富んでいる人たちの悲惨 2020年8月23日(日曜 朝の礼拝)
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富んでいる人たちの悲惨
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- 村田寿和 牧師
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ヤコブの手紙 5章1節~6節
聖書の言葉
5:1 富んでいる人たち、よく聞きなさい。自分にふりかかってくる不幸を思って、泣きわめきなさい。
5:2 あなたがたの富は朽ち果て、衣服には虫が付き、
5:3 金銀もさびてしまいます。このさびこそが、あなたがたの罪の証拠となり、あなたがたの肉を火のように食い尽くすでしょう。あなたがたは、この終わりの時のために宝を蓄えたのでした。
5:4 御覧なさい。畑を刈り入れた労働者にあなたがたが支払わなかった賃金が、叫び声をあげています。刈り入れをした人々の叫びは、万軍の主の耳に達しました。
5:5 あなたがたは、地上でぜいたくに暮らして、快楽にふけり、屠られる日に備え、自分の心を太らせ、
5:6 正しい人を罪に定めて、殺した。その人は、あなたがたに抵抗していません。ヤコブの手紙 5章1節~6節
メッセージ
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前回(7月19日)は、「今日か明日、これこれの町へ行って一年間滞在し、商売をして金もうけをしよう」という人たちに対する警告の言葉を学びました。神さまのことを忘れて、計画を立て、そのとおりになると考えているところに、彼らの驕り高ぶりがあります。私たち人間は、自分の命がどうなるか、明日のことも分からない者として、一日一日を神さまの御手から受け取り、主の御心を行うべきであるのです。
今朝の御言葉はその続きであります。
1節から3節までを読みます。
富んでいる人たち、よく聞きなさい。自分にふりかかってくる不幸を思って、泣きわめきなさい。あなたがたの富は朽ち果て、衣服には虫が付き、金銀もさびてしまいます。このさびこそが、あなたがたの罪の証拠となり、あなたがたの肉を火のように食い尽くすでしょう。あなたがたは、この終わりの時のために宝を蓄えたのでした。
ヤコブは、「富んでいる人たち、よく聞きなさい」と呼びかけています。この「富んでいる人たち」は、キリスト者で富んでいる人たちなのか、それとも、キリスト者ではない富んでいる人たちなのかという議論があります。私の結論を申しますと、キリスト者とキリスト者ではない者を含む、富んでいる人たちに、ヤコブは呼びかけていると思います(1:10参照)。ヤコブは、キリスト者か、未信者か、ということを問わずに、「富んでいる人たち」に呼びかけているのです。ヤコブは、「富んでいる人たち、よく聞きなさい。自分にふりかかってくる不幸を思って、泣きわめきなさい」と記します。このヤコブの言葉は、主イエスの平地の説教を思い起こさせます。『ルカによる福音書』の第6章20節から26節までを読みます。新約の113ページです。
さて、イエスは目を上げ弟子たちを見て言われた。「貧しい人々は、幸いである、神の国はあなたがたのものである。今飢えている人々は、幸いである、あなたがたは満たされる。今泣いている人々は、幸いである、あなたがたは笑うようになる。人々に憎まれるとき、また、人の子のために追い出され、ののしられ、汚名を着せられるとき、あなたがたは幸いである。その日には、喜び踊りなさい。天には大きな報いがある。この人々の先祖も、預言者たちに同じことをしたのである。しかし、富んでいるあなたがたは、不幸である、あなたがたはもう慰めを受けている。今満腹している人々、あなたがたは、不幸である、あなたがたは飢えるようになる。今笑っている人々は、不幸である、あなたがたは悲しみ泣くようになる。すべての人にほめられるとき、あなたがたは不幸である。この人々の先祖も、偽預言者たちに同じことをしたのである。」
