聖霊に住み続けていただくために 2026年1月18日(日曜 朝の礼拝)
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聖霊に住み続けていただくために
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- 村田寿和 牧師
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ルカによる福音書 11章24節~28節
聖書の言葉
11:24 「汚れた霊は、人から出て行くと、休む場所を求めて水のない所をうろつくが、見つからない。それで、『出て来たわが家に戻ろう』と言う。
11:25 帰ってみると、掃除をして、飾り付けがしてあった。
11:26 そこで、出かけて行き、自分より悪いほかの七つの霊を連れて来て、中に入り込んで、住み着く。そうなると、その人の後の状態は前よりも悪くなる。」
11:27 イエスがこれらのことを話しておられると、群衆の中から一人の女が声を張り上げて言った。「なんと幸いなことでしょう、あなたを宿した胎、あなたが吸った乳房は。」
11:28 しかし、イエスは言われた。「むしろ、幸いなのは神の言葉を聞き、それを守る人である。」ルカによる福音書 11章24節~28節
メッセージ
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先程は、『ルカによる福音書』の第11章14節から28節までをお読みしました。前回(先週)、14節から23節を学びましたので、今朝は24節から28節より御言葉の恵みにあずかりたいと願います。
前回、私たちは、イエス様が何の力によって悪霊を追い出しているのか。悪霊の頭ベルゼブルの力によってか、それとも、神の指によってかという「ベルゼブル論争」について学びました。20節に、「私が神の指で悪霊を追い出しているなら、神の国はあなたがたのところに来たのだ」と記されているように、イエス様は神の指、神の霊によって悪霊を追い出しておられたのです。イエス様の悪霊追い出しは、イエス様において神の王国が到来していることのしるしであったのです。19節を見ると、イエス様だけではなく、他の人たちも悪霊を追い出していたようです。では、他の人たちも神の指によって悪霊を追い出していたのでしょうか?そのことについてイエス様は何も言われていません。ご自分については、「神の指で悪霊を追い出している」と言われますが、他の人たちについては、何も言っていません。もちろん、他の人たちは、自分が神の力によって悪霊を追い出していると主張したと思います。しかし、イエス様はそのことについて何も言われていないのです。むしろ、続く今朝の御言葉、24節から26節を読むと、イエス様は他の人たちの悪霊追い出しを神の力によるものとは考えていなかったようです。
24節から26節までをお読みします。
「汚れた霊は、人から出て行くと、休む場所を求めて水のない所をうろつくが、見つからない。それで、『出て来たわが家に戻ろう』と言う。帰ってみると、掃除をして、飾り付けがしてあった。そこで、出かけて行き、自分より悪いほかの七つの霊を連れて来て、中に入り込んで、住み着く。そうなると、その人の後の状態は前よりも悪くなる。」
他の人たちは、自分が神の力によって悪霊を追い出していると考えていました。しかし、それは悪霊が外出しただけであるのです。汚れた霊は、水のないところ、荒れ野にいると考えられていました。汚れた霊は、人から出て、休む場所を求めて荒れ野をうろつくのですが、休む場所が見つかりません。それで、「出て来たわが家に戻ろう」と言って帰ってくるのです。悪霊にとって、人間は荒れ野よりも居心地がよい家であるのです。帰ってみると、掃除をして、飾り付けがしてありました。悪霊にとって掃除のしてあるきれいな家は居心地が悪いので、自分よりも悪い七つの霊を連れて来て、ゴミ屋敷にしてしまいます。そうなると、その人の後の状態は前よりも悪くなるのです。
