聖書の言葉 26:11 犬が自分の吐いたものに戻るように/愚かな者は自分の無知な行いを繰り返す。26:12 自分に知恵があると思い込む者を見たか/それよりも愚かな者のほうに希望がある。箴言 26章11節~12節 メッセージ 今朝は、『箴言』の第26章11節と12節より、御言葉の恵みにあずかりたいと願います。第26章1節から12節には、「愚かな者」についての箴言がまとめて記されています(ただし2節は除く)。「愚かな者」とは「知恵ある者」の反対の意味の言葉です。知恵ある者は、生活の中で起こる様々な問題を巧みに処理し、適切に行動する能力を持っています。しかし、愚かな者は、生活の中で起こる様々な問題を巧みに処理することができず、適切に行動する能力を欠けているのです。 11節を読みます。 犬が自分の吐いたものに戻るように 愚かな者は自分の無知な行いを繰り返す。 イスラエルにおいて、犬は汚れた動物と考えられていました。犬は腹に合わない物を口に入れて吐き出しても、何事もなかったようにそれを食べます。その犬のように、愚かな者は自分の無知な行いを繰り返すと、ソロモンは言うのです。経験から学ぶことをしないで無知な行いを繰り返すとき、私たちは愚かな者になっているのです。 「犬は自分の吐いたものに戻る」という箴言は、使徒ペトロがその第二の手紙で引用しています。新約の427ページです。第2章17節から22節までを読みます。 この者たち(偽教師たちと偽教師たちに惑わされた者たち)は、水のない泉、嵐に吹き払われる霧であって、彼らには深い闇が待ち受けています。彼らは空しい大言を吐いています。そして、迷いのうちに生活している人々から現に逃れようとしている人たちを、肉欲や放縦によって誘惑し、その人たちに自由を約束しながら、自らは滅びの奴隷になっています。人は、自分を打ち負かした者に隷属するものです。私たちの主、救い主イエス・キリストを深く知って世の汚れから逃れても、再びそれに巻き込まれて打ち負かされるなら、その人たちの後の状態は前よりも悪くなります。義の道を知りながら、伝えられた聖なる戒めに背くよりは、その道を知らなかったほうが、彼らにはまだよかったのです。彼らの身に起こっていることは、「犬は自分の吐いたものに戻る」とか、「豚は身を洗って、また泥の中を転がる」とかいう、ことわざのとおりです。 ここでペトロは、偽教師たちと偽教師たちに惑わされた者たちのうえに、「犬は自分の吐いたものに戻る」という箴言が実現していると記しています。偽教師たちと偽教師たちに惑わされた者たちは、主イエス・キリストを信じて、世の汚れた生活から逃れても、肉欲や放縦によって、再び世の汚れた生活へと戻っていくのです。そのようにして、彼らは、私たちの主、救い主イエス・キリストを深く知った経験をまるで無かったかのようにしてしまうのです。偽教師たちと偽教師たちに惑わされた者たちは、神の知恵であるイエス・キリストに留まらない愚かな者として、自分の無知な行い(肉欲や放縦に従う生活)を繰り返すのです。そうならないために、私たちは、救い主イエス・キリストの恵みと知識において成長していかなければならないのです(二ペトロ3:18参照)。 今朝の御言葉に戻ります。旧約の1010ページです。 12節を読みます。 自分に知恵があると思い込む者を見たか それよりも愚かな者のほうに希望がある。 第26章1節から12節には、「愚かな者」についての箴言がまとめて記されていますが、その最後の12節には、「愚かな者より望みのない者」が記されています。それは、「自分に知恵があると思い込む者」です。ソロモンは、これまで、愚かな者をけなす言葉を記してきました。しかし、最後に、その愚かな者よりも望みのない者がいる。それは自分に知恵があると思い込む者だと言うのです。なぜ、自分に知恵があると思い込む者よりも愚かな者に望みがあるのでしょうか?それは、自分に知恵があると思い込んでいる者は学ぼうとしないからです。使徒パウロは、このことを、神の知恵を知ろうとしないこの世の知恵ある者たちに当てはめています。『コリントの信徒への手紙一』の第1章18節から25節までを読みます。新約の295ページです。 十字架の言葉は、滅びゆく者には愚かなものですが、私たち救われる者には神の力です。それは、こう書いてあるからです。「私は知恵ある者の知恵を滅ぼし/悟りある者の悟りを退ける。」