数え言葉の箴言 2025年12月10日(水曜 聖書と祈りの会)
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数え言葉の箴言
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- 村田寿和 牧師
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箴言 30章15節~33節
聖書の言葉
30:15 蛭には二人の娘/「与えよ、与えよ」と言う。/満足しないものが三つ/いや四つのものが「もう十分」とは言わない。
30:16 陰府と不妊の胎/水に満足したことのない地と/「もう十分」とは言わない火。
30:17 父を嘲り、母への従順を侮る目を/谷の烏がつつき、鷲の雛がついばむ。
30:18 私にとって、驚くべきことが三つ/いや四つのことに納得できない。
30:19 天にある鷲の道/岩の上の蛇の道/海の中の船の道/そしておとめと共にいる男の道。
30:20 姦淫する女の道もそうだ。/彼女は食べて口を拭い/悪いことはしていないと言う。
30:21 大地は三つのことに震える/いや四つのことに耐えられない。
30:22 奴隷が王となること/愚か者であるのにパンに満ち足りていること
30:23 憎まれている女が結婚すること/仕え女であるのに女主人の座を継ぐこと。
30:24 地の小さなものが四つ/それは知恵ある者の中の知恵ある者。
30:25 蟻は力のない民/それは夏の間に食物を集める。
30:26 岩狸は強くもない民/それは住みかを岩壁に置く。
30:27 王を持たないばった/それはそろって隊列を組んで進み行く。
30:28 手で捕まえられてしまうやもり/だがそれは王の宮殿にいる。
30:29 足取りの堂々としているものが三つ/いや四つのものの歩みが堂々としている。
30:30 獣の中でも勇ましい雄獅子/何と向かい合っても決して退かない。
30:31 尾を立てた雄鶏、雄山羊/そして民に向かって威張る王。
30:32 愚かにも自ら高ぶっているなら/策を練っているなら、手を口に当てよ。
30:33 乳を絞ると凝乳が出て来る。/鼻を絞ると血が出て来る。/怒りを絞ると争いが出て来る。
箴言 30章15節~33節
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今朝は、『箴言』の第30章15節から33節より、御言葉の恵みにあずかりたいと願います。ここには、「数え言葉の箴言」が記されています。今朝の御言葉も「ヤケの子アグルの言葉」としてお話しします(箴30:1)。
15節から17節までを読みます。
蛭には二人の娘/「与えよ、与えよ」と言う。満足しないものが三つ/いや四つのものが「もう十分」とは言わない。陰府と不妊の胎/水に満足したことのない地と「もう十分」とは言わない火。父を嘲り、母への従順を侮る目を/谷の烏がつつき、鷲の雛がついばむ。
数え言葉の箴言は、15節後半から16節までです。その序文として、15節前半、「蛭には二人の娘/『与えよ、与えよ』と言う」と記されています。蛭は血を吸う生き物で、その前と後に吸盤があり、それが口であると考えられていたようです。口が二つあると考えられていたので、「蛭には二人の娘/『与えよ、与えよ』と言う」と記されているのです。数え言葉の箴言の後には、父と母を敬わない者に対する警告の言葉が記されています。父と母を敬うことは、神様が定められた秩序であります。神の秩序に適って生きる人は知恵ある人であり、神の秩序に逆らって生きる人は愚かな人です。父と母を敬うという神の秩序に逆らって生きる者は共同体の秩序を損なう者として、処刑され、その死体は墓に葬られることなく、野ざらしにされるとアグルは警告するのです(出エジプト21:15、17参照)。では、数え言葉の箴言を見ていきたいと思います。この数え言葉の箴言は、なぞなぞとも言えます(箴言と訳されるマーシャールには謎の意味もある)。「満足しないものが3つ、いや4つのものが『もう十分』とは言わない。これ何だ?」と言った感じです。答えは、「陰府と不妊の胎と水に満足したことの地と『もう十分』とは言わない火」です。4つのものがあげられていますが、アグルが強調したいのは最後の4つ目です。1つ目の「陰府」とは死んだ人が行く所と考えられていました。死者の領域が陰府です。ここには陰府が口を開けて、死者を呑みこんでしまうイメージがあります。陰府は「もう十分」とは言わず、「与えよ、与えよ」と死者を欲するのです。2つ目の「不妊の胎」とは、子どもを欲しがる女性のことです。古代オリエントの社会に生きる女性にとって、夫の子どもを産むことは重要なことであったのです(創世記の29、30章の「ヤコブの妻のレアとラケルの争い」、サムエル記上の1章の「エルカナの妻ハンナ」を参照)。3つ目の「水に満足したことのない地」は、水をいくらでも吸い込みそうな乾燥した大地のことです。4つ目の「『もう十分』とは言わない火」とは、「燃える物があれば燃え続ける火」のことです。
18節から20節までを読みます。
私にとって、驚くべきことが三つ/四つのことに納得ができない。天にある鷲の道/岩の上の蛇の道/海の中の船の道/そしておとめと共にいる男の道。姦淫する女の道もそうだ。彼女は食べて口を拭い/悪いことはしていないと言う。
