正しき者と悪しき者 2025年11月26日(水曜 聖書と祈りの会)

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正しき者と悪しき者

日付
説教
村田寿和 牧師
聖書
箴言 29章27節

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29:27 正しき者がいとうのは不正を犯す者/悪しき者がいとうのはまっすぐに歩む人。箴言 29章27節

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 今朝は、『箴言』の第29章27節を中心にしてお話しします。

 正しき者がいとうのは不正を犯す者/悪しき者がいとうのはまっすぐに歩む人

 ここには正しき者と悪しき者が対立する者として記されています。なぜ、正しき者は不正を犯す者をいとうのでしょうか(「いとう」とは「嫌って避ける。いやがる」の意味)。それは、正しき御方である主が不正を犯す者をいとわれるからです。『箴言』の第3章32節にこう記されていました。旧約の977ページです。

 主は曲がった者をいとい/まっすぐな人と親しくされる。

 正しき者は、主が曲がった者をいとうので、不正を犯す者をいといます。また、悪しき者は、主がまっすぐな人と親しくされるので、まっすぐに歩む人をいとうのです。このように、正しき者と悪しき者とが対立するのは、主が正しい者と悪しき者とに対して反対の態度をとられるからです。しかし、神様はイエス・キリストにあって、不正を犯す者を愛してくださいます。そのことを教えてくれているのが、『ヨハネによる福音書』の第3章16節と17節の御言葉です。新約の164ページです。

 神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。御子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。神が御子を世に遣わされたのは、世を裁くためではなく、御子によって世が救われるためである。

 ここでの「世」は、神様に造られておりながら、神様に逆らい続ける世であります。ここでの「世」には、神様の御前に不正を犯している私たち一人一人が含まれています。そうであれば、神様は、「世」をいとうはずです。しかし、神様は独り子イエス・キリストを十字架の死に引き渡されるほどに、「世」を愛してくださいました。それは曲がった私たちを、イエス・キリストにあってまっすぐな人とするためであります。神様は、私たちをイエス・キリストにあってまっすぐな人にしてくださり、父と子という親しい交わりに生かしてくださるのです。そのようにして、イエス・キリストを信じる者たちに、永遠の命を与えてくださるのです。このような神の正しさこそ、イエス・キリストの福音の内に示された神の正しさであるのです。使徒パウロは、『ローマの信徒への手紙』の第1章16節と17節でこう記しています。新約の268ページです。

 私は福音を恥としません。福音は、ユダヤ人をはじめ、ギリシア人にも、信じる者すべてに救いをもたらす神の力です。神の義が、福音の内に、真実により信仰へと啓示されているからです。「正しい者は信仰によって生きる」と書いてあるとおりです。

 福音の内に示された神の義(神の正しさ)とは、罪人を裁く義ではなく、イエス・キリストにあって罪人を正しい者とする義であります。神の義はイエス・キリストにあって、正しい者を造り出す創造的な義であるのです。神様は曲がった者をいとわれるだけではなく、イエス・キリストにあって曲がった者をまっすぐな人に造り変えてくださるのです。

 今朝の御言葉に戻ります。旧約の1014ページです。

 27節、「正しき者がいとうのは不正を犯す者/悪しき者がいとうのはまっすぐに歩む人」。悪しき者はまっすぐに歩む人をいといます。そして、ここに、イエス様が人々から憎まれ、殺されてしまった理由があるのです。『ヨハネによる福音書』の第7章7節で、イエス様はご自分を信じない兄弟たちにこう言われます。新約の174ページです。

 世はあなたがたを憎むことはできないが、私を憎んでいる。私が、世の行っている業は悪いと証ししているからだ。

 神の御心に適ったまっすぐな道を歩むイエス様は、はからずも世の行っている業が悪いことを証してしまうのです。それゆえ、世はイエス様を憎むのです。

 また、イエス様は第8章で、ご自分を殺そうとするユダヤ人たちにこう言われます(『ヨハネによる福音書』において、「ユダヤ人」はイエスを信じない者たちの総称である)。新約の179ページです。第8章39節から47節までを読みます。