知恵ある者はどこにいる。学者はどこにいる。この世の論客はどこにいる。神は世の知恵を愚かなものにされたではありませんか。世は神の知恵を示されていながら、知恵によって神を認めるには至らなかったので、神は、宣教という愚かな手段によって信じる者を救おうと、お考えになりました。ユダヤ人はしるしを求め、ギリシア人は知恵を探しますが、私たちは十字架につけられたキリストを宣べ伝えます。すなわち、ユダヤ人にはつまずかせるもの、異邦人には愚かなものですが、ユダヤ人であろうがギリシア人であろうが、召された者には、神の力、神の知恵であるキリストを宣べ伝えているのです。なぜなら、神の愚かさは人よりも賢く、神の弱さは人よりも強いからです。 この世の知恵ある者たち、律法学者たちは、神の知恵であるイエス・キリストを受け入れませんでした。それは、彼らが自分に知恵があると思い込んでいたからです。しかし、愚かな者たち、自分が愚かであることを知っている者たちは、神の知恵であるイエス・キリストを受け入れたのです。それゆえ、パウロは、この世の知恵を誇るコリント信徒たちに、むしろ「愚かな者になりなさい」と言うのです。第3章18節から20節を読みます。新約の297ページです。 誰も自分を欺いてはなりません。あなたがたの誰かが、自分はこの世で知恵ある者だと考えているなら、知恵ある者となるために愚かな者になりなさい。この世の知恵は、神の前では愚かなものだからです。「神は知恵ある者を/その悪だくみによって捕らえる」と書いてあり、また、「主は知っておられる/知恵ある者の議論が空しいことを」とも書いてあります。 パウロは、「知恵ある者となるために愚かな者になりなさい。この世の知恵は、神の前では愚かなものだからです」と言います。私たちは神の知恵を得るために、愚かな者になるべきであるのです。それは言い換えれば、「自分に知恵があると思い込む者になってはならない」ということです。パウロが「愚かな者になりなさい」と言う「愚かな者」とは、「自分は神の御前に愚かな者であることを認めて、神の知恵を求める者」のことです。私たちは、神の御前に愚かな者であることを認めて、へりくだって、神の知恵であるイエス・キリストに学びたいと願います。 関連する説教を探す 2025年の水曜 聖書と祈りの会 『箴言』
今朝は、『箴言』の第26章11節と12節より、御言葉の恵みにあずかりたいと願います。第26章1節から12節には、「愚かな者」についての箴言がまとめて記されています(ただし2節は除く)。「愚かな者」とは「知恵ある者」の反対の意味の言葉です。知恵ある者は、生活の中で起こる様々な問題を巧みに処理し、適切に行動する能力を持っています。しかし、愚かな者は、生活の中で起こる様々な問題を巧みに処理することができず、適切に行動する能力を欠けているのです。
11節を読みます。
犬が自分の吐いたものに戻るように
愚かな者は自分の無知な行いを繰り返す。
イスラエルにおいて、犬は汚れた動物と考えられていました。犬は腹に合わない物を口に入れて吐き出しても、何事もなかったようにそれを食べます。その犬のように、愚かな者は自分の無知な行いを繰り返すと、ソロモンは言うのです。経験から学ぶことをしないで無知な行いを繰り返すとき、私たちは愚かな者になっているのです。
「犬は自分の吐いたものに戻る」という箴言は、使徒ペトロがその第二の手紙で引用しています。新約の427ページです。第2章17節から22節までを読みます。
この者たち(偽教師たちと偽教師たちに惑わされた者たち)は、水のない泉、嵐に吹き払われる霧であって、彼らには深い闇が待ち受けています。彼らは空しい大言を吐いています。そして、迷いのうちに生活している人々から現に逃れようとしている人たちを、肉欲や放縦によって誘惑し、その人たちに自由を約束しながら、自らは滅びの奴隷になっています。人は、自分を打ち負かした者に隷属するものです。私たちの主、救い主イエス・キリストを深く知って世の汚れから逃れても、再びそれに巻き込まれて打ち負かされるなら、その人たちの後の状態は前よりも悪くなります。義の道を知りながら、伝えられた聖なる戒めに背くよりは、その道を知らなかったほうが、彼らにはまだよかったのです。彼らの身に起こっていることは、「犬は自分の吐いたものに戻る」とか、「豚は身を洗って、また泥の中を転がる」とかいう、ことわざのとおりです。
