分別の道を進み行け 2025年6月25日(水曜 聖書と祈りの会)
問い合わせ
分別の道を進み行け
- 日付
-
- 説教
- 村田寿和 牧師
- 聖書
箴言 9章1節~18節
聖書の言葉
9:1 知恵は自らの家を建て/七本の柱を刻んだ。
9:2 いけにえを屠り、ぶどう酒を調合し/さらに食卓を整え
9:3 若い娘たちを町の高き所に遣わして/呼びかけさせた。
9:4 「思慮なき者は誰でもこちらに来なさい。」/浅はかな者にはこう言った。
9:5 「来て私のパンを食べ/私が調合したぶどう酒を飲むがよい。
9:6 思慮のない業を捨て、生きよ。/分別の道を進み行け。」
9:7 嘲る者を諭す者は屈辱を受け/悪しき者を懲らしめる者は自ら傷を受ける。
9:8 嘲る者を懲らしめるな、彼に憎まれないために。/知恵ある人を叱れ、彼はあなたを愛するであろう。
9:9 知恵ある人に与えよ、彼は知恵をさらに得る。/正しき人に知らせよ、彼は判断力を加える。
9:10 主を畏れることは知恵の初め/聖なる方を知ることが分別。
9:11 私によって、あなたの日は増し/あなたの命の歳月は加わる。
9:12 知恵を得るなら、自分のために知恵を得よ。/嘲るならば/その責めを自分独りだけで負うことになる。
9:13 愚かな女は騒々しい。/未熟で、何も知らない。
9:14 家の扉のところに座り/町の高き所にも席を取り
9:15 道行く人に呼びかける/自分の進路をまっすぐ進む人に。
9:16 「思慮なき者は誰でもこちらに来なさい。」/浅はかな者にはこう言った
9:17 「盗んだ水は甘く/隠れて食べるパンはうまい。」
9:18 そこに死者の霊がいることを/彼女に誘われた者が陰府の深みにいることを/知る者はない。
箴言 9章1節~18節
メッセージ
関連する説教を探す
聖書と祈りの会では、「イスラエルの王、ダビデの子ソロモンの箴言」を読み進めています。今朝は、第9章1節から18節より、御言葉の恵みにあずかりたいと願います。
1節から6節までをお読みします。
知恵は自らの家を建て/七本の柱を刻んだ。いけにえを屠り、ぶどう酒を調合し/さらに食卓を整え/若い娘たちを町の高き所に遣わして/呼びかけさせた。「思慮なき者は誰でもこちらに来なさい。」浅はかな者にはこう言った。「来て私のパンを食べ/私が調合したぶどう酒を飲むがよい。思慮のない業を捨て、生きよ。分別の道を進み行け。」
ここでは知恵が擬人化されています。「知恵」と訳されるホクマーは女性名詞ですので、知恵は女性に例えられています。知恵は自らの家を建て、七本の柱を切り出しました。大きな立派な家を建てたわけです。知恵は、いけにえを屠り、ぶどう酒を調合し、食卓を整えました。肉と酒が並ぶ豪華な食卓を整えたのです。そして、若い女たちを高き所に遣わして、こう呼びかけさせました。「思慮なき者は誰でもこちらに来なさい。来て私のパンを食べ/私が調合したぶどう酒を飲むがよい。思慮のない業を捨て、生きよ。分別の道を進み行け」。この知恵の言葉は、今朝、私たちに対しても語られています。「思慮なき者は誰でもこちらに来なさい。来て私のパンを食べ、私が調合したぶどう酒を飲むがよい。思慮のない業を捨て、生きよ。分別の道を進み行け」と知恵は私たちに呼びかけているのです。
7節から9節までをお読みします。
嘲る者を諭す者は屈辱を受け/悪しき者を懲らしめる者は自ら傷を受ける。嘲る者を懲らしめるな、彼に憎まれないために。知恵ある人を叱れ、彼はあなたを愛するであろう。知恵ある人に与えよ、彼は知恵をさらに得る。正しき人に知らせよ、彼は判断力を加える。
ここには、教師に対する格言が記されています。教師は生徒(若者)に、「思慮のない業を捨て、生きよ。分別の道を進み行け」と諭すのですが、その諭しを受け入れる人と受け入れない人がいるわけです。つまり、知恵ある正しい人と嘲る悪しき人がいるのです。知恵ある正しい人を叱れば、その人はあなたを愛します。しかし、嘲る悪しき人を叱っても憎まれるだけであるのです。知恵ある人に与えるならば、彼は知恵をさらに得ますが、嘲る人を諭しても、屈辱を受け、傷つけられるだけであるのです。これと同じようなことを、イエス様も『マタイによる福音書』の第7章6節で言われています。新約の11ページです。
