黙れ。静まれ」と言われたこと。すると風はやみ、すっかり凪になったことを学びました。イエスさまは、風や湖さえも従わせることのできる神の御子であるのです。
今朝の御言葉はその続きとなります。
イエスさまと弟子たちは、ガリラヤ湖の向こう岸にあるゲラサ人の地方に着きました。場所を確認したいと思います。聖書地図の「6 新約時代のパレスチナ」を御覧ください。デカポリス地方に、ゲラサという町があります。「デカポリス」とは、ギリシャ語で十の町という意味で、ゲラサはその一つであるのです。ゲラサは、ガリラヤ湖から離れていますが、要するに、イエスさまが着いた土地は、ユダヤ人ではない異邦人が住む土地であったということです。
今朝の御言葉に戻ります。新約の69ページです。
イエスさまが舟から上がられると、すぐに、汚れた霊に取りつかれた人が墓場からやって来ました。この人は墓場を住まいとしていました。当時のお墓は斜面に穴を掘った、洞窟のようなお墓でした。そのお墓を、汚れた霊に取りつかれた人は住まいとしていたのです。お墓は、死者の領域と考えられていました。この人は、生きている者たちの間に、居場所を持たない人であったのです。人間社会の中に居場所がなかったのです。また、この人は、人々から鎖でつながれ、足枷をはめられました。人々は、この人を恐れて、自分たちに害を及ぼさないように、隔離しようとしたのです。けれども、この人は、鎖を引きちぎり、足枷を砕いて、誰も彼を縛っておくことはできなかったのです。人々はこの人を、自分たちの管理下に置くことはできなかったのです。この人は、昼も夜も墓場や山で叫んだり、石で自分を打ち叩いたりしていました。この人は、苦しんで、言葉にならない叫びを上げ、自傷行為に及んでいました。このような記述を読むときに、この人は大変気の毒に思えてきます。この人は、汚れた霊(悪霊)に取りつかれなければ、身内の人たちと一緒に家に住み、鎖でつながれたり、足枷をはめられることもありませんでした。また、昼も夜も叫び声を上げたり、自分の体を傷つけることもなかったはずです。しかし、現実は、彼は汚れた霊に取りつかれていたのです。
汚れた霊に取りつかれた人は、イエスさまを遠くから見ると、走り寄ってひれ伏し、大声で叫びました。「いと高き神の子イエス、かまわないでくれ。後生だから、苦しめないでほしい」。ここでは、発言しているのは、汚れた霊です。この人は汚れた霊の支配下にあるのです。この人は自分を見失っている状態にあるのです。汚れた霊は、イエスさまの正体をずばり言い当てます。これは信仰の告白ではなく、イエスさまに対抗するための言葉です。「名前を知ることによって、相手を支配できる」という考え方に基づいて、汚れた霊は、「いと高き神の子イエス」と言ったのです。「かまわないでくれ」と訳されている言葉は、「あなたとわたしとの間に何の関係がありますか」とも訳すことができます。そのとおり、神の子イエスさまと汚れた霊との間には、何の関係もない、何の共有するものはありません。また、「後生だから」と訳されている言葉は、「神によってお願いします」とも訳すことができます。汚れた霊は、神の名を持ちだして、苦しめないでほしいと願うのです。このように、汚れた霊が言ったのは、イエスさまが「汚れた霊、この人から出て行け」と言われたからでした。イエスさまの関心は、汚れた霊にあるのではなく、汚れた霊に取りつかれている「人」にあるのです。