このたとえ話も、霊の世界において、神の支配のもとにあるか、悪霊の支配のもとにあるかのどちらかしかないことを教えています。ある人は、「わたしは神の支配のもとにも、悪霊の支配のもとにもいない」と言うかも知れません。しかし、その人は、悪霊が外出して、空き家になっている状態であるのです。空き家であっても、その人は依然として、悪霊が所有している家であるのです。そして、空き家の状態は危険なのですね。出て行った悪霊が帰ってくるだけではなく、さらに悪い七つの悪霊をも連れて来て住み込んでしまうからです。そうならないために、どうしたらよいのか。それは悪霊よりも強い御方であるイエス・キリストの聖霊に住んでいただくことです。21節から23節で、イエス様はこう言われていました。「強い人が武装して自分の屋敷を守っているときには、その財産は安全である。しかし、もっと強い者が襲って来てこの人に勝つと、頼みの武具を奪い、分捕り品を分け合う。私と共にいない者は私に反対する者であり、私と共に集めない者は散らす者である」。ここでの「強い人」は「悪霊」であり、「自分の屋敷」は「悪霊が取りついている人間」のことです。また、「もっと強い者」とは「神の指で悪霊を追い出すイエス様」のことです。イエス様は、御言葉と聖霊によって、私たちを悪霊の支配から解放してくださり、御自分において到来した神の支配に生きる者としてくださいました。イエス様は、聖霊において、私たち一人一人の内に住み込んでくださり、私たちを「イエスは主である」と告白する者としてくださったのです。「イエスは主である」と告白する私たち一人一人の内には、神の霊である聖霊が住んでいるのです。ですから、使徒パウロは、私たちの体を聖霊が宿る神殿であると言っているのです(一コリント6:19「あなたがたの体は、神からいただいた聖霊が宿ってくださる神殿であり、あなたがたは、代価を払って買い取られたのです」参照)。イエス様の悪霊追い出しは、悪霊に代わって、聖霊を住まわせてくださいます。しかし、他の人の悪霊追い出しは、空き家にするだけであり、前の状態よりも悪い状態をもたらすことになるのです。
「その人の後の状態は前よりも悪くなる」。このことを、使徒ペトロは、イエス・キリストを信じたにも関わらず、信仰を捨ててしまった人に当てはめています。『ペトロの手紙二』の第2章17節から22節までをお読みします。新約の427ページです。
この者たち(偽教師たち)は、水のない泉、嵐に吹き払われる霧であって、彼らには深い闇が待ち受けています。彼らは空しい大言を吐いています。そして、迷いのうちに生活している人々から現に逃れようとしている人たちを、肉欲や放縦によって誘惑し、その人たちに自由を約束しながら、自らは滅びの奴隷になっています。人は、自分を打ち負かした者に隷属するものです。私たちの主、救い主イエス・キリストを深く知って世の汚れから逃れても、再びそれに巻き込まれて打ち負かされるなら、その人たちの後の状態は前よりも悪くなります。義の道を知りながら、伝えられた聖なる戒めに背くよりは、その道を知らなかったほうが、彼らにはまだよかったのです。彼らの身に起こっていることは、「犬は自分の吐いたものに戻る」とか、「豚は身を洗って、また泥の中を転がる」とかいう、ことわざのとおりです。
ここで使徒ペトロは、小アジアの教会を惑わす偽教師たちについての警告を記しています。偽教師たちは、肉欲や放縦によって、小アジアのキリスト者たちを誘惑しました。偽教師たちは自由を約束しながら、自らは滅びの奴隷であったのです。そのような偽教師たちに惑わされて、再び世の汚れに巻き込まれ打ち負かされるなら、その人の状態は前よりも悪くなるのです。そして、実際、そのような者たちがいたようですね。このことは、イエス・キリストを信じて、聖霊に住み込んでいただいても、再び世の汚れに巻き込まれ打ちのめされるなら、私たちは空き家になってしまうことを教えています。汚れた霊が掃除されたきれいな家に我慢できなかったように、聖霊は私たちの汚れた思いや行いに我慢できずに、出て行ってしまうのです。使徒パウロは、『テサロニケの信徒への手紙一』の第5章19節で、「霊の火を消してはいけません」と記しています。私たちの内に灯った聖霊の火は消えてしまうことがあるのです。また、パウロは『エフェソの信徒への手紙』の第4章30節で、「神の聖霊を悲しませてはなりません」と記しています。私たちが世の汚れに巻き込まれて打ちのめされるとき、聖霊は悲しみながら、私たちのもとを去って行くのです(聖霊は悲しまれる人格的な存在である。聖霊はイエス様とは別の弁護者、パラクレートスである)。そのようにして、私たちは空き家の状態になってしまうのです。そうすると、私たちの後の状態は前よりも悪くなるのです。
今朝の御言葉に戻ります。新約の127ページです。
