私たちのための祈り 2025年12月07日(日曜 朝の礼拝)

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私たちのための祈り

日付
説教
村田寿和 牧師
聖書
ルカによる福音書 11章1節~4節

聖句のアイコン聖書の言葉

11:1 イエスはある所で祈っておられた。祈りが終わると、弟子の一人がイエスに、「主よ、ヨハネが弟子たちに教えたように、私たちにも祈りを教えてください」と言った。
11:2 そこで、イエスは言われた。「祈るときには、こう言いなさい。/『父よ/御名が聖とされますように。/御国が来ますように。
11:3 私たちに日ごとの糧を毎日お与えください。
11:4 私たちの罪をお赦しください。/私たちも自分に負い目のある人を/皆赦しますから。/私たちを試みに遭わせないでください。』」ルカによる福音書 11章1節~4節

原稿のアイコンメッセージ

 先程は、第11章1節から4節までを読みました。先々週(11月23日)は、1節と2節を中心にしてお話ししましたので、今朝は3節と4節を中心にして御言葉の恵みにあずかりたいと願います。

 初めに、前回の振り返りをしたいと思います。イエス様が祈り終わると、弟子の一人がイエス様にこう言いました。「主よ、ヨハネが弟子たちに教えたように、私たちにも祈りを教えてください」。この人は、イエス様の弟子として祈るべきことを教えてくださいと願ったのです。イエス様の弟子ならではの祈りを教えてくださいと願ったのです。そこで、イエス様はこう言われます。「祈るときには、こう言いなさい。『父よ/御名が聖とされますように。御国が来ますように。私たちに日ごとの糧を毎日お与えください。私たちの罪をお赦しください。私たちも自分に負い目のある人を皆赦しますから。私たちを試みに遭わせないでください』」。ここには、私たちが礼拝の中で祈っている「主の祈り」が記されています。『ルカによる福音書』の主の祈りは、5つの願いから成っています。この5つの願いは、「あなたのための祈り」と「私たちのための祈り」の大きく二つに分けることができます。「御名が聖とされますように」の「御名」は「あなたの名」、「父なる神の名」のことです。また、「御国が来ますように」の「御国」とは「あなたの王国」、「父なる神の王国」のことです。ですから、最初の2つの願いは、「あなたのための祈り」、「父なる神のための祈り」と言えます。イエス・キリストにあって、神の子とされた私たちが先ず祈るべきことは、父なる神の御名が聖とされることであり、父なる神の王国が来ることであるのです。そのように祈り願いながら、私たちは天の父なる神の御名をほめたたえ、天の父なる神の御心を行っているのです。ここまでが前回の振り返りとなります。

 今朝は、後半の3つの願い、「私たちのための祈り」について学びたいと思います。

 3節を読みます。 

 私たちに日ごとの糧を毎日与えてください。

 ここから私たちは、主の祈りは毎日の祈りであることを教えられます。私たちは主の日の礼拝ごとに、毎週、主の祈りを祈っていますが、主の祈りは毎日祈るべき祈りであるのです。主の祈りを毎日祈ることによって、私たちの内に、主イエスの弟子としての霊性(スピリチュアリティ―)、信仰のかたちが形づくられていくのです。前回も申しましたように、「主の祈り」は「主イエスが祈られた祈り」です。主イエスは、ご自分の祈りを、弟子である私たちにも教えてくださいました。それは、私たちが主の祈りを毎日祈って、イエス様に似た、神の子となるためであるのです。「私たちに日ごとの糧を毎日与えてください」。この祈りの背景には、『出エジプト記』の第16章に記されている天からのパン、マナのお話しがあります。神様は、荒れ野でイスラエルの民を、天からのパン、マナによって養いました。神様は、イスラエルの民に、毎日、天からのパン、マナを与えられたのです。そのようにして、神様はご自分が、イスラエルの民を養う王であることを示されたのです。また、「私たちに日ごとの糧を毎日与えてください」という祈りは、私たちに、『箴言』の第30章に記されている「アグルの言葉」を思い起こさせます。旧約の1015ページです。第30章7節から9節まで読みます。

 私は二つのことをあなたに願います。私が死ぬまで、それらを拒まないでください。空しいものや偽りの言葉を私から遠ざけ/貧しくもせず、富ませもせず/私にふさわしい食物で私を養ってください。私が満ち足り、あなたを否んで「主とは何者か」と言わないために。貧しさのゆえに盗み、神の名を汚さないために。

