聖霊によって喜ぶイエス 2025年10月19日(日曜 朝の礼拝)
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聖霊によって喜ぶイエス
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- 村田寿和 牧師
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ルカによる福音書 10章21節~24節
聖書の言葉
10:21 その時、イエスは聖霊によって喜びに溢れて言われた。「天地の主である父よ、あなたをほめたたえます。これらのことを知恵ある者や賢い者に隠して、幼子たちにお示しになりました。そうです、父よ、これは御心に適うことでした。
10:22 すべてのことは、父から私に任せられています。父のほかに、子が誰であるかを知る者はなく、子と、子が示そうと思う者のほかに、父が誰であるかを知る者はいません。」
10:23 それから、イエスは弟子たちの方を振り向いて、彼らだけに言われた。「あなたがたの見ているものを見る目は幸いだ。
10:24 言っておくが、多くの預言者や王たちは、あなたがたが見ているものを見たかったが、見ることができず、あなたがたが聞いているものを聞きたかったが、聞けなかったのである。」ルカによる福音書 10章21節~24節
メッセージ
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今朝は、『ルカによる福音書』の第10章21節から24節より、御言葉の恵みにあずかりたいと願います。
前回、私たちは、72人が喜んで帰って来たことを学びました。72人は、「主よ、お名前を使うと、悪霊どもでさえ、私たちに服従します」と喜んでイエス様に報告しました。その72人にイエス様はこう言われます。「悪霊どもがあなたがたに服従するからといって、喜んではならない。むしろ、あなたがたの名が天に書き記されていることを喜びなさい」。ここに、キリストの弟子である私たちの根本的な喜びがあります。イエス・キリストを信じて洗礼を受けた私たちは、名が天に記されている者たちであるのです。このイエス様の御言葉の背景には旧約聖書の教え、「神のもとに命の書があり、その命の書に名が記されている者が救われる」という教えがあります。天に名が記されていることは、天国の住民台帳に名前が記されていることであり、私たちの本国が天にあることを意味しているのです。そのことをイエス様は「喜びなさい」と言うのです。今朝の御言葉はその続きとなります。
21節に「その時、イエスは聖霊によって喜びに溢れて言われた」とあります。「その時」とは、イエス様から遣わされた72人が喜んで帰って来た時です。イエス様は72人の宣教報告を聞いて、聖霊によって喜びに溢れました。ここで「聖霊によって」と記されていることに注意したいと思います。聖霊とは「聖なる神の霊」のことです。イエス様は、聖霊によっておとめマリアの胎に宿り、お生まれになりました。また、天から聖霊を注がれたイエス様の内には聖霊が留まっていました。その聖霊によって喜びに溢れたのです。イエス様は神の喜びに溢れたのです。それは、ご自分が遣わした72人の福音宣教によって、多くの人がイエス・キリストを信じて、神の国の祝福に生きる者となったからです。イエス様は72人に、「あなたがたの名が天に書き記されていることを喜びなさい」と言われましたが、そのことを誰よりも喜んでいるのはイエス様であるのです。
イエス様は聖霊によって喜びに溢れて、こう言います。「天地の主である父よ、あなたをほめたたえます。これらのことを知恵ある者や賢い者に隠して、幼子たちにお示しになりました。そうです、父よ、これは御心に適うことでした。すべてのことは、父から私に任せられています。父のほかに、子が誰であるかを知る者はなく、子と、子が示そうと思う者のほかに、父が誰であるかを知る者はいません」。
イエス様は聖霊による喜びから父なる神をほめたたえます。「天地の主である父よ、あなたをほめたたえます」とあるように、イエス様は「天地の主である神」を「父」と呼ぶのです。イエス様が洗礼者ヨハネから洗礼を受けて、祈っておられたとき、天が開け、聖霊が鳩のような姿で降り、「あなたは私の愛する子、私の心に適う者」という声が天から聞こえました(ルカ3:21、22)。神様はイエス様に対して、「あなたは私の愛する子だ」と言われたのです。その神様に対して、イエス様は「天地の主である父よ」と呼びかけるのです。神様とイエス様は、父と子という親密な愛の交わりに生きておられるのです。