ここで、イエスさまは、「貧しい人々の幸い」と「富んでいる人々の不幸」について語っておられます。イエスさまは、弟子たちを見て、「貧しい人々の幸い」と「富んでいる人々の不幸」について教えられたのです。そのことは、弟子たちの中に、貧しい人々と富んでいる人々がいたということです。イエスさまが、「貧しい人々は幸いである」と言われる「貧しい人々」とは、経済的に貧しいだけではなくて、貧しさのゆえに神さまに依り頼む者たちのことです。イエスさまは、貧しさのゆえに神さまに依り頼む者たちに、「幸いである」と言われます。なぜなら、神の国は貧しい人々のものであるからです。
また、イエスさまが、「富んでいるあなたがたは、不幸である」と言われる「富んでいる人々」とは、経済的に豊かであるだけではなく、神さまではなく、富に依り頼む者たちのことです。イエスさまは、富に依り頼む者たちに、「不幸である」と言われます。なぜなら、富んでいる人々は、この世で慰めを受けているので、天で慰めを受けることができないからです。
イエスさまが、「貧しい人々は幸いである」「富んでいる人々は不幸である」と言われるとき、それは神さまの視点から、永遠の視点から言われています。この地上の生涯だけを考えるならば、「貧しい人々は不幸である、富んでいる人々は幸いである」と言えます。けれども、「この地上の生涯が、死んだ後の永遠を決める」という真理に立つならば、「貧しい人々は幸いであり、富んでいる人々は不幸である」と言えるのです。そのことを、イエスさまは、「金持ちとラザロのたとえ話」で、教えておられます。『ルカによる福音書』の第16章19節から26節までを読みます。新約の141ページです。
ある金持ちがいた。いつも紫の衣や柔らかい麻布を着て、毎日ぜいたくに遊び暮らしていた。この金持ちの門前に、ラザロというできものだらけの貧しい人が横たわり、その食卓から落ちる物で腹を満たしたいものだと思っていた。犬もやって来ては、そのできものをなめた。やがて、この貧しい人は死んで、天使たちによって宴席にいるアブラハムのすぐそばに連れて行かれた。金持ちも死んで葬られた。そして金持ちは陰府でさいなまれながら目を上げると、宴席でアブラハムとそのすぐそばにいるラザロとが、はるかかなたに見えた。そこで、大声で言った。「父アブラハムよ、わたしを憐れんでください。ラザロをよこして、指先を水に浸し、わたしの舌を冷やさせてください。わたしはこの炎の中でもだえ苦しんでいます。」しかし、アブラハムは言った。「子よ、思い出してみるがよい。お前は生きている間に良いものをもらっていたが、ラザロは反対に悪いものをもらっていた。今は、ここで彼は慰められ、お前はもだえ苦しむのだ。そればかりか、わたしたちとお前たちの間には大きな淵があって、ここからお前たちの方へ渡ろうとしてもできないし、そこからわたしたちの方に越えて来ることもできない。」
イエスさまは、このたとえ話を、御自分をあざ笑った、金に執着するファリサイ派の人々に対してお語りになりました。ファリサイ派の人々は、富は神さまからの祝福であり、金持ちこそ神の国に入ることができると考えていたのです。そのような者たちに、イエスさまは、金持ちは陰府でもだえ苦しみ、貧しい人ラザロは、神の国の宴席で慰められるというお話をされたのです。死後の世界においては、このような逆転があるわけです。そのことを、私たちは忘れてはならないのです。
それでは、富は悪い者なのでしょうか。富が神さまに代わる偶像になりやすいことは事実であります。ですから、イエスさまは、「あなたがたは、神と富とに仕えることはできない」と言われたわけです(ルカ16:13)。また、富が人間を神の国から遠ざけてしまうことも事実であります。ですから、イエスさまは、「財産のある者が神の国に入るのは、なんと難しいことか」と言われたわけです(ルカ18:24)。では、イエスさまは、富について、積極的に教えられなかったのでしょうか。『マタイによる福音書』の第6章19節から21節を読みます。新約の10ページです。
あなたがたは地上に富を積んではならない。そこでは、虫が食ったり、さび付いたりするし、また、盗人が忍び込んで盗み出したりする。富は天に積みなさい。そこでは、虫が食うことも、さび付くこともなく、また、盗人が忍び込むことも盗み出すこともない。あなたの富のあるところに、あなたの心もあるのだ。
ここで、イエスさまは、弟子たちに、「地上に富を積むのではなく、富は天に積みなさい」と命じておられます。「富を天に積む」とは、どのようなことでしょうか。私たちは、どのようにして、天に富を積むことができるのでしょうか。その答えが、『ルカによる福音書』の並行箇所に記されています。『ルカによる福音書』の第12章32節から34節までを読みます。新約の132ページです。
