誉れに先立つのは謙遜 2025年9月03日(水曜 聖書と祈りの会)

問い合わせ

日本キリスト改革派 羽生栄光教会のホームページへ戻る

誉れに先立つのは謙遜

日付
説教
村田寿和 牧師
聖書
箴言 18章12節

聖句のアイコン聖書の言葉

破滅に先立つ高慢/誉れに先立つ謙遜。箴言 18章12節

原稿のアイコンメッセージ

 今朝は、『箴言』の第18章12節を中心にしてお話しします。箴言の特徴は、二つの文を並べて一つの意味を表すパラレリズム、並行法です。並行法には、同じ意味の言葉を並べる同意並行法と、反対の意味の言葉を並べる反意並行法があります。12節は、「高慢」と「謙遜」という反対の意味の言葉を並べる反意並行法です。

 破滅に先立つ高慢/誉れに先立つ謙遜

 「高慢」とは「思い上がって人をあなどること」を意味します(広辞苑)。また、「謙遜」とは「控え目な態度で振る舞うこと。へりくだること」を意味します(広辞苑)。思い上がって人をあなどる人は破滅に至り、へりくだって、控え目な態度で振る舞う人は誉れに至るのです。そのように、ソロモンは、私たちに高慢な人にならないようにと戒め、謙遜な人になるようにと勧めているのです。今朝、私が12節を選んだのは、ここに初めの人アダムと最後のアダムであるイエス・キリストのことが記されていると思ったからです。「破滅に先立つ高慢/誉れに先立つ謙遜」。この真理を、イエス・キリストの使徒パウロは、『フィリピの信徒への手紙』の第2章で記しています。新約の354ページです。第2章1節から11節までを読みます。

 そこで、幾らかでも、キリストによる励まし、愛の慰め、霊の交わり、憐れみや慈しみの心があるなら、同じ思いとなり、同じ愛を抱き、心を合わせ、思いを一つにして、私の喜びを満たしてください。何事も利己心や虚栄心からするのではなく、へりくだって、互いに相手を自分よりも優れた者と考えなさい。めいめい、自分のことだけではなく、他人のことにも注意を払いなさい。互いにこのことを心がけなさい。それはキリスト・イエスにも見られるものです。キリストは神の形でありながら/神と等しくあることに固執しようとは思わず/かえって自分を無にして/僕の形をとり/人間と同じ者になられました。人間の姿で現れ/へりくだって、死に至るまで/それも十字架の死に至るまで/従順でした。このため、神はキリストを高く上げ/あらゆる名にまさる名を/お与えになりました。それは、イエスの御名によって/天上のもの、地上のもの、地下のものすべてが/膝をかがめ/すべての舌が「イエス・キリストは主である」と告白して/父なる神が崇められるためです。

 6節から11節までのいわゆる「キリスト賛歌」は、アダムとキリストとを比較して読むときに、よく分かると言われます。神のかたちに似せて造られた最初の人アダムは、神と等しくなることに固執して、神の言葉に背いて、禁じられていた善悪を知る木の実を食べてしまいました。そのような高慢によって、苦しみの多い人生と死という破滅に至ったのです。今朝の箴言に、「破滅に先立つのは高慢」とあるように、初めの人アダムは、「神のようになりたい」という高慢な心で禁じられていた木の実を食べ、破滅に至ったのです。

 他方、神の御子イエス・キリストは、神の形でありながら、神と等しくあることに固執しようとは思わず、かえって自分を無にして、僕の形をとり、人間と同じ者になられました。創造主である神の御子が、罪を別にして、私たちと同じ人となられた。私たちは、ここにキリストのへりくだりを見ることができます。さらに、キリストは、へりくだって、死に至るまで/それも十字架の死に至るまで従順でした。律法の制定者(授与者)である神の御子が、人としてお生まれになり、律法に従う義務を負ってくださいました。そして、私たちのキリスト、王として、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで、父なる神に従われたのです。キリストは、私たちに代わって神の掟を完全に守ってくださり、私たちに代わって十字架の死、律法違反者としての呪いの死を死んでくださいました(申命21:23「木に掛けられた者は、神に呪われた者だからである」参照)。ここに私たちはキリストのへりくだりの極致を見ることができます。そのようなキリストを神は高く上げ、あらゆる名にまさる名、「主」という名をお与えになりました。今朝の箴言に、「誉れに先立つのは謙遜」とあるように、十字架の死に至るまでへりくだったキリストは、誉れに至ることになるのです。

 神はへりくだったイエス・キリストを高く上げ、あらゆる名にまさる名、「主」という名をお与えになりました。その目的を、パウロは、10節と11節でこう記しています。「それは、イエスの御名によって/天上のもの、地上のもの、地下のものすべてが/膝をかがめ/すべての舌が『イエス・キリストは主である』と告白して/父なる神が崇められるためです」。「イエス・キリストは主である」と告白することは、父なる神を崇めることであるのです。なぜなら、父なる神が、十字架の死に至るまで従順であったイエス・キリストを復活させ、天へと上げられ、主という名を与えられたからです。そのようにして、父なる神は私たちを救ってくださいました。神様は、エデンの園において罪を犯したアダムと女に、蛇(悪魔)の頭を打ち砕く女の子孫の誕生を約束しました(創世3:15「お前と女、お前の子孫と女の子孫との間に/私は敵意を置く。彼はお前の頭を砕き、お前は彼のかかとを砕く」参照)。神様はその約束を、聖霊によっておとめマリアから生まれたイエス・キリストによって実現してくださったのです。

 私たちは「イエス・キリストは主である」と告白するとき、「誉れに先立つのは謙遜」という箴言を思い起こしたいと願います。

関連する説教を探す関連する説教を探す