心を精錬するのは主 2025年8月27日(水曜 聖書と祈りの会)

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心を精錬するのは主

日付
説教
村田寿和 牧師
聖書
箴言 17章3節

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17:3 銀の精錬にはるつぼ、金には炉/心を精錬するのは主。箴言 17章3節

原稿のアイコンメッセージ

 今朝は、『箴言』の第17章3節を中心にしてお話しします。箴言の特徴は、パラレリズム、並行法です。並行法とは、2つの文を並べて一つの意味を表す表現方法です。今朝の第17章3節は、同じ内容の文を並べる、同意並行法で記されています。

 銀の精錬にはるつぼ、金には炉/心を精錬するのは主。

 人は貴金属を高温で熱して不純物を取り除き、その純度を高めます。それと同じように、主は人を試練に遭わせることによって、その信仰をより純粋なものにしてくださいます。それゆえ、主の僕ヤコブは、「さまざまな試練に遭ったときは、この上ない喜びと思いなさい」と言うのです。新約の411ページです。『ヤコブの手紙』の第1章2節から4節までを読みます。

 私のきょうだいたち、さまざまな試練に遭ったときは、この上ない喜びと思いなさい。信仰が試されると忍耐が生まれることを、あなたがたは知っています。あくまでも忍耐しなさい。そうすれば、何一つ欠けたところのない、完全で申し分のない人になります。

 このように、私たちにとって試練は、主からの教育的な訓練であるのです。

 主がさまざまな試練によって、私たちの信仰を純粋なものにしてくださることは、使徒ペトロもその第一の手紙に記しています。新約の418ページです。『ペトロの手紙一』の第1章5節から7節までを読みます。

 あなたがたは、終わりの時に現されるように準備されている救いを受けるために、神の力により、信仰によって守られています。それゆえ、あなたがたは大いに喜んでいます。今しばらくの間、さまざまな試練に悩まなければならないかもしれませんが、あなたがたの信仰の試練は、火で精錬されながらも朽ちるほかない金よりはるかに尊く、イエス・キリストが現れるときに、称賛と栄光と誉れとをもたらすのです。

 ここでペトロは、小アジアのキリスト者たちの信仰が試練によって純粋なものとされ、イエス・キリストが現れるときには、称賛と栄光と誉れとをもたらすことになると記します。ペトロにとっても、試練は主からの教育的な訓練であるのです(宗教改革者であるマルチン・ルターは神学の方法として、祈り、瞑想、試練の三つを挙げている)。では、「あなたがたの信仰の試練」とは何でしょうか。それについては、第4章12節から14節に記されています。新約の423ページです。

 愛する人たち、あなたがたを試みるために降りかかる火のような試練を、何か思いがけないことが起こったかのように、驚き怪しんではなりません。かえって、キリストの苦しみにあずかればあずかるほど、喜びなさい。それは、キリストの栄光が現れるときにも、喜びに満ち溢れるためです。キリストの名のゆえに非難されるなら、あなたがたは幸いです。栄光の霊、すなわち、神の霊が、あなたがたの上にとどまってくださるからです。

 この手紙の受取人である小アジアのキリスト者たちが受けていた火のような試練とは、イエス・キリストの名のゆえの迫害でした。小アジアのキリスト者たちは、イエス・キリストの名のゆえに悪口を言われたり、社会的な不利益を被っていたのです。しかし、ペトロは、そのような試練を、「何か思いがけないことが起こったかのように驚き怪しんではなりません」と言います。なぜなら、私たちの主であるイエス・キリストが火のような試練をお受けになったお方であるからです。主イエス・キリストは、火のような試練を経て栄光に入られたのです。具体的に言えば、十字架の苦難の死を遂げて、三日目に栄光の体で復活させられ、天へとあげられたのです。それゆえ、主イエス・キリストの弟子である私たちが火のような試練を受けることは当然のことであり、喜ぶべきことであるのです。なぜなら、キリストの苦しみにあずかるほど、私たちはキリストの栄光にもあずかることができるからです。栄光の霊は、キリストの苦しみにあずかる私たちのうえにこそとどまってくださるのです。

 神の御子であるイエス・キリストが試練を受けたことを強調して教えているのは、『ヘブライ人への手紙』です。新約の396ページです。第4章14節と15節を読みます。

 さて、私たちには、もろもろの天を通って来られた偉大な大祭司、神の子イエスがおられるのですから、信仰の告白をしっかり保とうではありませんか。この大祭司は、私たちの弱さに同情できない方ではなく、罪は犯されなかったが、あらゆる点で同じように試練に遭われたのです。

 飛んで、第5章7節から10節までを読みます。

 キリストは、人として生きておられたとき、深く嘆き、涙を流しながら、自分を死から救うことのできる方に、祈りと願いとを献げ、その畏れ敬う態度のゆえに聞き入れられました。キリストは御子であるにもかかわらず、多くの苦しみを通して従順を学ばれました。そして、完全な者とされ、ご自分に従うすべての人々にとって、永遠の救いの源となり、神によって、メルキゼデクに連なる大祭司と呼ばれたのです。

 父なる神は、御子イエスをさまざまな試練に遭わせ、多くの苦しみによって従順を学ばせ、完全な者とされました。そして、父なる神は、イエス・キリストにあって神の子とされた私たちをも、さまざまな試練に遭わせ、多くの苦しみによって従順を学ばせ、完全な者としてくださるのです。第12章4節から7節前半までを読みます。新約の407ページです。

 あなたがたはまだ、罪と闘って、血を流すまで抵抗したことがありません。また、子に対するようにあなたがたに語られている次の勧告を忘れています。「わが子よ、主の鍛錬を軽んじてはいけない。主によって懲らしめられても/弱り果ててはならない。主は愛する者を鍛え/子として受け入れる者を皆/鞭打たれるからである。」あなたがたは鍛錬として耐え忍びなさい。神は、あなたがたを子として扱っておられるのです。

 このように、父なる神は、イエス・キリストにあって神の子とされた私たちを試練に遭わせ、鍛錬してくださるのです。そのようにして、父なる神は、私たちの信仰を、混じり気のない、純粋な信仰に精錬してくださるのです。二心ではない、一筋の心、全幅の信頼をもって「アッバ、父よ」と叫ぶ心にしてくださるのです。

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