ともし火を燭台にかかげよ 2020年8月09日(日曜 朝の礼拝)
問い合わせ
ともし火を燭台にかかげよ
- 日付
-
- 説教
- 村田寿和 牧師
- 聖書
マルコによる福音書 4章21節~25節
聖書の言葉
4:21 また、イエスは言われた。「ともし火を持って来るのは、升の下や寝台の下に置くためだろうか。燭台の上に置くためではないか。
4:22 隠れているもので、あらわにならないものはなく、秘められたもので、公にならないものはない。
4:23 聞く耳のある者は聞きなさい。」
4:24 また、彼らに言われた。「何を聞いているかに注意しなさい。あなたがたは自分の量る秤で量り与えられ、更にたくさん与えられる。
4:25 持っている人は更に与えられ、持っていない人は持っているものまでも取り上げられる。」マルコによる福音書 4章21節~25節
メッセージ
関連する説教を探す
前回(先週)、私たちは、「種を蒔く人のたとえ」を御一緒に学びました。イエスさまは、「種を蒔く人のたとえ」によって、私たちがどのような心で御言葉を聞くべきかを教えてくださいました。私たちは、礼拝ごとに、イエスさまの御言葉を聞いています。イエスさまから御言葉の種を、蒔かれているのです。良い土地に蒔かれた種は、豊かな実を結びます。それと同じように、私たちが神の言葉を聞いて受け入れるならば、私たちは神の国の祝福に豊かにあずかることができるのです。
今朝の御言葉はその続きであります。
21節から23節までを読みます。
また、イエスは言われた。「ともし火を持って来るのは、升の下や寝台の下に置くためだろうか。燭台の上に置くためではないか。隠れているもので、あらわにならないものはなく、秘められたもので、公にならないものはない。聞く耳のある者は聞きなさい。」
第4章2節に、「イエスはたとえでいろいろと教えられ」とあるように、今朝の御言葉もイエスさまのたとえであります。聖書において「たとえ」(ギリシャ語ではパラボレー、ヘブライ語ではマーシャール)は、格言やことわざや謎などを含む広い意味をもっています。イエスさまは、「ともし火」について語っておられますが、これがたとえ、謎であることは、最後の言葉、「聞く耳のある者は聞きなさい」によって示されています。なぞなぞで言えば、「これ何だ」という言葉が、「聞く耳のある者は聞きなさい」という言葉であるのです。「ともし火」とは、器の中に油を入れて、亜麻糸で作った灯心を浸したランプのことです。お茶を入れる急須のような形を思い浮かべていただければと思います。イエスさまは、「ともし火を持って来るのは、升の下や寝台の下に置くためだろうか。燭台の上に置くためではないか」と言われました。「升の下に置く」とは、「火を消す」ということです。当時は、ともし火を消すのに、ますをかぶせたのです。21節には二つの疑問文がありますが、元の言葉を見ると、最初の疑問文は否定の答えを期待する疑問文で記されています。他方、次の疑問文は肯定の答えを期待する疑問文で記されています。イエスさまは、「ともし火を持って来るのは、升の下や寝台の下に置くためではない。燭台(ランプスタンド)の上に置くためである」と言われたのです。誰もが知っている、当たり前のことを言われたわけです。では、この「ともし火」とは、何を意味しているのでしょうか。続く22節に、「隠れているもので、あらわにならないものはなく、秘められたもので、公にならないものはない」とあります。ですから、「ともし火」は「隠れているもの」であり、「秘められたもの」であるようです。そうしますと、「ともし火」は「神の国の秘密」のことではないかと察しがつきます。イエスさまは、第4章11節で、弟子たちにこう言われていました。「あなたがたには神の国の秘密が打ち明けられているが、外の人々には、すべてがたとえで示される」。神の国の秘密は、たとえ(なぞ)という仕方で、今は隠されています。しかし、それを隠したままにしておいてはならない。然るべきときに、神の国の秘密はあらわにされ、公に宣べ伝えられなければならない、こうイエスさまは言われるのです。「ともし火」とは、「神の国の秘密」である。これが第一の解釈です。では、「ともし火のたとえ」で教えられている「神の国の秘密」とは何でしょうか。