聖なるものを犬に与えてはならない。また、豚の前に真珠を投げてはならない。豚はそれを足で踏みつけ、犬は向き直って、あなたがたを引き裂くであろう。
ここでの「聖なるもの」とは「イエス・キリストの福音」のことです。私たちは、イエス・キリストの福音をすべての人に宣べ伝えるようにと命じられています。しかし、イエス・キリストの福音を伝えても、必ずしも喜んで受け入れてもらえるわけではありません。嘲られたり、傷つけられたりすることもあります。そのような人がいることを踏まえて、私たちは思慮深く、イエス・キリストの福音を宣べ伝えることが求められているのです。
今朝の御言葉に戻ります。旧約の985ページです。
10節から12節までをお読みします。
主を畏れることは知恵の初め/聖なる方を知ることが分別。私によって、あなたの日は増し/あなたの命の歳月は加わる。知恵を得るなら、自分のために知恵を得よ。嘲るならば/その責めを自分独りだけで負うことになる。
ここでは、知恵が何であり、分別が何であるかが簡潔に言い表されています。「主を畏れることは知恵の初め/聖なる方を知ることが分別」。このように、ソロモンが教える知恵と分別は、主を畏れること、主を知ることと一体的な関係にあるのです。11節に、「私によって、あなたの日は増し、あなたの命の歳月は加わる」とありますが、ここでの「私」とは、主を畏れることを初めとする「知恵」のことです。12節の「知恵」も同じです。ここで、ソロモンは、主を畏れることを初めとする知恵に対してどのような態度を取るかは、聞く人の責任であると言います。知恵の呼びかけを受け入れることもできれば、嘲って拒否することもできます。それは、聞く人の自由です。しかし、その自由には責任が伴うのです。知恵の呼びかけを嘲るならば、その責めは自分独りで負うことになるのです。このことは、福音宣教においても言えます。イエス・キリストの福音を聞いても、嘲って受け入れないなら、その責めは自分で負うことになるのです(ヨハネ8:24b「『私はある』ということを信じないならば、あなたがたは自分の罪のうちに死ぬことになる」参照)。
13節から18節までをお読みします。
愚かな女は騒々しい。未熟で、何も知らない。家の扉のところに座り/町の高き所にも席を取り/道行く人に呼びかける/自分の進路をまっすぐ進む人に。「思慮なき者は誰でもこちらに来なさい。」浅はかな者にはこう言った「盗んだ水は甘く/隠れて食べるパンはうまい。」そこに死者の霊がいることを/彼女に誘われた者が陰府の深みにいることを/知る者はない。
ここでは「愚かさ」が擬人法で、「愚かな女」と記されています。1節から6節に、「知恵の呼びかけ」が記されていましたが、それと対(つい)になるように、13節から18節には、「愚かな女の呼びかけ」が記されています。知恵が自ら家を建てるのに対して、愚かな女は騒々しく、未熟で何も知りません。それなのに、愚かな女は、知恵と同じ言葉で、道行く人に呼びかけるのです。知恵も、愚かな女も、「思慮なき者は誰でもこちらに来なさい」と呼びかけるのです。しかし、知恵が振る舞うのは、肉とぶどう酒であるのに対して、愚かな女が振る舞うのは、水とパンだけです。しかも、それは盗んだ水であり、隠れて食べるパンなのです。「盗んだ水は甘く/隠れて食べるパンはうまい」。そのような言葉で、愚かな女は、思慮なき者を罪へと誘惑します。そして、思慮なき者は、そこに死者の霊がいることを知らないのです。
知恵の呼びかけに応じるならば、命の歳月を加えることができます。しかし、愚かな女の呼びかけに応じるならば、陰府の深みにはまり込むことになります。知恵の呼びかけと愚かな女の呼びかけのどちらに応じるのか。その判断の規準となるのは、10節の御言葉です。「主を畏れることは知恵の初め/聖なる方を知ることが分別」。主を畏れて歩んでいるのであれば、私たちは知恵の呼びかけに応じていると言えます。しかし、主を畏れて歩んでいないならば、私たちは愚かな女の呼びかけに応じているのです。そして、どちらに応じるかの責任は、私たちそれぞれが自分独りで負うことになるのです。