弟子たちを叱るイエス 2025年9月07日(日曜 朝の礼拝)

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弟子たちを叱るイエス

日付
説教
村田寿和 牧師
聖書
ルカによる福音書 9章51節~56節

聖句のアイコン聖書の言葉

9:51 天に上げられる日が満ちたので、イエスはエルサレムに向かうことを決意された。
9:52 それで、先に使いの者たちをお遣わしになった。彼らは出かけて行って、イエスのために準備を整えようと、サマリア人の村に入った。
9:53 しかし、サマリア人はイエスを歓迎しなかった。イエスがエルサレムに向かって進んでおられたからである。
9:54 弟子のヤコブとヨハネはこれを見て言った。「主よ、お望みなら、天から火を下し、彼らを焼き滅ぼすように言いましょうか。」
9:55 イエスは振り向いて、二人をお叱りになった。
9:56 そして、一行は別の村に行った。ルカによる福音書 9章51節~56節

原稿のアイコンメッセージ

 今朝は、『ルカによる福音書』の第9章51節から56節より、御言葉の恵みにあずかりたいと願います。

 51節に、「天に上げられる日が満ちたので、イエスはエルサレムに向かうことを決意された」とあります。「天に上げられる日」とは、イエス様が長老、祭司長、律法学者たちから排斥されて殺され、三日目に復活させられて、天に上げられる日のことです。少し細かいことを申しますが、ここでの「日」は元の言葉ですと「日々」と複数形で記されています。神の御計画である、天に上げられる日々が満ちたので、イエス様はエルサレムに向かうことを決意されたのです。元の言葉を直訳すると、イエス様はエルサレムに向けて顔を固定されたのです。この51節から『ルカによる福音書』は新しい段階に入ります。イエス様は、第4章14節から始まったガリラヤ宣教を終えて、エルサレムへの旅を始められるのです。第9章51節から第19章27節までは、エルサレムへの旅であり、そこには、『ルカによる福音書』独自の物語や教えが記されています。そのことを念頭において、私たちは、今朝の御言葉を学びたいと思います。

 イエス様はエルサレムに向かうに先立って、使いの者たちをお遣わしになりました。使いの者たちは、イエス様のために準備を整えようと、サマリア人の村に入りました。しかし、サマリア人はイエス様を歓迎しませんでした。その理由を、福音書記者ルカは、「イエスがエルサレムに向かって進んでおられたからである」と記しています。イエス様と弟子たちはユダヤ人ですが、ユダヤ人とサマリア人は仲が良くありませんでした。『ヨハネによる福音書』の第4章に、イエス様とサマリアの女との対話が記されています。そこには、「ユダヤ人はサマリア人とは交際していなかったからである」と記されています(ヨハネ4:9)。サマリアは、北王国イスラエルの都でした。紀元前722年に、北王国イスラエルの都サマリアは、アッシリア帝国の軍隊によって陥落します。アッシリア帝国の占領政策は、その土地に住む上層階級の人々を他の土地へ連れて行き、他の土地から人々を連れて来て住まわせるという民族混合政策でした。ですから、イエス様の時代のサマリア人とは、サマリアに残されたイスラエルの人々と異邦人との間に生まれた者たちであったのです(列王下17:24「アッシリアの王は、バビロン、クト、アワ、ハマト、セファルワイムから人々を連れて来て、イスラエルの人々の代わりに、彼らをサマリア各地の町に住まわせた。そこで、彼らはサマリアを所有し、各地の町に住むことになった」参照)。また、サマリア人は主を畏れ敬いましたが、以前からのしきたりに従って、他の神々にも仕えていました(列王下17:41「これらの諸国民は主を畏れ敬ったが、自分たちの像にも仕えた。今日に至るまで、子や孫も、先祖が行ったように行っている」参照)。そのようなサマリア人と、ユダヤ人は交際しなかったのです。また、イエス様の時代、ユダヤ人とサマリア人の間には、礼拝すべき場所についての論争がありました。ユダヤ人は「礼拝すべき場所はエルサレムである」と主張していました。他方、サマリア人は「礼拝すべき場所はゲリジム山(やま)である」と主張していたのです(ヨハネ4:20「私どもの先祖はこの山で礼拝しましたが、あなたがたは、礼拝すべき場所はエルサレムにあると言っています」参照)。サマリア人は、聖書のはじめの5つの書物(創世記、出エジプト記、レビ記、民数記、申命記)をサマリア語に翻訳して、正典としていました。サマリア人たちは、『申命記』の第11章29節の御言葉、「あなたが入って所有する地に、あなたの神、主があなたを導き入れるとき、あなたの祝福をゲリジム山の上に、…置きなさい」を根拠に、ゲリジム山で礼拝をささげていたのです。それで、サマリア人たちは、イエス様がエルサレムへ向かって進んでおられることを知って、イエス様を歓迎しなかったのです(「歓迎しなかった」とは「受け入れなかった」ということである)。ユダヤ人にとって、サマリア人は異邦人も同然であり、その宗教も異端的でありました。ですから、ユダヤ人である使いの者たちが、進んでサマリア人の村に入ったとは考えられません。使いの者たちは、イエス様に命じられて、サマリア人の村に入ったのです。つまり、イエス様は、サマリア人の村でも、神の国の福音を宣べ伝えようとされたのです。しかし、サマリア人たちは、イエス様がエルサレムに向かって進んでいることを知り、歓迎しませんでした。それを見て、弟子のヤコブとヨハネはこう言います。「主よ、お望みなら、天から火を下し、彼らを焼き滅ぼすように言いましょうか」。かつてイエス様は、12人を遣わすに当たって、「あなたがたを受け入れない者がいれば、その町を出て行くとき、彼らに対する抗議のしるしに足の埃を払い落としなさい」と言われました。しかし、ヤコブとヨハネは、イエス様を受け入れないサマリア人に対して、「天からの火で焼き滅ぼしましょうか」と言うのです。このヤコブとヨハネの言葉の背景には、預言者エリヤが、自分を捕らえに来た50人隊を、天からの火で焼き滅ぼしたお話しがあります。『列王記下』の第1章を読みます。旧約の562ページです。2節から10節までを読みます。