イエスさまが、「名を何というのか」とお尋ねになると、「名はレギオン。大勢だから」と言いました。「レギオン」とは、ローマの軍隊の一軍団の名前です。5000人ほどからなるローマの一軍団をレギオンと呼んだのです。この人には、レギオンという名のたくさんの汚れた霊が取りついていたのです。汚れた霊は、自分たちをこの地方から追い出さないようにと、しきりに願いました。「この地方」とは、ゲラサ人の地方であり、異邦人が住む土地のことです。異邦人とは、まことの神さまを知らない、偽りの神々を拝む人たちです。そのような異邦人が住む土地は、汚れた霊にとって、居心地がよかったのでしょう。それにしても、この地方から追い出された汚れた霊は、どこに行くことになるのでしょうか。『ルカによる福音書』の並行箇所を読むと、「悪霊どもは、底なしの淵へ行けという命令を自分たちに出さないようにと、イエスに願った」とあります(ルカ8:31)。汚れた霊が恐れたのは、異邦人の地方から追い出されて、底なしの淵へ行くことであったのです。
ところで、その辺りの山で豚の大群がえさをあさっていました。ここにも、この地方が異邦人の土地であるしるしを見ることができます。と言いますのも、ユダヤ人にとって、豚は汚れた動物であったからです(レビ11:7参照)。汚れた霊は、その汚れた動物である豚の大群に目を付けます。そして、イエスさまに、「豚の中に送り込み、乗り移らせてくれ」と願ったのです。イエスさまは、そのことをお許しになりました。それで汚れた霊どもは人から出て行き、豚の中に入ったのです。すると、二千匹ほどの豚の群れが崖を下って湖になだれ込み、湖の中で次々とおぼれ死んだのです。「湖」は「海」とも訳されます。聖書において、海とは死と陰府に通じる領域です。汚れた霊に取りつかれた豚たちが、海の中になだれ込み、おぼれ死んだこと、このことは、汚れた霊が、底なしの淵へ行ったことを示しているのです。汚れた霊どもは、豚に取りついて、この地方に居続けようとしました。けれども、汚れた霊どもが、豚に入ると、豚は、底なしの淵を目がけて突進したのです。これは、どういうことなのでしょうか。私の考えた結論を申しますと、「汚れた霊の破滅を求める力によるものだ」と思います。汚れた霊は、悪霊のことであり、悪魔の手下であります。その悪魔について、イエスさまは、『ヨハネによる福音書』の第8章で、こう言われました。「あなたがたは、悪魔である父から出た者であって、その父の欲望を満たしたいと思っている。悪魔は最初から人殺しであって、真理をよりどころとしていない。彼の内には真理がないからだ。悪魔が偽りを言うときは、その本性から言っている。自分が偽り者であり、その父だからである」(ヨハネ8:44、45)。悪魔は最初から人殺しである。悪魔は、人の命を奪い、破滅させる者であるのです。その悪魔の霊、悪霊が豚の中に入ったとき、豚は悪魔に完全に支配されて、破滅の道を突き進んだのです。そのようにして、悪魔は自分で自分を、底なしの淵へ落としたのです。
二千匹ほどの豚の群れが崖を下って湖になだれ込んだ。このことは、ひとりの人に、二千ほどの汚れた霊が取りついていたことを教えています。しかし、彼は崖から海の中に飛び込むというようなことはしませんでした。彼は生きていることに苦しみ、泣き叫び、自分の体を傷つけましたけれども、死ぬことはありませんでした。それは、この人に、「生きたい」という強い意志があったからです。汚れた霊は、そのことにまで考えが及ばなかったのです。ですから、豚に乗り移っても、生きていられると考えたのです。しかし、この人と違って、豚には「生きたい」という強い意志はありませんでした。ですから、豚は、汚れた霊に取りつかれた瞬間に、滅びの道をひた走ったのです。このように見てきますと、汚れた霊に取りつかれていた人は、完全に自分を失ってはいなかったことが分かります。イエスさまを、「いと高き神の子」と認識したのは、悪霊によるものでしょう。しかし、そのイエスさまを、わざわざ出迎えに行ったのは、この人の「生きたい」という強い意志によるものであったのです。汚れた霊に取りつかれた人が、苦しみながらも、死を選ぶことはなかったこと。また、イエスさまを遠くから見ると、走り寄ってひれ伏したこと。私たちは、ここに、この人の「生きたい」という強い意志を見ることができます。汚れた霊に取りつかれた人がイエスさまの御前にひれ伏したことは、汚れた霊にとっては、敗北の姿でありますが、この人にとっては、礼拝の姿であったのです。
