父なる神のための祈り 2025年11月23日(日曜 朝の礼拝)

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父なる神のための祈り

日付
説教
村田寿和 牧師
聖書
ルカによる福音書 11章1節~4節

聖句のアイコン聖書の言葉

11:1 イエスはある所で祈っておられた。祈りが終わると、弟子の一人がイエスに、「主よ、ヨハネが弟子たちに教えたように、私たちにも祈りを教えてください」と言った。
11:2 そこで、イエスは言われた。「祈るときには、こう言いなさい。/『父よ/御名が聖とされますように。/御国が来ますように。
11:3 私たちに日ごとの糧を毎日お与えください。
11:4 私たちの罪をお赦しください。/私たちも自分に負い目のある人を/皆赦しますから。/私たちを試みに遭わせないでください。』」ルカによる福音書 11章1節~4節

原稿のアイコンメッセージ

 先程は『ルカによる福音書』の第11章1節から4節までを読みました。このところは内容が豊かですので、2回に分けて学びたいと思います。今朝は、1節と2節を中心にして、御言葉の恵みにあずかりたいと願います。

 イエス様は、ある所で祈っていました。祈りが終わると、弟子の一人がイエス様にこう言います。「主よ、ヨハネが弟子たちに教えたように、私たちにも祈りを教えてください」。「ヨハネ」とは、荒れ野で悔い改めの洗礼を宣べ伝えた洗礼者ヨハネのことです。洗礼者ヨハネは、その弟子たちに祈りを教えていたようです。そのヨハネと同じように、「主よ、私たちにも祈りを教えてください」と願うのです。主イエスの弟子として何を祈ればよいのかを教えてくださいと願ったのです。そこで、イエス様はこう言われます。「祈るときには、こう言いなさい。『父よ/御名が聖とされますように。御国が来ますように。私たちに日毎の糧を毎日お与えください。私たちの罪をお赦しください。私たちも自分に負い目のある人を/皆赦しますから。私たちを試みに遭わせないでください。』」

 ここでイエス様が弟子たちに教えられたのは、私たちが礼拝の中で祈っている「主の祈り」です。「主の祈り」とは「主イエスの祈り」であり、「主イエスが弟子たちに教えられた祈り」であるのです。「主の祈り」が「主イエスの祈りである」という視点は大切であると思います。主イエスは、毎日、主の祈りを祈って、この地上の生涯を歩まれたのです。主イエスは、御自分の祈りを、弟子である私たちに教えてくださったのです。

 イエス様は、神様を「父よ」と呼びかけるように言います。第10章21節で、イエス様は聖霊によって喜びに溢れてこう言われました。「天地の主である父よ、あなたをほめたたえます。これらのことを知恵ある者や賢い者に隠して、幼子たちにお示しになりました。そうです、父よ、これは御心に適うことでした」。イエス様は、神の御子として、天地の主である神を「父」と呼びました。そして、御自分の弟子である私たちにも、天地の主である神を「父」と呼ぶようにと教えられるのです。それは、イエス・キリストの弟子である私たちも、神の子とされているからです。その神の恵みを前提にして、イエス様は、弟子たちに、「父よ」と呼びかけるように言うのです。これは、まことに畏れ多いこと、光栄なことであります。私たちは、イエス・キリストにあって、天地の主である神を父と呼ぶことができる神の子とされているのです。しかも、私たちは、尊敬と愛と信頼をもって、「父よ」と呼ぶことができるのです。この点について、使徒パウロは、『ガラテヤの信徒への手紙』の第4章6節と7節で次のように記しています。「あなたがたが子であるゆえに、神は『アッバ、父よ』と呼び求める御子の霊を、私たちの心に送ってくださったのです。ですから、あなたはもはや奴隷ではなく、子です。子であれば、神による相続人でもあるのです」。「アッバ」とは、イエス様が話されたアラム語で、幼い子供が全幅の信頼をもって父親を呼ぶときの言葉です。イエス様は、尊敬と愛と信頼をもって「アッバ、父よ」と祈られました(マルコ14:36参照)。その御子イエスの霊が、私たちにも与えられているので、私たちも尊敬と愛と信頼をもって、「アッバ、父よ」「天の父なる神様」と祈ることができるのです。