小さな群れよ、恐れるな。あなたがたの父は喜んで神の国をくださる。自分の持ち物を売り払って施しなさい。擦り切れることのない財布を作り、尽きることのない富を天に積みなさい。そこは、盗人も近寄らず、虫も食い荒らさない。あなたがたの富のあるところに、あなたがたの心もあるのだ。
天に富を積むこと、それは、貧しい人たちに施しをすることであるのです。そのようにして、私たちは、天に心を向けて生きることが求められているのです。『ルカによる福音書』の第16章に記されている「不正な管理人のたとえ」で言えば、この世の富を用いて、永遠の住まいに迎え入れてくれる友だちを作るべきであるのです。
今朝の御言葉に戻ります。新約の426ページです。
イエスさまの富についての教えを背景にして、ヤコブの言葉を読むとき、その意味するところがよく分かると思います。イエスさまは、地上に富を積むのではなく、貧しい人に施すことによって、天に富を積みなさいと命じられました。しかし、富んでいる人たちは、自分のためだけに富を蓄え、無駄にしてしまっていたのです。聖書は、すべてのものは神さまのものであり、私たちが所有しているものは、神さまから管理を委ねられたものにすぎないと教えています。ですから、私たちは、神さまから管理を委ねられているものをどう用いたかが、終わりの日に問われるのです。富んでいる人たちは、神さまから多くの財産の管理を委ねられた者として、その財産をどのように用いたかが問われます。彼らは財産を施して、貧しい人の命を救うこともできたはずです。しかし、実際、彼らは財産を自分のために蓄え、無駄にしてしまったのです。そして、その無駄になってしまった財産が、富んでいる人たちの罪の証拠となり、彼らに神さまの厳しい裁きをもたらすのです。そのような自分にふりかかえってくる悲惨を思って、なきわめきなさいと、ヤコブは記すのです。
4節から6節までを読みます。
御覧なさい。畑を刈り入れた労働者にあなたがたが支払わなかった賃金が、叫び声をあげています。刈り入れをした人々の叫びは、万軍の主の耳に達しました。あなたがたは、地上でぜいたくに暮らして、快楽にふけり、屠られる日に備え、自分の心を太らせ、正しい人を罪に定めて、殺した。その人は、あなたがたに抵抗していません。
富んでいる人たちは、終わりの時に生きているにもかかわらず、この地上に宝を蓄えました。しかも、彼らは、畑を刈り入れた労働者に支払わなかった賃金によって、宝を蓄えたのです。このことは、律法で禁じられていたことでありました。『申命記』の第24章14節と15節にこう記されています。「同胞であれ、あなたの国であなたの町に寄留している者であれ、貧しく乏しい雇い人を搾取してはならない。賃金はその日のうちに、日没前に支払わねばならない。彼は貧しく、その賃金を当てにしているからである。彼があなたを主に訴えて、罪を負うことがないようにしなさい」。このような掟によって、神さまは、貧しい人たちを保護されるのです。けれども、富んでいる人たちは、畑を刈り入れた労働者たちの賃金を支払わなかったのです。賃金を支払うどころか、この世の権力を用いて、正しい人たちを罪に定めて殺してしまったのです。しかし、刈り入れをした人々の叫びは、万軍の主の耳に達しております。「万軍の主」は、「貧しく乏しい雇い人を搾取してはならない」と命じられた御方として、富んでいる人たちを裁かれるのです。家畜を飼う人が、家畜にえさを与えて太らせてから、屠るように、富んでいる人たちは、屠られる日(裁きの日)に備えて、自分の心を太らせていると、ヤコブは言うのです。
今朝の御言葉は、日本に住んでいる私たちにとって、聞き過ごすことができない御言葉であると思います。世界の人々の中では、日本に住む私たちは「富んでいる人たち」であるからです。国際連合及び各国統計作成部局が作成した2018年度のGDP(国内総生産)ランキングでは、日本は、アメリカ、中国に続く、第三位です。私たちは、グローバリズムな世界において、構造的暴力と無関係に生きることはできません。私たちの豊かな生活は、第三世界に対する搾取と無関係ではないということです。そのような者たちとして、私たちは、今朝の御言葉を聞きたいと思います。何の抵抗もできずに、命を奪われてしまう人たちがいる世界に生きている富んでいる者たちとして、私たちは今朝の御言葉を聞きたいと思います。