明日のことを誇ってはならない 2025年11月12日(水曜 聖書と祈りの会)

問い合わせ

日本キリスト改革派 羽生栄光教会のホームページへ戻る

明日のことを誇ってはならない

日付
説教
村田寿和 牧師
聖書
箴言 27章1節

聖句のアイコン聖書の言葉

明日のことを誇ってはならない/一日のうちに何が起こるか知らないのだから。箴言 27章1節

原稿のアイコンメッセージ

 今朝は、『箴言』の第27章1節を中心にして御言葉の恵みにあずかりたいと願います。

 知恵の教師であるソロモンは、「明日のことを誇ってはならない/一日のうちに何が起こるかをあなたは知らないのだから」と言います。ソロモンが「一日のうちに何が起こるか知らないのだから」という「一日」とは、明日のことではなくて、今日のことです。今日一日のうちに何が起こるかも知らない私たちは、明日のことを誇ってはならないのです。このことは、イエス様が「愚かな金持ちのたとえ」で教えていることでもあります。『ルカによる福音書』の第12章13節から21節までを読みます。新約の130ページです。

 群衆の一人が言った。「先生、私に遺産を分けてくれるように兄弟に言ってください。」イエスはその人に言われた。「誰が私を、あなたがたの裁判官や調停人に任命したのか。」そして、群衆に向かって言われた。「あらゆる貪欲に気をつけ、用心しなさい。有り余るほどの物を持っていても、人の命は財産によらないからである。」そこで、イエスはたとえを話された。「ある金持ちの畑が豊作だった。金持ちは、『どうしよう。作物をしまっておく場所がない」と思い巡らし、やがて言った。『こうしよう。倉を壊し、もっと大きいのを建て、そこに穀物や蓄えを全部しまい込んで、自分の魂にこう言ってやるのだ。「魂よ、この先何年もの蓄えができたぞ。さあ安心して、食べて飲んで楽しめ。」しかし、神はその人に言われた。『愚かな者よ、今夜、お前の魂は取り上げられる。お前が用意したものは、一体、誰のものになるのか。』自分のために富を積んでも、神のために豊かにならない者はこのとおりだ。」

 この金持ちのどこが愚かであったのでしょうか。それは、今日のうちに何が起こるか知らないのに、明日のこと(将来のこと)を誇ったことにあります。さらに言えば、神様のことを忘れて、自分の蓄えた富によって、自分の将来の命を確保できると考えたところにあるのです。

 明日のことを誇ってはならない/一日のうちに何が起こるか知らないのだから。

 この箴言と同じ主旨のことを、主の僕ヤコブも教えています。『ヤコブの手紙』の第4章13節から17節までを読みます。新約の415ページです。

 さて、「今日か明日、これこれの町へ行って一年滞在し、商売をして一儲けしよう」と言う人たち、あなたがたは明日のことも、自分の命がどうなるかも知らないのです。あなたがたは、つかの間現れ、やがて消えてゆく霧にすぎません。むしろ、あなたがたは、「主の御心であれば、生きて、あのことやこのことをしよう」と言うべきです。ところが実際は、見栄を張り誇っています。そのような誇りはすべて悪です。だから、なすべき善を知りながら行わないなら、それはその人の罪です。

 ヤコブは、私たちが明日のことも、自分の命がどうなるかも知らないのだから、明日という一日を造り、私たちを生かしてくださる主の御心を求めて生きるべきであると言います。私たちは、「主の御心であれば、生きて、あのことやこのことをしよう」と言うべきであるのです。しかし、私たちは往々に、自分の誉れを求めて、自分に依り頼んでいるのです。そのような私たちの心を、ヤコブは箴言によってチクリと刺します。「なすべき善を知りながら行わないなら、それはその人の罪です」。このヤコブの箴言は、私たちが主の御心によって生かされている者として、主の御心に適う善を行って、今日という日を生きるようにと諭しているのです。

 明日のことを誇ってはならない/一日のうちに何が起こるか知らないのだから。

 この箴言とは主旨が少し違うかも知れませんが、イエス様の御言葉を読みたいと思います。『マタイによる福音書』の第6章25節から34節までを読みます。新約の10ページです。

 「だから、言っておく。自分の命のことで何を食べようか何を飲もうかと、また体のことで何を着ようかと思い煩うな。命は食べ物よりも大切であり、体は衣服よりも大切ではないか。空の鳥を見なさい。種も蒔かず、刈り入れもせず、倉に納めもしない。だが、あなたがたの天の父は鳥を養ってくださる。まして、あなたがたのうちの誰が、思い煩ったからといって、寿命を僅かでも延ばすことができようか。なぜ、衣服のことで思い煩うのか。野の花がどのように育つか、よく学びなさい。働きもせず、紡ぎもしない。しかし、言っておく。栄華を極めたソロモンでさえ、この花の一つほどにも着飾ってはいなかった。今日は生えていて、明日は炉に投げ込まれる野の草でさえ、神はこのように装ってくださる。まして、あなたがたにはなおさらのことではないか、信仰の薄い者たちよ。だから、あなたがたは、『何を食べようか』『何を飲もうか』『何を着ようか』と言って、思い煩ってはならない。それはみな、異邦人が切に求めているものだ。あなたがたの天の父は、これらのものがみな、あなたがたに必要なことをご存じである。まず神の国と神の義とを求めなさい。そうすれば、これらのものはみな添えて与えられる。だから、明日のことを思い煩ってはならない。明日のことは明日自らが思い煩う。その日の苦労は、その日だけで十分である。」

 知恵の教師であるソロモンは、「明日のことを誇ってはならない/一日のうちに何が起こるか知らないのだから」と言いました。そう言われれば、私たちは、心配になってしまいます。しかし、ソロモンにまさる知恵を持つイエス様は、「明日のことを思い煩ってはならない。明日のことは明日自らが思い煩う。その日の苦労はその日だけで十分である」と言われるのです。なぜ、明日のことを思い煩ってはならないのか。それは、私たちの天の父が、神の国と神の義を求めて生きる私たちに、生きるために必要なすべてのものを与えてくださるからです。ですから、イエス様は、「あなたがたは明日のことを思い煩わずに、今日という日に、神の国と神の義を求めて生きなさい」と言うのです。これは、言い換えれば、「主の祈り」に生きるということです。私たちは、「主の祈り」において、「天にまします我らの父よ」と呼びかけ、「御国が来ますように」「御心が天で行われるように、地でも行われますように」と祈ります。それは、神の国と神の義を求める祈りであります。その後で、「我らに必要な糧を今日も与えたまえ」「我らの罪を赦したまえ」と祈るのです。私たちは、イエス様の約束、「まず神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのものはみな添えて与えられる」という約束を信じて、イエス様から教えていただいた「主の祈り」を祈っているのです。イエス様は、「その日の苦労は、その日だけで十分である」と言われました。これは苦労して生きている私たちを労(いた)わってくださる御言葉です。考えてみると、私たちが生きることができるのは今日だけです。明日も明日になれば今日になります。その今日を、神の国と神の義を求めて精一杯生きるようにイエス様は私たちを諭しておられるのです。

関連する説教を探す関連する説教を探す