告白して罪から離れる者は憐れみを受ける 2025年11月19日(水曜 聖書と祈りの会)

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告白して罪から離れる者は憐れみを受ける

日付
説教
村田寿和 牧師
聖書
箴言 28章13節

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背きを隠す者が栄えることはなく/告白して罪から離れる者は憐れみを受ける。箴言 28章13節

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 今朝は、『箴言』の第28章13節を中心にしてお話しします。

 背きを隠す者が栄えることはなく/告白して罪から離れる者は憐れみを受ける。

 「背き」と訳されているヘブライ語のペシャは、「信頼関係を裏切ること」、「信頼関係を壊すこと」を意味します。『箴言』は、将来、王に仕える官僚になる若者に対する教えですから、ここでは王との信頼関係(主従関係)が前提になっています。王との信頼関係(主従関係)を壊してしまうことが背きであるのです。知恵の教師であるソロモンは、王に対する背きを隠す者が栄えることはない。王に告白して、罪から離れる者は憐れみを受けると言います。なぜなら、第25章2節にこう記されているからです。「事を隠すことは神の誉れ/事を極めることは王たる者の誉れ」。事を極める王の前に、背きを隠し通すことはできないのです。また、第20章28節にはこう記されています。「慈しみとまことが王位を保ち/王座は慈しみが支える」。王座は慈しみが支えるゆえに、告白し、罪から離れるならば赦していただけるのです(憐れみを受けるとは罪を赦していただくこと)。さらに、第16章13節にはこう記されています。「王の喜びは正しい唇。王は誠実に語る人を愛する」。王は背きを告白して、罪を捨てる誠実な家臣を愛するのです。同じことが、王たちの王である主なる神様にも言えます。それゆえ、神様に対して背きを隠す者は栄えることなく、告白して罪から離れる者は赦していただけるのです。このことは、ソロモンの父ダビデが『詩編』の第32編で記していることでもあります。旧約の847ページです。第32編全体を読みます。

 ダビデの詩。マスキール。幸いな者/背きの罪を赦され、罪を覆われた人。幸いな者/主に過ちをとがめられず、その霊に欺きのない人。私が沈黙していたときは/一日中呻き、骨も朽ち果てました。昼も夜も御手は私の上に重く/夏の暑さに気力も衰え果てました。私はあなたに罪を告げ/過ちを隠しませんでした。私は言いました。「私の背きを主に告白しよう」と。するとあなたは罪の過ちを/赦してくださいました。このゆえに、忠実な人は皆/時に応じてあなたに祈ります。荒ぶる大洪水もその人に及ぶことはありません。あなたこそ私の隠れ場。苦しみから私を守り/救いの盾で囲んでくださいます。私はあなたに悟りを与え/歩むべき道を示そう。あなたの上に目を注ぎ、諭しを与えよう。あなたがたは/分別のない馬やらばのようであってはならない。それらをくつわと手綱で御して/あなたに近づけないようにせよ。悪しき者には痛みが多い。主に信頼する人は慈しみに囲まれる。正しき人よ、主によって喜べ、喜び躍れ。心のまっすぐな人は皆、喜び歌え。

 11節の「正しき人」や「心のまっすぐな人」とは、主に背きの罪を告白して赦していただいた人のことです。主に背きの罪を赦していただいて、正しき人と認められた人、心のまっすぐな人と認めていただいた人のことです。そして、このような人の中に、イエス・キリストを信じた私たちも含まれているのです。そのことを、使徒パウロは『ローマの信徒への手紙』の第4章1節から8節で記しています。新約の273ページです。

 では、私たちがアブラハムを肉による先祖としていることについては、何と言うべきでしょう。もし、彼が行いによって義とされたのであれば、誇ってもよいが、神の前ではそれはできません。聖書は何と言っていますか。「アブラハムは神を信じた。それが、彼の義と認められた」とあります。ところで、働く者に対する報酬は恵みではなく、当然支払われるべきものと見なされます。しかし、不敬虔な者を義とされる方を信じる人は、働きがなくても、その信仰が義と認められます。同じようにダビデも、行いがなくても神に義と認められた人の幸いを、こう言っています。「不法を赦され、罪を覆われた人は幸いである。主に罪をとがめられない人は幸いである。」

 7節と8節は、ダビデの詩編、第32編1節と2節の引用です。ダビデが背きを主に告白すると、主は赦してくださいました。そこにはダビデの働きは何もありません。そこにあるのは、主は正しい御方であると同時に憐れみ深い御方であるというダビデの信仰であります。私たちが、イエス・キリストの御名によって、神様に背きを告白するとき、私たちは神様が正しい御方であると同時に憐れみ深い御方であるという信仰をもって背きを告白しているのです。私たちは神の正しさと憐れみ、神の義と愛を、イエス・キリストの十字架を通して知った者として、神様が背きの罪を赦してくださるとの信仰をもって、背きを告白することができるのです。神様は、イエス・キリストのゆえに、私たちのすべての罪を赦し、正しい者として受け入れてくださるのです。

 このことは、使徒ヨハネが、その第一の手紙で記していることでもあります。『ヨハネの手紙一』の第1章8節から第2章2節までを読みます。新約の429ページです。

 自分に罪がないと言うなら、自らを欺いており、真理は私たちの内にありません。私たちが自分の罪を告白するなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、あらゆる不正から清めてくださいます。罪を犯したことがないと言うなら、それは神を偽り者とすることであり、神の言葉は私たちの内にありません。私の子たちよ、これらのことを書くのは、あなたがたが罪を犯さないようになるためです。たとえ罪を犯しても、私たちには御父のもとに弁護者、正しい方、イエス・キリストがおられます。この方こそ、私たちの罪、いや、私たちの罪だけではなく、全世界のための罪の宥めの献げ物です。

 ヨハネは、「私たちが罪を告白するなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、あらゆる不正から清めてくださいます」と記します。「あらゆる不正から清めてくださる」とは、「罪から離れることができるようにしてくださる」と言うことです。このようにヨハネが断言できるのは、御父のもとに弁護者、正しい方、イエス・キリストがおられるからです。また、私たちにイエス・キリストの御言葉と聖霊が与えられているからです。神様は、イエス・キリストにある私たちの罪を赦してくださり、罪から清めてくださいます。それゆえ、私たちは、神様が罪を赦してくださり、罪から清めてくださることを信じて、イエス・キリストの御名によって罪を告白すべきであるのです。

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