前回学んだ「種を蒔く人のたとえ」で教えられた「神の国の秘密」は、「イエス・キリストの御言葉を聞いて受け入れることによって、神の国の祝福にあずかることができる」というものでした。では、「ともし火のたとえ」が教えている「神の国の秘密」は何でしょうか。それは、「イエス・キリストにおいて神の国は到来した」ということです。新共同訳聖書は、「ともし火を持って来るのは」と翻訳していますが、元の言葉では、「ともし火が来るのは」と記されています。ともし火に足があって、自分で歩いて来たかのように記されているのです。そうしますと、この「ともし火」はイエスさまのことではないかと思われるわけです。『ヨハネによる福音書』の第8章12節で、イエスさまは、「わたしは世の光である」と言われました。ですから、「ともし火が来るのは」と聞けば、「ともし火」は世の光として来られたイエスさまであると考えるわけです。ともし火は、神の国の秘密を意味し、さらには、イエスさまを意味する。このように考えるとき、このともし火が、「イエスさまにおいて到来した神の国」を意味していると言えるのです。『マルコによる福音書』の第1章9節から11節に、天が裂けて、霊が鳩のように、イエスさまに降ったこと。「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」という声が天から聞こえたことが記されていました。このことは、イエスさまだけが知っておられる、まさに隠されたことです。その隠されたことを、イエスさまはあらわにされていきます。イエスさまは、ガリラヤへ行き、神の福音を宣べ伝えて、「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」と言われたのです。そして、神の国が来ていることのしるしとして、イエスさまは、病を癒し、悪霊を追い出されたのです。しかし、そのようなイエスさまの活動を、升の下や寝台の下に置くような振る舞いと見る人々もいました。その代表者たちが、イエスさまを信じていなかった弟たちです。『ヨハネによる福音書』の第7章1節から8節までをお読みします。新約の177ページです。
その後、イエスはガリラヤを巡っておられた。ユダヤ人が殺そうとねらっていたので、ユダヤを巡ろうとは思われなかった。ときに、ユダヤ人の仮庵祭が近づいていた。イエスの兄弟たちが言った。「ここを去ってユダヤに行き、あなたのしている業を弟子たちに見せてやりなさい。公に知られようとしながら、ひそかに行動するような人はいない。こういうことをしているからには、自分を世にはっきり示しなさい。」兄弟たちも、イエスを信じていなかったのである。そこで、イエスは言われた。「わたしの時はまだ来ていない。しかし、あなたがたの時はいつも備えられている。世はあなたがたを憎むことができないが、わたしを憎んでいる。わたしが、世の行っている業は悪いと証ししているからだ。あなたがたは祭りに上って行くがよい。わたしはこの祭りには上って行かない。まだ、わたしの時が来ていないからである。」
ここで、弟たちは、イエスさまに、「ユダヤに行って、仮庵の祭りに来ている沢山の人々の前で、力ある業を行って、自分を公に示しなさい」と助言しています。周辺の地であるガリラヤで活動することは、ひそかに行動するようなことであり、公に知られようとする人にはふさわしくないと言うのです。今朝の「ともし火のたとえ」で言えば、ガリラヤで活動することは、ともし火を升の下や寝台の下に置くような行為であるのです。しかし、このともし火は、誰かに持って来られたのではなく、自分の意志で来たともし火であります。自分を公にするときは、人に言われたからではなく、自分で決めてするのです。イエスさまは、「わたしはこの祭りには上っていかない」と言われました。しかし、弟たちが祭りに上っていくと、イエスさまは人目を避けて、隠れるようにユダヤに上って行ったのです。このことは、イエスさまがユダヤに上ったのが、弟たちから言われたからではなく、御自分の自由な意志によることを示しています。イエスさまが御自分を公に示されるとき、それは、神の定められた時でもあります。イエスさまは、「わたしの時はまだ来ていない」と言われます(6、7節)「わたしの時」とは、「イエスさまが十字架に上げられるとき」のことです。イエスさまが十字架にあげられるときこそ、イエスさまが何者であるのかが公に示されるのです。
