二つの願い 2025年12月03日(水曜 聖書と祈りの会)
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二つの願い
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- 村田寿和 牧師
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箴言 30章1節~14節
聖書の言葉
30:1 ヤケの子アグルの言葉。託宣。/その人は言う。/神よ、私は疲れた。/神よ、私は疲れた。/呑み尽くされてしまいそうだ。
30:2 私は誰よりも愚かで/人間としての分別もない。
30:3 知恵を学んだこともなく/聖なる方の知識も知らない。
30:4 誰が天に昇り、また降ったのか/誰がその両手の中に風を集めたのか/誰がその衣で水を包んだのか/誰が地の果てを定めたのか/その名は何か、その子の名は何か、ということも/あなたは知っているはず。
30:5 神の仰せはすべて精錬されており/神に逃れる人にとっての盾。
30:6 御言葉に付け加えてはならない/あなたが懲らしめを受け/偽りの者とされないために。
30:7 私は二つのことをあなたに願います。/私が死ぬまで、それらを拒まないでください。
30:8 空しいものや偽りの言葉を私から遠ざけ/貧しくもせず、富ませもせず/私にふさわしい食物で私を養ってください。
30:9 私が満ち足り、あなたを否んで/「主とは何者か」と言わないために。/貧しさのゆえに盗み、神の名を汚さないために。
30:10 主人に僕のことを悪く言ってはならない。/僕があなたを呪い/あなたが罪に定められないために。
30:11 父を呪い/母を祝福しない者たち。
30:12 自分では清いと思い込み/自分の汚物を洗い落とさない者たち。
30:13 どことなく高ぶった目線/驕ったまなざしの者たち。
30:14 歯は剣、顎は刃物/国の中の苦しむ人、人々の中の貧しい人を/餌食とする者たち。箴言 30章1節~14節
メッセージ
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今朝は、『箴言』の第30章1節から14節より、御言葉の恵みにあずかりたいと願います。
1節に、「ヤケの子アグルの言葉。託宣」とあるように、第30章には、アグルの言葉が記されています。アグルの名前はここにしか出てきませんので、よく分かりませんが、知恵の教師であったのでしょう。
1節後半から6節までを読みます。
その人は言う。神よ、私は疲れた。神よ、私は疲れた。呑み尽くされてしまいそうだ。私は誰よりも愚かで/人間としての分別もない。知恵を学んだこともなく/聖なる方の知識も知らない。誰が天に昇り、また降ったのか/誰がその両手の中に風を集めたのか/誰がその衣で水を包んだのか/誰が地の果てを定めたのか/その名は何か、その子の名は何か、ということも/あなたは知っているはず。神の仰せはすべて精錬されており/神に逃れる人にとっての盾。御言葉に付け加えてはならない/あなたが懲らしめを受け/偽りの者とされないために。
「その人は言う」とありますが、「その人」とは誰でしょうか。その人は、神を知ろうとして疲れてしまったようです。また、その人は、「私は誰よりも愚かで/人間としての分別もない」とあるように、打ち砕かれているようです。3節に、「知恵を学んだこともなく/聖なる方の知識も知らない」とありますから、「その人」はイスラエルの民ではない、異邦人であるようです。4節の質問、「誰が天に昇り、また降ったのか/誰がその両手の中に風を集めたのか/誰がその衣で水を包んだのか/誰が地の果てを定めたのか」という質問は、『ヨブ記』の第38章に記されている、ヨブに対する主の質問を思い起こさせます。ちなみに、「誰がその衣で水を包んだのか」の「衣」は雲のことです。その人は、「その名は何か、その子の名は何か、ということも/あなたは知っているはず」と言います。「その人」が異邦人であるとすれば、「あなた」は神の民であるイスラエル人であると読むことができます。その人が「あなたは知っているはず」と言うのも、神の民であるあなたには、神の言葉が与えられているからです。このことは、使徒パウロが、『ローマの信徒への手紙』の第3章で記していることです。「では、ユダヤ人の優れた点は何か。割礼の利益は何か。それはあらゆる点でたくさんあります。第一に、神の言葉が委ねられたことです」(ローマ3:1、2)。神の民であるユダヤ人は、神の言葉を委ねられたゆえに、天地万物を造り、統べ治めておられる神の名が、「主、ヤハウェ」であることを知っているのです。では、「その子の名」は、何でしょうか?旧約だけではなく、新約をも神の言葉として受け取る私たちにとって、「神の子の名」は、「イエス(主は救い)」です。私たちは、旧約39巻と新約27巻からなる66巻の聖書によって、天地万物を造り、統べ治めておられる神の名が主、ヤハウェであり、その神の子の名が「イエス」であることを知っているのです。そして、私たちにとっても、神の仰せはすべて精錬されており、私たちを守る盾であるのです。ですから、「御言葉に付け加えてはならない」のです(申命4:2、13:1、黙示22:18参照)。神の言葉に人間の言葉を付け加えるならば、私たちは懲らしめを受け、偽り者とされてしまうのです。