続けてイエス様はこう言います。「これらのことを知恵ある者や賢い者に隠して、幼子たちにお示しになりました。そうです、父よ、これは御心に適うことでした」。「これらのこと」とは何でしょうか?これまでの文脈から推測すると、「イエス様が神のメシア(王)であり、イエス様において神の国(神の王国、神の王的支配)が到来していること」であると思います。イエス様が神のメシア(王)であり、イエス様において神の国が到来している。これらのことを、父なる神は、知恵ある者や賢い者に隠して、幼子たちにお示しになったのです。「知恵ある者や賢い者」とは、イエス様を受け入れない、イエス様を殺そうとする律法学者やファリサイ派の人々のことです。また、「幼子たち」とはイエス様を神のメシアであると信じて、神の国の祝福にあずかっている弟子たち(私たち)のことです。神様は聖書の預言を実現ために、メシアであるイエス様を遣わしてくださいました。そうであれば、聖書をよく学んでいる律法学者たちやファリサイ派の人々が誰よりも先にイエス様を受け入れてもよさそうなものです。しかし、実際はそうなりませんでした。イエス様を神のメシアとして受け入れたのは、幼子たち、素朴で無学な普通の人たちであったのです(使徒4:13参照)。例えば、イエス様が12人の中で重んじた三人、ペトロとヨハネとヤコブはガリラヤ湖の漁師であったのです。なぜ、こうなったのか?それは、天地の主である父が、これらのことを知恵ある者や賢い者に隠して、幼子たちにお示しになったからです。ここから教えられることは、これらのこと、イエス様が神のメシアであり、イエス様において神の国が到来していることを、人間は自分の力で知ることができないということです。人間がこれらのことを知るには、神様に示していただかなくてはならないということです。ナザレのイエスがメシアであり、そのイエスにおいて神の国が到来していることは、神の秘義(ミステーリオン)であって、神様に示していただかなければ知ることはできないのです。ですから、『マタイによる福音書』の第16章で、イエス様は、信仰を言い表したペトロにこう言われたのです。「バルヨナ・シモン、あなたは幸いだ。あなたにこのことを現わしたのは、人間ではなく、天におられる私の父である」。私たちが、イエス様を神の御子、罪人の救い主と信じることができたのは、イエス・キリストの父なる神が、そのことを私たちに示してくださったからであるのです。
イエス様は、父なる神が幼子たちにこれらのことを示されたのは、御心に適うことであったと言います。イエス様は御自分の弟子である私たちを見て、「御心に適うことであった」と喜んでいるのです。ところで、なぜ、神様は知恵ある者や賢い者にではなく、幼子たちに、これらのことを示されたのでしょうか?そのことについては、使徒パウロが、『コリントの信徒への手紙一』の第1章に記しています。新約の295ページです。第1章18節から31節までを読みます。
十字架の言葉は、滅びゆく者には愚かなものですが、私たち救われる者には神の力です。それは、こう書いてあるからです。「私は知恵のある者の知恵を滅ぼし/悟りある者の悟りを退ける。」知恵ある者はどこにいる。学者はどこにいる。この世の論客はどこにいる。神は世の知恵を愚かなものにされたではありませんか。世は神の知恵を示されていながら、知恵によって神を認めるには至らなかったので、神は、宣教という愚かな手段によって信じる者を救おうと、お考えになりました。ユダヤ人はしるしを求め、ギリシア人は知恵を探しますが、私たちは十字架につけられたキリストを宣べ伝えます。すなわち、ユダヤ人にはつまずかせるもの、異邦人には愚かなものですが、ユダヤ人であろうがギリシア人であろうが、召された者には、神の力、神の知恵であるキリストを宣べ伝えているのです。なぜなら、神の愚かさは人よりも賢く、神の弱さは人よりも強いからです。
きょうだいたち、あなたがたが召されたときのことを考えてみなさい。世の知恵ある者は多くはなく、有力な者や家柄のよい者も多くはいませんでした。ところが、神は知恵ある者を恥じ入らせるために、世の愚かな者を選び、強い者を恥じ入らせるために、世の弱い者を選ばれました。また、神は世の取るに足りない者や軽んじられている者を選ばれました。すなわち、力ある者を無力な者にするため、無に等しい者を選ばれたのです。それは、誰一人、神の前で誇ることがないようにするためです。あなたがたがキリスト・イエスにあるのは、神によるのです。キリストは、私たちにとって神の知恵となり、義と聖と贖いとなられたのです。「誇る者は主を誇れ」と書いてあるとおりになるためです。