今朝の御言葉に戻ります。新約の68ページです。
イエスさまは、「ともし火が来たのは、升の下や寝台の下に置くためではなく、燭台の上に置くためである」と言われました。燭台のうえに置かれて、部屋全体を照らすために、ともし火は来たのです。では、ともし火が置かれる燭台とは何でしょうか。それは、過越の祭りの時に、エルサレムの郊外に立てられた、十字架であります。十字架においてこそ、イエスさまが何者であるかがあらわに、公に示されるのです。十字架につけられたイエスさまの罪状書きには、「ユダヤ人の王」と書いてありました。『ヨハネによる福音書』では、「ナザレのイエス、ユダヤ人の王」と、ヘブライ語、ラテン語、ギリシャ語で書かれていたと記されています。十字架においてこそ、イエスさまはユダヤ人の王であることが、あらわに、公に示されるのです。イエスさまは、十字架につけられることによって、御自分を燭台の上に置かれた。そのようにして、御自分が何者であるのかを示されたのです。すなわち、御自分が神さまから聖霊を注がれた王(メシア)であり、御自分においてこそ、神の王国は到来したことを示されたのです。そのことを、神さまは、イエスさまを死から三日目に復活させることによって、確証されました。イエスさまが復活され、弟子たちに現れてくださったからこそ、イエスさまが確かに「ユダヤ人の王」であると言えるのです。そのように考えますと、「隠れているもの」「秘められたもの」が、十字架につけられたイエスさまに留まることなく、十字架の死から復活されたイエスさまであることが分かります。復活されたイエスさまは、弟子たちだけに御自分を現してくださいました。復活されたイエスさまは、御自分を信じない者たち、ポンテオ・ピラトや最高法院の議員たちの前には現れませんでした。ですから、イエス・キリストの復活は、いわば隠されているもの、秘められたものであるのです。イエスさまが「ユダヤ人の王」であることは、十字架という燭台の上で公になったのですが、そのことを保証する復活の出来事は弟子たちだけに示された秘められた出来事であるのです。そして、その秘められた出来事を、イエスさまは、弟子である私たちを通して、あらわにし、公にしようとしておられるのです。教会の屋根には、十字架が掲げられています。私たちは、週のはじめの日ごとに、十字架のもとに集まって、礼拝をささげているのです。それは象徴的な意味をもっています。私たちが、週の初めの日ごとに、十字架のもとに集まって礼拝をささげている。そのことは、イエスさまが十字架の死から復活されたこと、イエスさまこそ、神の王であることを示しているのです。週の初めの日ごとに、十字架のもとに集まり、礼拝をささげる。そのような仕方で、私たちは、ともし火を燭台の上にかかげているのです。
24節と25節を読みます。
また、彼らに言われた。「何を聞いているかに注意しなさい。あなたがたは自分の量る秤で量り与えられ、更にたくさん与えられる。持っている人は更に与えられ、持っていない人は持っているものまでも取り上げられる。」
ここで、イエスさまは、「秤」のことを言われていますが、21節の「升」は、「秤」として用いられていました。言葉の連想ゲームがなされているわけです。ここでの「自分の量る秤」とは、「自分の価値判断」と言えます。自分たちが聞いているイエスさまの言葉を、どのような言葉として聞くのか。そのことが問われているのです。イエスさまの言葉を、権威ある新しい教えとして聞くか、それとも、悪霊に取りつかれて気が変になっている人の言葉として聞くかでは、大きく違ってくるわけですね。私たちが、聖霊の導きに従って、イエスさまの言葉を、神の王(メシア)の言葉として聞くならば、私たちは神の国の祝福にあずかることができるのです。イエスさまの言葉を神の王(メシア)の言葉として聞くならば、私たちは、神の国の秘密をさらに知る者となるのです。しかし、イエスさまの言葉を神の王の言葉として聞かないならば、私たちは持っているものまでも取り上げられる。そのように、イエスさまは警告されるのです。