「汚れた霊が戻って来る」。このお話しは、イエス・キリストを信じて、聖霊に住み込んでいただいた私たちにも無縁ではないことを、『ペトロの手紙二』の御言葉から確認しました。イエス・キリストを信じて、聖霊に住み込んでいただいた私たちも、世の汚れに巻き込まれ打ちのめされるなら、空き家となって、汚れた霊が戻って来る恐れがあるのです。では、聖霊に住み続けていただくためには、どうしたらよいのでしょうか。そのことが、27節と28節に記されています。
イエスがこれらのことを話しておられると、群衆の中から一人の女が声を張り上げて言った。「なんと幸いなことでしょう。あなたを宿した胎、あなたが吸った乳房は。」しかし、イエスは言われた。「むしろ、幸いなのは神の言葉を聞き、それを守る人である。」
14節に、イエス様の悪霊追い出しを見て、「群衆は驚いた」と記されていました。群衆の中には、「あの男は悪霊の頭ベルゼブルの力で悪霊を追い出している」と言う者や、天からのしるしを求める人がいました。しかし、イエス様の悪霊追い出しに、神の働きを見て、驚く者たちもいたのです。その中の一人が声を張り上げた女であったのです。当時(紀元一世紀)のユダヤの社会において、女性の幸せは、その息子にかかっていると考えられていました。女は、イエス様を産んで育てた母親をほめることによって、イエス様をほめているわけです。確かに、イエス様をその胎に宿したおとめマリアは「さいわいな者」と呼ばれています。天使ガブリエルは、受胎告知の場面で、こう言いました。「マリア、恐れることはない。あなたは神から恵みをいただいた。あなたは身ごもって男の子を産む。その子をイエスと名付けなさい。その子は偉大な人になり、いと高き方の子と呼ばれる」(ルカ1:30~32)。また、マリアの訪問を受けたエリサベトは聖霊に満たされてこう言いました。「あなたは女の中で祝福された方です。胎内のお子様も祝福されています。私の主のお母様が、私のところに来てくださるとは、何ということでしょう」(ルカ1:42)。マリア自身も、次のように歌っています。「私の魂は主を崇め/私の霊は救い主である神を喜びたたえます。この卑しい仕え女(め)に/目を留めてくださったからです。今から後、いつの世の人も/私を幸いな者と言うでしょう」(ルカ1:46~48)。このように、イエス様の母となったマリアは確かに幸いな者でした。しかし、イエス様はこう言われます。「むしろ、幸いなのは神の言葉を聞き、それを守る人である」。イエス様がこう言われるのは、神の言葉を聞き、それを守る人こそ、イエス様の家族、兄弟姉妹であるからです。第8章21節で、イエス様はこう言われました。「私の母、私のきょうだいとは、神の言葉を聞いて行う人である」。イエス様と血がつながっていなくても、父なる神の言葉を聞いて行う人が、イエス様の家族、兄弟姉妹であるのです。そのことが、第11章28節の御言葉の背景にあるのです。「イエス様のような息子をもった母親は幸せだ」と言う女に対して、イエス様は「父なる神の言葉を聞いて、それを守る人は、私の家族、兄弟姉妹であるから幸せだ」と言うのです。私たちは、神の言葉を聞き、それを守るイエス様の家族、兄弟姉妹であり、幸いな者たちであるのです。
「むしろ、幸いなのは神の言葉を聞き、それを守る人である」。このイエス様の御言葉は、聖霊に住み続けていただくために必要なことを教えています。私たちが世の汚れに巻き込まれ打ちのめされるなら、聖霊は悲しみながら私たちの内から去ってしまいます。しかし、私たちが神の言葉を聞き、それを守るならば、聖霊は私たちの内に住み続けてくださるのです。私たちは、週の初めの日ごとに、イエス・キリストの教会として集まり、礼拝をささげています。それは私たちが神の言葉を聞き、それを守るためであるのです。また、私たち一人一人の内に宿っている聖霊に住み続けていただくためであるのです。
このように聞くと、礼拝から遠のいている人はどうなってしまうのかと心配になります。しかし、だからといって、私たちは礼拝から遠のいている人を無理矢理に連れて来ることはできません。誘うことはできますが、強制することはできません。私たちにできることは、お誘いすることと執り成しの祈りをささげることです。私たちには人の心を変えることはできませんが、神様は人の心を変えることができます。そのことを信じて、私たちは礼拝から遠のいている兄弟姉妹のために祈りたいと思います。また、私たち自身が世の汚れに巻き込まれ、打ちのめされて、聖霊を悲しませることがないように。神の言葉を聞き、それを守ることができるように、互いのために祈りたいと思います。