 イエス様は、弟子である私たちに、「『御名が聖とされますように』と祈りなさい」と言います。「御名」とは「あなたの名」「父なる神の名」のことです。また、「聖」とは「神の絶対的な尊厳を現す表現で、人間を含むあらゆる被造物との隔たり」を意味します。ですから、「御名が聖とされますように」とは、「父なる神の御名が唯一まことの生ける神として崇められますように」という祈りであるのです(新共同訳「御名が崇められますように」参照)。イエス様は、父なる神に、「あなたの御名が聖とされますように」と祈りました。父なる神に、「父なる神の御名を聖としてください」と願うのは、おかしいと思うかも知れません。しかし、旧約の『エゼキエル書』を読むと、神様ご自身が、「私の名を聖なるものとする」と言われています。聖書を開いて確認します。旧約の1337ページです。ちなみに、エゼキエルは、バビロンに連れて来られた捕囚の民に、主の言葉を語った預言者です。第36章16節から27節まで読みます。

 主の言葉が私に臨んだ。「人の子よ、イスラエルの家は自分の土地に住んでいたとき、その歩みと行いによってこれを汚した。彼らの歩みは私の前に、月経中の女の汚れのようであった。そこで私は、彼らが地の上に注いだ血のゆえに、わが憤りを彼らに注いだ。彼らは偶像によってこの地を汚した。私は彼らを諸国民の中に散らし、彼らは国々に追い散らされた。私は彼らをその歩みと行いに応じて裁いた。彼らは諸国民のところに行き、そこでわが聖なる名を汚した。人々は彼らについて、『これは主の民だ。しかし彼らは主の地から去らねばならなかった』と言った。そこで私は、イスラエルの家が行った先の諸国民の間で汚したわが聖なる名を惜しんだ。

 それゆえ、イスラエルの家に言いなさい。主なる神はこう言われる。イスラエルの家よ、私が行うのはあなたがたのためではなく、あなたがたが行った先の諸国民の中で汚した私の聖なる名のためである。私は、あなたがたが諸国民の中で汚したために、汚されてしまった私の大いなる名を聖なるものとする。私が彼らの目の前で、あなたがたの内に私が聖なる者であることを示すとき、諸国民は私が主であることを知るようになるーー主なる神の仰せ。私は諸国民の中からあなたがたを連れ出し、全地から集め、あなたがたの土地に導き入れる。私があなたがたの上に清い水を振りかけると、あなたがたは清められる。私はあなたがたを、すべての汚れとすべての偶像から清める。あなたがたに新しい心を与え、あなたがたの内に新しい霊を授ける。あなたがたの肉体から石の心を取り除き、肉の心を与える。私の霊をあなたがたの内に授け、私の掟に従って歩ませ、私の法を守り行わせる。

 ここには、主なる神が、ご自分の聖なる名に、並々ならぬ情熱を持っていることが記されています。23節に、「私は、あなたがたが諸国民の中で汚したために、汚れてしまった私の大いなる名を聖なるものとする」とあるように、神様がご自分の名を聖とされるのです。そのために、神様はご自分の民であるイスラエルを、約束の地カナンへと再び導き入れるのです。神様は、ご自分の民イスラエルをバビロン捕囚から解放して、カナンの地に導き入れることによって、ご自分がまことの神、主であることを示されるのです。さらには、ご自分の民イスラエルに、清い水を振りかけ、すべての汚れとすべての偶像から清めるのです。また、ご自分の民イスラエルに、神の霊を授けて、神の掟に従って歩む者とするのです(エレミヤ書31章の「新しい契約」も参照)。このことは、神様が遣わされたイエス・キリストにおいて、私たちの内に実現していることですね。私たちは、洗礼の水によって清められ、聖霊を与えられて、神の掟に従って歩む者とされています。私たちがそのような者とされているのは、私たちを通して、とりわけ私たちがイエス・キリストの御名によってささげる礼拝を通して、神の御名が聖とされるためであるのです。父なる神の御名を聖とするのは、父なる神ご自身ですが、そのために、神様はイエス・キリストの弟子である私たちをお用いになるのです。私たちがイエス・キリストの名によってささげる礼拝において、父なる神の御名は崇められ、聖とされるのです。また、「御名が聖とされますように」という祈りは、すべての人の舌によって、父なる神の御名がほめたたえられることを願う、終末論的な祈りです。使徒パウロは、『フィリピの信徒への手紙』の第2章で、いわゆるキリスト賛歌を記しています。そこには、神がイエス・キリストを高く上げたのは、「イエスの御名によって/天上のもの、地上のもの、地下のものすべてが膝をかがめ/すべての舌が『イエス・キリストは主である』と告白して、父なる神が崇められるためです」と記されています(フィリピ2:10、11)。すべての舌が「イエス・キリストは主である」と告白して、父なる神が崇められるとき、「御名が聖とされますように」という願いが完全に実現するのです。