7節から9節までを読みます。
私は二つのことをあなたに願います。私が死ぬまで、それらを拒まないでください。空しいものや偽りの言葉を私から遠ざけ/貧しくもせず、富ませもせず/私にふさわしい食物で私を養ってください。私が満ち足り、あなたを否んで/「主とは何者か」と言わないために。貧しさのゆえに盗み、神の名を汚さないために。
ここでの「私」は「アグル」を指すと解釈したいと思います。また、「あなた」は祈りの対象ですから「神様」のことです。アグルは、二つのことを神様に願います。一つ目の願いは、「空しいものや偽りの言葉を私から遠ざけてください」という願いです。二つ目の願いは、「貧しくもせず、富ませもせず/私にふさわしい食物で私を養ってください」という願いです。この二つの願いは、私たち一人一人が自分の願いとすべきものですね。私たちが生きている現代の日本には、空しいものや偽りの言葉が満ち溢れています。そのようなものに惑わされることがないのように、私たちはまことの神様(天地万物を造り、イエス・キリストを遣わしてくださった神様)と真理である神の言葉に近づきたいと思います。また、富も大きな誘惑になります。イエス様が、「神と富とに仕えることはできない」と言われたように、富(マモン)は神に代わる偶像に成り得るのです(マタイ6:24)。ですから、私たちは、イエス様が「主の祈り」で教えてくださったように、「私たちに日ごとの糧を与えてください」「私たちに必要な糧を与えてください」と祈るべきであるのです(マタイ6:11参照)。アグルがここで祈っているのも、自分が生きていくために必要な日ごとの糧であるのです。それにしても、なぜ、アグルは、「貧しくもせず、富ませもせず/私にふさわしい食物で私を養ってください」と願うのでしょうか。それは、アグルが神様との関係を第一に考えているからです。アグルは、満ち足りれば主を忘れて、「主とは何者か」と言う恐れがあることを知っているのです。また、貧しければ、盗みを働いて、神の名を汚す恐れがあることを知っているのです。そのようなことがないように、アグルは、「私にふさわしい食物で私を養ってください」と願うのです。イエス様が「主の祈り」において、「私たちに日ごとの糧をお与えください」と願うように教えられたのも、私たちが父なる神の御名を聖とするためであったのです。
10節を読みます。
主人に僕のことを悪く言ってはならない。僕があなたを呪い/あなたが罪に定められないために。
僕は、主人よりも弱い立場にあります。その弱い立場にある僕を苦しめるようなことを言ってならないのです。なぜなら、僕が「すべての人の主人である神様」に訴えるようなことがあれば、あなたは罪に定められるかも知れないからです。この10節の御言葉を、新約の光の中で読むと、「主イエス・キリストに、僕仲間である兄弟姉妹のことを悪く言ってはならない」と読むことができます(コロサイ4:1参照)。使徒パウロが、「他人の召し使いを裁くあなたは、一体何者ですか」と言っているように、私たちは僕仲間である兄弟姉妹を裁いてはならないのです(ローマ14:4)。それは、私たちが主イエスによって裁かれないためであるのです(マタイ7:1、2「人を裁くな。裁かれないためである。あなたがたは、自分の裁く裁きで裁かれ、自分の量る秤で量られる」参照)。
11節から14節までを読みます。
父を呪い/母を祝福しない者たち。自分では清いと思い込み/自分の汚物を洗い落とさない者たち。どことなく高ぶった目線/驕ったまなざしの者たち。歯は剣、顎は刃物/国の中の苦しむ人、人々の中の貧しい人を餌食とする者たち。
ここには、4つの厭うべき者たちが挙げられています。次回学ぶことになる15節以下に、「満足しないものが三つ、いや四つ」と数え歌が記されています。それに先立って、4つの厭うべき者たちが記されているのです。私たちは、このような者たちにならないようにしたいと思います。むしろ、私たちは、父と母を祝福する者たち・自分の罪を認めて罪から離れる者たち・神と人に対してへりくだった者たち・苦しむ人と貧しい人を助ける者たちになりたいと願います。