18節と19節が数え言葉の箴言です。20節は、4つ目の答えに触発された追加の言葉です。アグルは、驚くべきこと、納得できないことが4つあると言います。1つ目は「天にある鷲の道」。これは渡り鳥のことを考えればよいと思います(ヨブ39:26参照)。2つ目は「岩の上の蛇の道」。蛇は足がないのに、くねくねと這って進みます。これは確かに驚くべきことです。3つ目は「海の中の船の道」。この船は帆に風を受けて進む船のようです。風がどこから吹いてどこへ行くのか分からないように、風に吹かれて進む船の道も分からないのです(ヨハネ3:8参照)。4つ目は「おとめと共にいる男の道」です。アグルはおとめと共にいる男を見て、どのようにおとめと親しくなったのであろうと驚き、不思議に思うのです。この4つ目に強調点があるのですが、それに触発されて、「姦淫する女の道もそうだ」と言います。姦淫する女も誰にも知られることなく、それを行うからです。姦淫する女は、他人の伴侶と関係を持ちながら、「悪いことはしていない」と言うのです。姦淫する女は、神が定めた秩序である結婚関係を破壊する愚かな者であるのです(ヘブライ13:4参照)。
21節から23節までを読みます。
大地は三つのことに震える/いや四つのことに耐えられない。奴隷が王となること/愚か者であるのにパンに満ち足りること/憎まれている女が結婚すること/仕え女であるのに女主人の座を継ぐこと。
ここでアグルは、社会の秩序を脅かす4つのことを記しています。「大地は三つのことに震える」とありますが、大地を揺るがす地震のような、耐えられない4つのことを記すのです。1つ目は「奴隷が王となること」です。これは、卑しい者が王となることです。これも神の秩序を損なうことです。神は知恵ある人を王として立て、世界を治められるからです。2つ目は「愚か者であるのにパンに満ち足りること」です。ある研究者は、「ここでの愚か者はケチな人のことである」と言っています。ケチな人はパンに満ち足りても、困っている人に分け与えようとはしないのです。3つ目は「憎まれている女が結婚すること」です。これは解釈が難しいのですが、何らかの事情で社会から疎まれている女(例えば、ふしだらな女)が結婚しても長くは続かないことを背景にしているのだと思います。4つ目は「仕え女であるのに女主人の座を継ぐこと」です。これも神が定められた家庭の秩序を損なうことです(創世16章のアブラハムの妻サライと仕え女ハガルを参照)。
24節から28節までを読みます。
地の小さなものが四つ/それは知恵ある者の中の知恵ある者。蟻は力のない民/それは夏の間に食物を集める。岩狸は強くもない民/それは住みかを岸壁に置く。王を持たないばった/それはそろって隊列を組んで進み行く。手で捕まえられてしまうやもり/だがそれは王の宮殿にいる。
アグルは、地の小さなものであり、知恵ある者を4つあげます。1つ目は「蟻」です。蟻は力はありませんが、夏の間に食物を集めます(箴6:6〜8参照)。2つ目は「岩狸」です。岩狸は強くありませんが、砦とも言える岸壁に住まいを置きます。3つ目は「ばった」です。ばったは王を持ちませんが、そろって隊列を組んで進みます。4つ目は「やもり」です。「やもり」は手で捕まえられてしまいますが、王の宮殿にいます。
29節から32節まで読みます。
足取りの堂々としているものが三つ/いや四つのものの歩みが堂々としている。獣の中でも勇ましい雄獅子/何と向かい合っても決して退かない。尾を立てた雄鶏、雄山羊、そして民に向かって威張る王。愚かにも自ら高ぶっているなら/策を練っているなら、手を口に当てよ。
アグルは、歩みが堂々としている4つのものをあげます。1つ目は百獣の王ライオンです。2つ目は「尾を立てた雄鶏」、3つ目は「雄山羊」です。4つ目は「民に向かって威張る王」です。32節は、31節の「民に向かって威張る王」と繋がっていると思います。ここでアグルは、王に対して、自ら高ぶり、その王座の転覆の策を練る者を戒めています。なぜなら、その王は神様によって立てられた王であるからです。「手を口に当てる」とは、自分を低くして、相手に敬意を表すジェスチャー(身振り)です(ヨブ40:4、5参照)。
33節を読みます。
乳を絞ると凝乳が出て来る。鼻を絞ると血が出て来る。怒りを絞ると争いが出て来る。
ここでアグルは、絞ると出て来る3つのものがあげています。ここでも最後のものに強調点があります。「怒りを絞ると争いが出て来る」。争いの原因には、人の怒りがあるのです。ですから、争いのない社会を実現するためには、人を怒りから解放する必要があるのです。聖書は、そのために、神の御子が人としてお生まれになり、十字架の死を遂げられたことを教えています。今朝は、そのところを読んで終わります。『エフェソの信徒への手紙』の第2章14節から19節までを読みます。新約の347ページです。
キリストは、私たちの平和であり、二つのものを一つにし、ご自分の肉によって敵意という隔ての壁を取り壊し、数々の規則から成る戒めの律法を無効とされました。こうしてキリストは、ご自分において二つのものを一人の新しい人に造り変えて、平和をもたらしてくださいました。十字架を通して二つのものを一つの体として神と和解させ、十字架によって敵意を滅ぼしてくださったのです。キリストは来られ、遠く離れているあなたがたにも、また近くにいる人々にも、平和の福音を告げ知らせてくださいました。このキリストによって、私たち両方の者が一つの霊にあって、御父に近づくことができるのです。ですから、あなたがたは、もはやよそ者でも寄留者でもなく、聖なる者たちと同じ民であり、神の家族の一員です。
キリストは、ユダヤ人の怒り(敵意)と異邦人の怒り(敵意)を、十字架において受けてくださいました。そして、御自分を十字架につけたユダヤ人と異邦人を赦すという仕方で、ユダヤ人と異邦人との間に、神の平和をもたらしてくださったのです。イエス・キリストの教会の交わりは、神の平和が支配する交わりであるのです(コロサイ3:15参照)。