 アグルが「貧しくもせず、富ませもせず、私にふさわしい食物で私を養ってください」と願うのは、主との関係を保つためであり、主の御名を汚さないためであります。このアグルの言葉は、「私たちに日ごとの糧を毎日与えてください」という願いが、「父よ、御名が聖とされますように。御国が来ますように」という願いと結びついていることを教えています。「私たちに日ごとの糧を毎日お与えください」と願う「私たち」とは、イエス・キリストにあって、神様を父と呼び、「御名が聖とされますように。御国が来ますように」と願う私たちであるのです。ですから、次のようにも言えます。「父よ、御名をほめたたえることができまるように、御心を行うことができるように、私たちに日ごとの糧を毎日お与えください」。私たちは、食事をいただく前に、神様に感謝の祈りをささげます。その感謝の祈りは、「私たちに日ごとの糧を毎日お与えください」という願いに答えてくださった父なる神への感謝の祈りであるのです。

 今朝の御言葉に戻ります。新約の126ページです。

 4節の前半を読みます。

 私たちの罪をお赦しください。私たちも自分に負い目のある人を/皆赦しますから。

 私たちは、主の日の礼拝において、罪を告白し、三位一体の神の御名によって罪の赦しの宣言を受けます。しかし、私たちは毎日、「私たちの罪をお赦しください」と祈るべきであるのです。私たちは、イエス・キリストの十字架の贖いによってすべての罪を赦され、正しい者、神の子とされています。しかし、私たちには罪が残っており、日ごとに心と言葉と行いにおいて罪を犯してしまいます。それゆえ、私たちは毎日、「私たちの罪をお赦しください」と祈るべきであるのです。ここで、イエス様は、「私たちも自分に負い目のある人を/皆赦しますから」とも祈るように教えています。「負い目」とは「罪」のことです。「父なる神に、自分の罪の赦しを願う者は、他人の罪を赦す用意がなくてはならない」ということです(マタイ18:21〜35「仲間を赦さない家来のたとえ」参照)。父なる神の赦しは、私たちの交わりに赦しをもたらすのです。

 先程、私は「主の祈りは主イエスの祈りである」と言いましたが、「私たちの罪をお赦しください」という祈りはイエス様の祈りとしてふさわしくないと思うかも知れません。なぜなら、イエス様は罪のない御方であり、罪を犯したことのない御方であるからです。しかし、そのイエス様が私たち罪人の一人となってくださり、私たちのために「私たちの罪をお赦しください」と祈ってくださったのです。イエス様は、罪のない御方でありながら、洗礼者ヨハネから悔い改めの洗礼を受けてくださいました(マタイ3:14、15参照)。そのイエス様が私たち罪人の一人として、「私たちの罪をお赦しください」と祈ってくださったのです(イザヤ53:12参照)。

 4節の後半を読みます。

 私たちを試みに遭わせないでください。

 ここで「試み」と訳されている言葉(ペイラスモス)は、神の「試練(訓練)」とも、悪魔の「誘惑」とも解釈できます。イエス様が、「私たちを試みに遭わせないでください」と祈るように言われる「試み」は、悪魔の誘惑のことを言っているようです。というのも、『マタイによる福音書』の第6章に記されている「主の祈り」には、「私たちを試みに遭わせず/悪からお救いください」とあるからです。また、主の僕ヤコブは、「神の試練に遭うことを、この上ない喜びと思いなさい」と言っていますから、やはり、ここでの試みは、悪魔の誘惑のことであると思います(ヤコブ1:2~4参照)。では、悪魔はどのようにして、私たちを誘惑するのでしょうか?それは、人を通してです。そのことは、イエス様の生涯を思い起こすならばよく分かります。悪魔は、荒れ野で空腹を覚えられたイエス様に、「神の子なら、この石にパンになるよう命じたらどうだ」と言って誘惑しました(ルカ4:3)。そして、悪魔は、十字架につけられたイエス様に、人々を通して、「他人を救ったのだ。神のメシアで、選ばれた者なら、自分を救うがよい」と言って誘惑したのです(ルカ23:35)。悪魔は人を通して誘惑する。このことは、使徒パウロが『エフェソの信徒への手紙』の第6章で記していることでもあります。新約の352ページです。10節から13節までを読みます。