ここに、神様が幼子たちに、これらのことを示した理由が記されています。なぜ、神様はこれらのことを知恵ある者や賢い者に隠して、幼子たちに示したのか。それは、誰一人、神の前で誇ることがないようにするためです。「誇る者は主を誇れ」と書いてあるとおりになるためです。自分がキリスト・イエスにあるのは、神の恵みによることを認めて、神様だけをほめたたえるためであるのです。
今朝の御言葉に戻ります。新約の124ページです。
22節で、イエス様はこう言われます。「すべてのことは、父から私に任せられています。父のほかに、子が誰であるかを知る者はなく、子と、子が示そうと思う者のほかに、父が誰であるかを知る者はいません」。「すべてのこと」とは何でしょうか?それは、これらのことを啓き示す、啓示の業のことです。このイエス様の御言葉の背景には、「父のことを知っているのはその子どもであり、子どものことを知っているのはその父である」という格言があります。私たちの本当の姿は家庭においてこそ現れるということですね。そのような格言を用いて、イエス様は父なる神と子なる神であるご自分との関係を教えてくださるのです。父なる神の他に、子なる神であるイエス様を知る者はいません。ですから、イエス様を神のメシアであると正しく告白した弟子たちは、父なる神によってそのことを示していただいたわけです。また、子なる神であるイエス様の他に、父が誰であるかを知る者はいません。人々は、イエス様の父がヨセフであると思っていたわけですが、イエス様の本当の父は神様であるのです(ルカ3:23、2:49参照)。ここで注意したいことは、イエス様が、「子と、子が示そうと思う者のほかに」と言っていることです。イエス様は、「子のほかに、父が誰であるかを知る者はいません」と言ったのではなくて、「子と、子が示そうと思う者のほかに、父が誰であるかを知る者はいません」と言ったのです。つまり、父なる神と子なる神との交わりは、子なる神であるイエス様にあって開かれた交わりであるということです。「子が示そうと思う者」とは、幼子たち、イエス様の弟子である私たちのことです。私たちは、神の御子イエス・キリストによって、天地の主である神を父として知る者とされたのです。ここでの「知る」は、知識を持っていることに留まりません。聖書において「知る」とは交わりの中で、人格的に知るということです。私たちは、御子イエス・キリストによって父なる神を示されて、父なる神の子とされ、父なる神との交わりに生きる者とされたのです。私たちは、父なる神によって、御子イエス・キリストを示されました。そして、御子イエス・キリストによって父なる神を示されたのです。そのようにして、私たちも聖霊による喜びにあずかって、父なる神をほめたたえているのです。
それから、イエス様は弟子たちの方を振り向いて、彼らだけにこう言います。「あなたがたの見ているものを見る目は幸いだ。言っておくが、多くの預言者たちや王たちは、あなたがたが見ているものを見たかったが、見ることができず、あなたがたが聞いているものを聞きたかったが、聞けなかったのである」。弟子たちが見ているもの、また、多くの預言者たちや王たちが見たかったのに、見ることができなかったものとは何でしょうか?それは、約束のメシアであるイエス様において、神の国が到来しているその光景です。「目の見えない人は見え、足の不自由な人は歩き、規定の病を患っている人は清められ、耳の聞こえない人は聞こえ、死者は生き返り、貧しい人は福音を告げ知らされている」、そのような光景です(ルカ7:22、23)。私たちは、イエス・キリストの名によって病を癒やすことができるわけではありません。福音書に記されている病の癒やしは、イエス・キリストにおいて神の国が到来したことを示すしるし(出来事啓示)であり、啓示の書物である聖書が完結してからは止んでいるのです(ウェストミンスター信仰告白1:1参照)。しかし、私たちは、イエス・キリストの名によってささげる礼拝において、神の国が到来していることを見ることができます。使徒パウロは、「神の国は…聖霊によって与えられる義と平和と喜びなのです」と記しました(ローマ14:17参照)。私たちは礼拝において、聖霊による義と平和と喜びが実現している様を見ることができるのです。また、私たちは礼拝において、イエス・キリストの福音を聞くことができるのです。それゆえ、イエス様は、今朝、私たちにも「あなたがたは幸いだ」と言ってくださるのです。