豚飼いたちは逃げ出し、町や村にこのことを知らせました。人々は、イエスさまのところに来ると、レギオンに取りつかれていた人が服を着て、正気になって座っているのを見ました。レギオンに取りつかれていた人は裸であったのでしょう。その人が服を着て、静かにイエスさまのもとに座っていたのです。この光景を見て、人々は恐ろしくなりました。そして、成り行きを見ていた人から話を聞いて、人々は、イエスさまにその地方から出て行ってもらいたいと言い出したのです。町や村の人々は、汚れた霊に取りつかれた人によって、苦しめられていたはずです。そうであれば、その人が服を着て、正気になったことを喜んでもよかったはずです。しかし、人々は恐れを抱いて、イエスさまに、この地方から出て行ってほしいと言ったのです。そのことは、この人々も、悪霊の支配下に置かれていることを示しています。レギオンに取りつかれていた人だけではなくて、まことの神さまを知らない人々全体が、悪霊の支配下にあるのです。天地万物を造られた神さま、イエス・キリストの父なる神さまを信じない人は、今なお、悪霊の支配下にあるのです(エフェソ2:1~3参照)。しかし、ここに、悪霊の支配から解放された人がいます。彼は、イエスさまと「一緒に行きたい」と願いました。しかし、イエスさまは、それをお許しにならないで、こう言われます。「自分の家に帰りなさい。そして身内の人に、主があなたを憐れみ、あなたにしてくださったことをことごとく知らせなさい」。ユダヤ人の地において、イエスさまは、「だれにも何も話さないように」と命じられました(1:44参照)。しかし、異邦人の地において、イエスさまは、「主があなたを憐れみ、あなたにしてくださったことをことごとく知らせなさい」と言われるのです。ここでの自分の家とは、墓場のことではありません。汚れた霊に取りつかれる前に、家族と一緒に住んでいた家です。その家に帰って、身内の人に、神さまがしてくださったことを伝えなさいとイエスさまは言われるのです。身内の人たちは、どれほど喜んだことでしょうか。服を着て、正気になって帰って来た息子を、兄弟を、どれほど喜んだことでしょうか。その身内の人たちに、彼は、自分が体験した主の憐れみを語るのです。彼は、イエスさまが自分にしてくださったことをことごとく、異邦人の土地であるデカポリス地方で宣べ伝えたのです。
今朝の御言葉は、イエスさまが、異邦人である男を汚れた霊の支配から解放されたお話であります。そのことは、イエスさまが、異邦人である男をも憐れまれる主であることを示しています。主イエス・キリストの憐れみは、民族を越えて、すべての人に注がれている。そのことを、この男は、自らの体験を語ることによって、告げ知らせたのです。私たちの周りにいる、まことの神さまを信じていない人々も、悪霊の支配の下にあります。しかし、その人々にも、主の憐れみは注がれているのです。そのことを、私たちは、自分のことを語ることによって、告げ知らせることができます。私たちもかつては、悪霊の支配の下にあった。しかし、その私たちを、主イエスは憐れんで、悪霊の支配から解放してくださったのです。そして、聖霊を与えてくださり、「イエスは主である」と告白する者としてくださったのです。そのようにして、神の命と恵みの支配に生きる者としてくださったのです。ですから、今朝の御言葉は、私たちに語られている御言葉でもあります。「自分の家に帰りなさい。そして身内の人に、主があなたを憐れみ、あなたにしてくださったことをことごとく知らせなさい」。そのように、主イエス・キリストは、私たちにも命じられるのです。