 今朝の御言葉に戻ります。新約の126ページです。

 続けて、イエス様は、弟子である私たちに、「『御国が来ますように』と祈りなさい」と言います。「御国」とは「あなたの王国」「あなたの王的支配」のことです。イエス様は、御自分がメシアであり、その御自分において神の国が到来したことを宣べ伝えました。『マルコによる福音書』によれば、イエス様のガリラヤ宣教の第一声は、「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて、福音を信じなさい」でした(マルコ1:15)。イエス様において、神の王国、神の王的な支配は到来したのです。しかし、イエス様は、「父なる神の王国が来ますように」と祈られたのです。ですから、ここでイエス様が「来ますように」と祈っている「父なる神の王国」とは、父なる神の王的な支配が完全に行われる義の宿る新しい天と新しい地のことであるのです(二ペトロ3:13、黙示21章、22章参照)。「御国が来ますように」という祈りは、栄光の主イエス・キリストの再臨と最後の審判によって完成する神の国を求める、終末論的な祈りであるのです。「父なる神の御名が聖とされますように。父なる神の王国が来ますように」という祈りは、どちらも世の終わりに完全に実現する終末論的な祈りです。そのような終末論的な祈りを祈りつつ、私たちは、御名をほめたたえ、御心に従って歩んでいるのです。『マタイによる福音書』の第6章にも、「主の祈り」が記されていますが、そこでは、「御国が来ますように」という願いに続けて、「御心が行われますように/天におけるように地の上にも」という願いが記されています(マタイ6:10)。これは優れた注釈ですね。なぜなら、父なる神の王国とは、父なる神の御意志が行われるところであるからです。私たちが父なる神の御意志を行って生きるところに、父なる神の王国は到来しているのです。私たちは父なる神の王国に生きながら、父なる神の王国の完成を祈り求めているのです。

 この説教のはじめに、「主の祈りは、主イエスの祈りである」と申しました。イエス様は全身全霊で神を愛するゆえに、父なる神の御名が聖とされること、父なる神の国が来ることを、毎日祈られたのです。そして、ここに、イエス様が父なる神の御心に従い抜くことができた秘訣があるのです。イエス様は、「父なる神の御名が聖とされますように。父なる神の王国が来ますように」と願う者として、十字架の死に至るまで、父なる神の御心に従うことができたのです。そのことを今朝は確認して終わりたいと思います。『マルコによる福音書』の第14章32節から42節までを読みます。新約の91ページです。

 一同がゲツセマネという所に来ると、イエスは弟子たちに、「私が祈っている間、ここに座っていなさい」と言われた。そして、ペトロ、ヤコブ、ヨハネを伴われたが、イエスはひどく苦しみ悩み始め、彼らに言われた。「私は死ぬほど苦しい。ここを離れず、目を覚ましていなさい。」少し先に進んで地にひれ伏し、できることなら、この時を過ぎ去らせてくださるようにと祈り、こう言われた。「アッバ、父よ、あなたは何でもおできになります。この杯を私から取りのけてください。しかし、私の望みではなく、御心のままに。」それから、戻ってご覧になると、弟子たちが眠っていたので、ペトロに言われた。「シモン、眠っているのか。一時も目を覚ましていられなかったのか。誘惑に陥らぬよう、目を覚まして祈っていなさい。心ははやっても、肉体は弱い。」さらに、向こうへ行って、同じ言葉で祈られた。再び戻ってご覧になると、弟子たちは眠っていた。まぶたが重くなっていたのである。彼らは、イエスにどう言えばよいのか、分からなかった。イエスは三度目に戻って来て言われた。「まだ眠っているのか。休んでいるのか。もうよかろう。時が来た。人の子は罪人たちの手に渡される。立て、行こう。私を裏切る者が近づいて来た。」

 イエス様はゲツセマネの園で、「アッバ、父よ、あなたは何でもおできになります。この杯を私から取りのけてください。しかし、私の望みではなく、御心のままに」と三度祈りました。「この杯」とは、多くの人の罪を担って、その贖いとして、十字架の死を死ぬ定めのことです。イエス様は、十字架の死を死にたくなかったのです。しかし、イエス様は、「私の望みではなく、御心のままに」と祈りました。なぜ、イエス様は、「私の望みではなく、御心のままに」と祈ることができたのでしょうか?それは、イエス様が、「父よ、御名が聖とされますように、御国が来ますように」と祈る者であったからです。イエス様は、御自分の十字架の死によって、父なる神の御名が聖とされることを知っていました(ヨハネ12:28「父よ、御名の栄光を現わしてください」参照)。また、イエス様は御自分の十字架の死と復活によって父なる神の王国が樹立することを知っていました(マタイ28:18「私は天と地の一切の権能を授かっている」参照)。それゆえ、イエス様は、父なる神の御名を聖とするために、また、父なる神の王国を来たらせるために、十字架の死という杯を、父なる神の御手からお受けになったのです。

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