ここでペトロは、偽教師たちと偽教師たちに惑わされた者たちのうえに、「犬は自分の吐いたものに戻る」という箴言が実現していると記しています。偽教師たちと偽教師たちに惑わされた者たちは、主イエス・キリストを信じて、世の汚れた生活から逃れても、肉欲や放縦によって、再び世の汚れた生活へと戻っていくのです。そのようにして、彼らは、私たちの主、救い主イエス・キリストを深く知った経験をまるで無かったかのようにしてしまうのです。偽教師たちと偽教師たちに惑わされた者たちは、神の知恵であるイエス・キリストに留まらない愚かな者として、自分の無知な行い(肉欲や放縦に従う生活)を繰り返すのです。そうならないために、私たちは、救い主イエス・キリストの恵みと知識において成長していかなければならないのです(二ペトロ3:18参照)。
今朝の御言葉に戻ります。旧約の1010ページです。
12節を読みます。
自分に知恵があると思い込む者を見たか
それよりも愚かな者のほうに希望がある。
第26章1節から12節には、「愚かな者」についての箴言がまとめて記されていますが、その最後の12節には、「愚かな者より望みのない者」が記されています。それは、「自分に知恵があると思い込む者」です。ソロモンは、これまで、愚かな者をけなす言葉を記してきました。しかし、最後に、その愚かな者よりも望みのない者がいる。それは自分に知恵があると思い込む者だと言うのです。なぜ、自分に知恵があると思い込む者よりも愚かな者に望みがあるのでしょうか?それは、自分に知恵があると思い込んでいる者は学ぼうとしないからです。使徒パウロは、このことを、神の知恵を知ろうとしないこの世の知恵ある者たちに当てはめています。『コリントの信徒への手紙一』の第1章18節から25節までを読みます。新約の295ページです。
十字架の言葉は、滅びゆく者には愚かなものですが、私たち救われる者には神の力です。それは、こう書いてあるからです。「私は知恵ある者の知恵を滅ぼし/悟りある者の悟りを退ける。」知恵ある者はどこにいる。学者はどこにいる。この世の論客はどこにいる。神は世の知恵を愚かなものにされたではありませんか。世は神の知恵を示されていながら、知恵によって神を認めるには至らなかったので、神は、宣教という愚かな手段によって信じる者を救おうと、お考えになりました。ユダヤ人はしるしを求め、ギリシア人は知恵を探しますが、私たちは十字架につけられたキリストを宣べ伝えます。すなわち、ユダヤ人にはつまずかせるもの、異邦人には愚かなものですが、ユダヤ人であろうがギリシア人であろうが、召された者には、神の力、神の知恵であるキリストを宣べ伝えているのです。なぜなら、神の愚かさは人よりも賢く、神の弱さは人よりも強いからです。
この世の知恵ある者たち、律法学者たちは、神の知恵であるイエス・キリストを受け入れませんでした。それは、彼らが自分に知恵があると思い込んでいたからです。しかし、愚かな者たち、自分が愚かであることを知っている者たちは、神の知恵であるイエス・キリストを受け入れたのです。それゆえ、パウロは、この世の知恵を誇るコリント信徒たちに、むしろ「愚かな者になりなさい」と言うのです。第3章18節から20節を読みます。新約の297ページです。
誰も自分を欺いてはなりません。あなたがたの誰かが、自分はこの世で知恵ある者だと考えているなら、知恵ある者となるために愚かな者になりなさい。この世の知恵は、神の前では愚かなものだからです。「神は知恵ある者を/その悪だくみによって捕らえる」と書いてあり、また、「主は知っておられる/知恵ある者の議論が空しいことを」とも書いてあります。
パウロは、「知恵ある者となるために愚かな者になりなさい。この世の知恵は、神の前では愚かなものだからです」と言います。私たちは神の知恵を得るために、愚かな者になるべきであるのです。それは言い換えれば、「自分に知恵があると思い込む者になってはならない」ということです。パウロが「愚かな者になりなさい」と言う「愚かな者」とは、「自分は神の御前に愚かな者であることを認めて、神の知恵を求める者」のことです。私たちは、神の御前に愚かな者であることを認めて、へりくだって、神の知恵であるイエス・キリストに学びたいと願います。