 最後に、主にあって、その大いなる力によって強くありなさい。悪魔の策略に対して立ち向かうことができるように、神の武具を身に着けなさい。私たちの戦いは、人間に対するものではなく、支配、権威、闇の世界の支配者、天にいる悪の諸霊に対するものだからです。それゆえ、悪しき日にあってよく抵抗し、すべてを成し遂げて、しっかりと立つことができるように、神の武具を取りなさい。

 ここでパウロは、「私たちの戦いは、人間に対するものではなく、支配、権威、闇の世界の支配者、天にいる悪の諸霊に対するものである」とはっきりと述べています。私たちは、人間の背後に悪霊の働きを見抜く、霊的な視点を持たなければならないのです。

 では、悪魔の誘惑とは、どのような誘惑なのでしょうか?それは一言で言えば、「イエス・キリストへの信仰を捨ててしまう誘惑」のことです。この誘惑は、弟子たちがオリーブ山で遭った誘惑でもあります。『ルカによる福音書』の第22章39節から46節までを読みます。新約の152ページです。

 イエスはそこを出て、いつものようにオリーブ山に行かれると、弟子たちも従った。目的の場所に来ると、イエスは弟子たちに、「誘惑に陥らないように祈りなさい」と言われた。そして自分は、石を投げて届くほどの所に離れ、ひざまずいてこう祈られた。「父よ、御心なら、この杯を私から取りのけてください。しかし、わたしの願いではなく、御心のままに行ってください。」〔すると、天使が天から現れて、イエスを力づけた。イエスは苦しみもだえ、いよいよ切に祈られた。汗が血の滴るように地面に落ちた。〕イエスは祈り終わって立ち上がり、弟子たちのところに戻って御覧になると、彼らは心痛のあまり眠り込んでいた。イエスは言われた。「なぜ眠っているのか。誘惑に陥らぬよう、起きて祈っていなさい。」

 ここでイエス様は、「誘惑に陥らないように祈りなさい」と弟子たちに言われました。この誘惑については、イエス様は31節と32節で、こう言われています。「シモン、シモン、サタンはあなたがたを麦のようにふるいにかけることを願い出た。しかし、私は信仰がなくならないように、あなたがたのために祈った。だから、あなたが立ち直ったときには、兄弟たちを力づけてやりなさい」。イエス様が弟子たちに、「誘惑に陥らないように祈りなさい」と言われた誘惑はサタンの誘惑であり、イエス様を見捨てて逃げてしまう誘惑であったのです。イエス様は、弟子たちに、「私を見捨てて逃げてしまう誘惑に陥らないように祈りなさい」と言われたのです。しかし、弟子たちは眠ってしまい、祈ることができませんでした。それゆえ、弟子たちは、イエス様を見捨てて逃げてしまったのです。このように、弟子たちはサタンの誘惑に陥るのですが、イエス・キリストへの信仰を捨ててしまうことはありませんでした。それは、イエス様が弟子たちの信仰がなくならないように祈ってくださったからです。イエス様が、「私たちを誘惑に陥らせないでください」と祈ってくださっていたからです。「私たちを試みに遭わせないでください」という祈りは、「私たちを試みに陥らせないでください」とも訳すことができます(エイスフェローは「連れて行く、連れ込む」の意味)。ローマ・カトリック教会の『カトリック要理』の「主の祈り」には、「わたしたちを誘惑に陥らせず、悪からお救いください」と記されています。信仰生活において、悪魔の誘惑に遭うことは避けられません。しかし、悪魔の誘惑に陥ることは避けることができるのです。ですからイエス様は、父なる神様に、「私たちを悪魔の誘惑に陥らせないでください」と祈るようにと教えられたのです。

 今朝の説教題を、「私たちのための祈り」としました。「私たち」とは、イエス様の弟子であり、神様を父と呼び、神様をほめたたえ、神様の御心を行う私たちのことです。主の祈りは、主にある兄弟姉妹のための執り成しの祈りであるのです。私たちが礼拝の中で主の祈りを祈るとき、私たちは互いのために執り成しの祈りをささげているのです。同じことが一人で家で祈っているときにも言えます。私たちは主にある兄弟姉妹のことを覚えて、執り成しの祈りをささげているのです。主の祈りは、私たちをキリストの教会として結びつける共同体の祈りであるのです。そのことを心に留めて、私たちは、毎日、主の祈りを祈りたいと願います。

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