聖書の言葉 「私が悪に報いる」などと言うな。/主に望みを置け、主があなたを救ってくださる。箴言 20章22節 メッセージ 今朝は、『箴言』の第20章22節を中心にして、御言葉の恵みにあずかりたいと願います。 「私が悪に報いる」などと言うな。主に望みを置け、主があなたを救ってくださる。 知恵の教師であるソロモンは、「『私が悪に報いる』などと言うな」と言います。ソロモンは、私的な報復を禁じ、主に望みを置けと命じます。なぜなら、主は「復讐し、報いるのは私だ」と言われるからです。『申命記』の第32章19節から35節までを読みます。旧約の319ページです。 主はこれを御覧になり/息子や娘への怒りのゆえに/彼らを退けて、言われた。「私は顔を隠し/彼らがその後どうなるか、見届けよう。彼らは逆らう世代/真実のない子らだ。彼らは神ではないもので私の妬みを引き起こし/空しいもので私を怒らせた。そこで、私も民ではないもので彼らを妬ませ/愚かな国民で彼らを怒らせる。私の怒りで火は燃え上がり/陰府の底にまで燃え広がり/地とその実りをなめ尽くし/山々の基を焼き払う。私は彼らに向けて射尽くす。彼らは飢えて衰え/疫病と破壊は激しさを増す。私は獣の牙を/塵に這うものの毒と共に彼らに送る。外では剣が子を奪い/内では恐怖が/若い男と女、乳飲み子と白髪の者を共に襲う。私は考えた。彼らを切り刻み/人々から彼らの記憶を消し去ろうと。しかし私は敵が誇るのを恐れる。敵対する者が誤解して/『我々の手が勝ちを得たのだ。これはみな主がされたことではない』と言うことを。 実に、彼らは思慮のない国民/彼らには分別がない。彼らに知恵があれば悟り/自分たちの行く末を理解したであろう。もし、岩なる方が民を売らず/主が民を渡さなかったなら/どうして一人で千人を追い/二人で万人を敗走させたであろうか。彼らの岩は私たちの岩のようではない。敵もそのことを認めている。彼らのぶどうはソドムのぶどうの木から/ゴモラのぶどう畑から出たもの。彼らのぶどうは毒ぶどう。その房は苦い。彼らのぶどう酒は大蛇の毒/コブラの猛毒。これは私のもとに蓄えられ/私の倉に封じ込めてある。彼らが足を滑らせるとき/復讐し、報いるのは私だ。彼らの災いの日は近い。彼らの危機は速やかに来る。」 長く読みましたが、35節の前半に、「彼らが足を滑らせるとき/復讐し、報いるのは私だ」とあります。ここでの「彼ら」はイスラエルの民を苦しめる異邦の民たちです。イスラエルの神である主は、ご自分の民のために復讐し、報いてくださる御方であるのです。 使徒パウロは、『ローマの信徒への手紙』の第12章で、『申命記』の第32章35節の御言葉を引用して、自分で報復せずに、主に委ねよと記しています。新約の286ページです。第12章9節から21節までを読みます。 愛には偽りがあってはなりません。悪を退け、善に親しみ、兄弟愛をもって互いに深く愛し、互いに相手を尊敬し、怠らず励み、霊に燃えて、主に仕えなさい。希望をもって喜び、苦難に耐え、たゆまず祈り、聖なる者たちに必要なものを分かち、旅人をもてなすよう努めなさい。あなたがたを迫害する者を祝福しなさい。祝福するのであって、呪ってはなりません。喜ぶ者と共に喜び、泣く者と共に泣きなさい。互いに思いを一つにし、高ぶらず、身分の低い人々と交わりなさい。自分を賢い者と思ってはなりません。誰にも悪をもって悪に報いることなく、すべての人の前で善を行うよう心がけなさい。できれば、せめてあなたがたは、すべての人と平和に過ごしなさい。愛する人たち、自分で復讐せず、神の怒りに任せなさい。「『復讐は私のすること、私が報復する』と主は言われる」と書いてあります。「あなたの敵が飢えていたら食べさせ、渇いていたら飲ませよ。そうすれば、燃える炭火を彼の頭に積むことになる。」悪に負けることなく、善をもって悪に勝ちなさい。 19節で、パウロは、「愛する人たち、自分で復讐せず、神の怒りに任せなさい。