 アハズヤはサマリアで、屋上の部屋の欄干から落ちてけがをしてしまった。そこで彼は使いの者に、「エクロンの神バアル・ゼブブのもとに行って、私のけがが治るかどうか伺って来なさい」と言って送り出した。

 この時、主の使いがティシュべ人エリヤにこう告げた。「すぐにサマリアの王の使いの者たちに会いに行き、言いなさい。『エクロンの神バアル・ゼブブのもとに伺いを立てに行くというのは、イスラエルには神がいないためなのか。それゆえ主はこう言われる。あなたは上ったその寝台から下りることはない。あなたは必ずや死ぬであろう。』」そこで、エリヤは出て行った。

 使いの者たちが戻って来たので、アハズヤが、「何だ、もう戻って来たのか」と言うと、彼らは言った。「ある者が私たちに会いに来て言いました。『あなたがたを送り出した王のもとに戻り、言いなさい。主はこう言われる。あなたはエクロンの神バアル・ゼブブに伺おうと人を送り出すが、それはイスラエルには神がいないためなのか。それゆえ、あなたは上ったその寝台から下りることはない。あなたは必ずや死ぬであろう。』」アハズヤは言った。「あなたがたに会いに来て、そのようなことを言った男はどんな様子だったか。」使いの者が、「毛衣をまとい、腰に皮帯を締めた人でした」と言うと、彼は、「それはティシュべ人エリヤだ」と答えた。

 アハズヤは、50人隊の長と部下50人をエリヤのもとに送り出した。隊長がエリヤのもとへ上って行くと、ちょうどエリヤは山の頂に座っていた。隊長が、「神の人、王が下りて来なさいと言われています」と言うと、エリヤはそれに答えて50人隊の長に告げた。「私が神の人であれば、天から火が降り、あなたと部下50人を焼き尽くすであろう。」すると、天からの火が降り、隊長と50人を焼き尽くした。

 ヤコブとヨハネは、このエリヤの記事を思い起こしながら、イエス様に、「主よ、お望みなら、天からの火を下し、彼らを焼き滅ぼすように言いましょうか」と言ったのです。

 今朝の御言葉に戻ります。新約の123ページです。

 「主よ、お望みなら、天から火を下し、彼らを焼き滅ぼすように言いましょうか」。ヤコブとヨハネがこのように言ったのは、彼らが山の上で栄光に輝くイエス様と栄光に包まれたモーセとエリヤが話しているのを目撃したからであると思います。イエス様は、エリヤよりも優れた御方である。イエス様こそ、神の子であり、主の僕であり、イスラエルが聞き従うべき御方であるのです。そのイエス様を受け入れないサマリア人を、彼らは天からの火で焼き滅ぼしてはどうかと言うのです。