 彼らが答えて、「私たちの父はアブラハムです」と言うと、イエスは言われた。「アブラハムの子なら、アブラハムと同じ業をしているはずだ。ところが今、あなたがたは、神から聞いた真理をあなたがたに語っているこの私を殺そうとしている。アブラハムはそんなことはしなかった。あなたがたは、自分の父と同じ業をしている。」そこで彼らが、「私たちは淫らな行いによって生まれたのではありません。私たちにはただひとりの父がいます。それは神です」と言うと、イエスは言われた。「神があなたがたの父であれば、あなたがたは私を愛するはずである。なぜなら、私は神のもとから来て、ここにいるからだ。私は勝手に来たのではなく、神が私をお遣わしになったのである。私の言っていることが、なぜ分からないのか。それは、私の言葉を聞くことができないからだ。あなたがたは、悪魔である父から出た者であって、その父の欲望を満たしたいと思っている。悪魔は初めから人殺しであって、真理に立っていない。彼の内には真理がないからだ。悪魔が偽りを言うときは、その本性(ほんしょう)から言っている。自分が偽り者であり、偽りの父だからである。しかし、私が真理を語っているので、あなたがたは私を信じない。あなたがたのうち、一体誰が、私に罪があると責めることができるのか。私が真理を語っているのに、なぜ私を信じないのか。神から出た者は神の言葉を聞く。あなたがたが聞かないのは、神から出た者でないからである。」

 「あなたがたの父は誰か」「あなたがたは誰の子か」という論点から激しい議論が行われています。神の子であるイエス様を殺そうとするユダヤ人たちは、アブラハムの子でもなく、ましてや神の子でもなく、悪魔の子であると言われています。悪魔の内には真理がないので、悪魔の子であるユダヤ人たちは、イエス様が真理の言葉を語っているのに、イエス様を信じないのです。ユダヤ人たちは、イエス様が真理の言葉を語っているからこそ、イエス様を殺そうとするのです。

 さらに、イエス様は第15章18節から20節で弟子たちにこう言われます。新約の195ページです。

 「世があなたがたを憎むなら、あなたがたを憎む前に私を憎んだことを覚えておくがよい。もしあなたがたが世から出た者であるなら、世はあなたがたを自分のものとして愛するだろう。だが、あなたがたは世から出た者ではない。私があなたがたを世から選び出した。だから、世はあなたがたを憎むのである。『僕は主人にまさるものではない』と、私が言った言葉を思い出しなさい。人々が私を迫害したなら、あなたがたをも迫害するだろう。私の言葉を守ったのであれば、あなたがたの言葉をも守るだろう。

 悪魔が支配する世の人々は、イエス・キリストを憎んだように、その弟子である私たちをも憎みます。イエス・キリストの弟子である私たちは世から選び出された者であり、悪魔の子ではなく、神の子であるからです。私たちが、イエス・キリストの名によって迫害されるのは、神の子と悪魔の子との相容れいない対立があるからです。そして、この対立、敵意は、エデンの園において、神様によって置かれたものであるのです。『創世記』の第3章14節と15節を読みます。旧約の4ページです。

 神である主は、蛇に向かって言われた。「このようなことをしたお前は/あらゆる家畜、あらゆる野の獣の中で/最も呪われる。お前ははいずり回り/生涯にわたって塵を食べることになる。お前と女、お前の子孫と女の子孫との間に/私は敵意を置く。彼はお前の頭を砕き、お前は彼のかかとを砕く。」

 蛇、その背後にいる悪魔の頭を打ち砕く女の子孫こそ、聖霊によっておとめマリアからお生まれになった神の御子イエス・キリストです。イエス・キリストは十字架において、悪魔の頭を砕いて、決定的な勝利を収めました(ヘブライ2:14「ご自分の死によって、死の力を持つ者、つまり悪魔を無力にし」参照)。それゆえ、イエス・キリストは、『ヨハネによる福音書』の第16章33節でこう言います。新約の197ページです。

 「これらのことを話したのは、あなたがたが私によって平和を得るためである。あなたがたには世で苦難がある。しかし、勇気を出しなさい。私はすでに世に勝っている。」

 十字架の死から復活されて、今も生きておられるイエス・キリストは、「あなたがたには世で苦難がある。しかし、勇気を出しなさい。私はすでに世に勝っている」と言われます。それゆえ、私たちはイエス・キリストの御言葉と聖霊に導かれて、まっすぐな道を歩んでいきたいと願います。

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