『「復讐は私のすること、私が報復する」と主は言われる』と書いてあります」と記しています。ここでパウロは、『申命記』の第32章35節を引用していますが、述べていることは、今朝の御言葉、「『私が悪に報いる』などと言うな。主に望みを置け、主があなたを救ってくださる」とほぼ同じです。 今朝の御言葉に戻ります。旧約の1000ページです。 ソロモンが、「主に望みを置け、主があなたを救ってくださる」と言うとき、それは主の御名によって行われる裁判に訴えることを命じています。8節に、「王は裁きの座に着き/その目でどのような悪をもふるいにかける」とあるように、主が立てられた王によって裁判が行われていました。そのような公の裁きに望みを置くようにとソロモンは命じているのです。開きませんが、『申命記』の第1章で、モーセは、イスラエルの民の裁き人にこう言っています。「同胞の間に入ってよく聞きなさい。同胞とのことであれ、寄留者とのことであれ、それぞれの間を正しく裁きなさい。裁判において偏りがあってはならない。小さな者にも大きな者にも等しく耳を傾けなさい。裁きが神のものである以上、誰をも恐れてはならない」(申命1:16、17)。このように、イスラエルの民にとって、裁判は神のものであるのです。ですから、ソロモンが、「『私が悪に報いる』などと言うな。主に望みを置け、主があなたを救ってくださる」というとき、私的な報復を禁じると同時に、公の、神の名による裁きに委ねるようにと命じているのです。 私たちが、「主の裁き」と聞くと、世の終わりに、主イエス・キリストが天から再び来られるときに行われる裁きのことを思い起こすと思います。しかし、主は、地上の裁判制度を用いて、悪に復讐し、報いてくださるのです。もちろん、地上の裁判がいつも正しい裁きを下すとは限りません。しかし、それでも、主は、世の終わりに、必ず正しい裁きをしてくださるのです。そのような主に委ねて、私たちは他人の悪意に取り込まれることなく、平安に歩んでいきたいと願います。 関連する説教を探す 2025年の水曜 聖書と祈りの会 『箴言』
今朝は、『箴言』の第20章22節を中心にして、御言葉の恵みにあずかりたいと願います。
「私が悪に報いる」などと言うな。主に望みを置け、主があなたを救ってくださる。
知恵の教師であるソロモンは、「『私が悪に報いる』などと言うな」と言います。ソロモンは、私的な報復を禁じ、主に望みを置けと命じます。なぜなら、主は「復讐し、報いるのは私だ」と言われるからです。『申命記』の第32章19節から35節までを読みます。旧約の319ページです。
主はこれを御覧になり/息子や娘への怒りのゆえに/彼らを退けて、言われた。「私は顔を隠し/彼らがその後どうなるか、見届けよう。彼らは逆らう世代/真実のない子らだ。彼らは神ではないもので私の妬みを引き起こし/空しいもので私を怒らせた。そこで、私も民ではないもので彼らを妬ませ/愚かな国民で彼らを怒らせる。私の怒りで火は燃え上がり/陰府の底にまで燃え広がり/地とその実りをなめ尽くし/山々の基を焼き払う。私は彼らに向けて射尽くす。彼らは飢えて衰え/疫病と破壊は激しさを増す。私は獣の牙を/塵に這うものの毒と共に彼らに送る。外では剣が子を奪い/内では恐怖が/若い男と女、乳飲み子と白髪の者を共に襲う。私は考えた。彼らを切り刻み/人々から彼らの記憶を消し去ろうと。しかし私は敵が誇るのを恐れる。敵対する者が誤解して/『我々の手が勝ちを得たのだ。これはみな主がされたことではない』と言うことを。
実に、彼らは思慮のない国民/彼らには分別がない。彼らに知恵があれば悟り/自分たちの行く末を理解したであろう。もし、岩なる方が民を売らず/主が民を渡さなかったなら/どうして一人で千人を追い/二人で万人を敗走させたであろうか。彼らの岩は私たちの岩のようではない。敵もそのことを認めている。彼らのぶどうはソドムのぶどうの木から/ゴモラのぶどう畑から出たもの。彼らのぶどうは毒ぶどう。その房は苦い。彼らのぶどう酒は大蛇の毒/コブラの猛毒。これは私のもとに蓄えられ/私の倉に封じ込めてある。彼らが足を滑らせるとき/復讐し、報いるのは私だ。彼らの災いの日は近い。彼らの危機は速やかに来る。」