 ヤコブとヨハネは、イエス様を受け入れないサマリア人たちを敵と見なして、天から火を下して、彼らを焼き滅ぼしてはどうかと言います。しかも、そのことが主の御心に適うことであるかのように語るのです。このヤコブとヨハネの言葉は、第5章に記されていた規定の病(新共同訳では「重い皮膚病」と翻訳)を患っている人の言葉を思い起こさせます。規定の病を患っている人は、イエス様を見てひれ伏し、「主よ、お望みならば、私を清くすることがおできになります」と願いました。すると、イエス様は手を差し伸べてその人に触れ、「私は望む。清くなれ」と言われたのです。そして、たちまち規定の病は去ったのでした。しかし、今朝の御言葉では、イエス様は、決して、「私は望む」とは言いません。イエス様は、振り向いて、二人をお叱りになったのです。自分を受け入れないサマリア人たちを天からの火で焼き滅ぼすことは、主の望みでは決してないのです。もっと言えば、そのようなことは、イエス様の心に思い浮かびもしなかったと思います。しかし、ヤコブとヨハネは、イエス様が考えもしなかったことを、まるでイエス様が望まれるかのように語るのですね。しかも、イエス様の望みに反することを、イエス様の望みであるかのように語るのです。イエス様は、使いの者たちをサマリア人の村に遣わしました。それは、サマリア人にも神の国の福音を宣べ伝えるためであります。イエス様は、サマリア人を滅ぼすためにではなく、救うために来られたのです。

 ところで、ヤコブとヨハネは、この時、本当に、イエス様が望まれるなら、天からの火を下して、サマリア人を滅ぼすことができると考えていたのでしょうか。それとも、エリヤのお話しのパロディとして、冗談で言ったのでしょうか。弟子たちは、神のメシアであるイエス様が、イスラエルの民を、ローマ帝国の支配から解放してくださると信じていました。ですから、ヤコブとヨハネは、イエス様が望むならば、天からの火を下して、サマリア人を滅ぼすことができると考えていたと思います。天からの火とは、雷(いかづち)のことだと思いますが、天候を自由に操ることができれば、どんな軍隊にも勝利することができるわけです(サムエル上7:10「サムエルが焼き尽くすいけにえを献げている間にも、ペリシテ人はイスラエルに戦いを挑んできたが、主はこの日、ペリシテ人の上に激しい雷鳴をとどろかせ、混乱させたので、彼らはイスラエルに打ち負かされた」参照)。

 また、イエス様は、ヤコブとヨハネの言葉を聞き流すことなく、二人を真剣に叱られました。このことは、イエス様がお望みならば、天から火を下すことができることを教えています(マタイ26:53、54「私が父にお願いできないとでも思うのか。お願いすれば、父は12軍団以上の天使を今すぐ送ってくださるであろう。しかし、それでは、必ずこうなると書いてある聖書の言葉がどうして実現されよう」参照)。できるか、できないか、ということで言えば、イエス様は、天から火を下すことができます。しかし、問題は、イエス様がそのことを望まないということです。私たちは、イエス様が望まないことを、イエス様が望むかのようにすり替えてはならないのです。自分の望みを、イエス様の望みであるかのようにすり替えて、自分の望みを果たそうとすることを、イエス様は厳しく戒められたのです。

 イエス様一行は別の村に行きました。イエス様はご自分を歓迎しなかったサマリア人たちに怒りを燃やしたり、報復することはありませんでした。イエス様の救いの御計画には、依然として、サマリア人たちも含まれているのです。と言いますのも、復活されたイエス様は、『使徒言行録』の第1章8節で弟子たちにこう言われるからです。「あなたがたの上に聖霊が降ると、あなたがたは力を受ける。そして、エルサレム、ユダヤとサマリアの全土、さらに地の果てまで、私の証人となる」。イエス様は、サマリア人から歓迎されませんでした。しかし後(のち)に、弟子のフィリポが、サマリアで、イエス・キリストの福音を宣べ伝えることになるのです(使徒8章参照)。そのようにして、多くのサマリア人がイエス・キリストを信じて、神の救いにあずかる者となるのです。

 今朝は最後に、『使徒言行録』の第8章14節から17節までを読みます。新約の224ページです。

 エルサレムにいた使徒たちは、サマリアの人々が神の言葉を受け入れたと聞き、ペトロとヨハネをそこへ遣わした。二人は下って行って、聖霊を受けるようにその人々のために祈った。人々は主イエスの名によって洗礼を受けていただけで、聖霊はまだ誰の上にも降っていなかったからである。二人が人々の上に手を置くと、聖霊が降った。

 このようにして、ヨハネは、主イエス・キリストの望みが、サマリア人がイエス・キリストを信じて救われることであるとはっきり知ることになるのです。

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