長く読みましたが、35節の前半に、「彼らが足を滑らせるとき/復讐し、報いるのは私だ」とあります。ここでの「彼ら」はイスラエルの民を苦しめる異邦の民たちです。イスラエルの神である主は、ご自分の民のために復讐し、報いてくださる御方であるのです。
使徒パウロは、『ローマの信徒への手紙』の第12章で、『申命記』の第32章35節の御言葉を引用して、自分で報復せずに、主に委ねよと記しています。新約の286ページです。第12章9節から21節までを読みます。
愛には偽りがあってはなりません。悪を退け、善に親しみ、兄弟愛をもって互いに深く愛し、互いに相手を尊敬し、怠らず励み、霊に燃えて、主に仕えなさい。希望をもって喜び、苦難に耐え、たゆまず祈り、聖なる者たちに必要なものを分かち、旅人をもてなすよう努めなさい。あなたがたを迫害する者を祝福しなさい。祝福するのであって、呪ってはなりません。喜ぶ者と共に喜び、泣く者と共に泣きなさい。互いに思いを一つにし、高ぶらず、身分の低い人々と交わりなさい。自分を賢い者と思ってはなりません。誰にも悪をもって悪に報いることなく、すべての人の前で善を行うよう心がけなさい。できれば、せめてあなたがたは、すべての人と平和に過ごしなさい。愛する人たち、自分で復讐せず、神の怒りに任せなさい。「『復讐は私のすること、私が報復する』と主は言われる」と書いてあります。「あなたの敵が飢えていたら食べさせ、渇いていたら飲ませよ。そうすれば、燃える炭火を彼の頭に積むことになる。」悪に負けることなく、善をもって悪に勝ちなさい。
19節で、パウロは、「愛する人たち、自分で復讐せず、神の怒りに任せなさい。『「復讐は私のすること、私が報復する」と主は言われる』と書いてあります」と記しています。ここでパウロは、『申命記』の第32章35節を引用していますが、述べていることは、今朝の御言葉、「『私が悪に報いる』などと言うな。主に望みを置け、主があなたを救ってくださる」とほぼ同じです。
今朝の御言葉に戻ります。旧約の1000ページです。
ソロモンが、「主に望みを置け、主があなたを救ってくださる」と言うとき、それは主の御名によって行われる裁判に訴えることを命じています。8節に、「王は裁きの座に着き/その目でどのような悪をもふるいにかける」とあるように、主が立てられた王によって裁判が行われていました。そのような公の裁きに望みを置くようにとソロモンは命じているのです。開きませんが、『申命記』の第1章で、モーセは、イスラエルの民の裁き人にこう言っています。「同胞の間に入ってよく聞きなさい。同胞とのことであれ、寄留者とのことであれ、それぞれの間を正しく裁きなさい。裁判において偏りがあってはならない。小さな者にも大きな者にも等しく耳を傾けなさい。裁きが神のものである以上、誰をも恐れてはならない」(申命1:16、17)。このように、イスラエルの民にとって、裁判は神のものであるのです。ですから、ソロモンが、「『私が悪に報いる』などと言うな。主に望みを置け、主があなたを救ってくださる」というとき、私的な報復を禁じると同時に、公の、神の名による裁きに委ねるようにと命じているのです。
私たちが、「主の裁き」と聞くと、世の終わりに、主イエス・キリストが天から再び来られるときに行われる裁きのことを思い起こすと思います。しかし、主は、地上の裁判制度を用いて、悪に復讐し、報いてくださるのです。もちろん、地上の裁判がいつも正しい裁きを下すとは限りません。しかし、それでも、主は、世の終わりに、必ず正しい裁きをしてくださるのです。そのような主に委ねて、私たちは他人の悪意に取り込まれることなく、平安に歩んでいきたいと願います。