神の聖定としての知恵 2025年6月11日(水曜 聖書と祈りの会)

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神の聖定としての知恵

日付
説教
村田寿和 牧師
聖書
箴言 8章22節~36節

聖句のアイコン聖書の言葉

8:22 主はその道の初めに私を造った/いにしえの御業の始まりとして。
8:23 とこしえより、私は立てられていた/太初より、地の始まりから。
8:24 まだ深淵もないとき/私は生み出されていた/大いなる原初の水の源もまだないときに。
8:25 山々もまだ据えられず、丘もないとき/私は生み出されていた。
8:26 神が、まだ地も野も/この世界の塵の先駆けさえも/造っていなかったとき
8:27 神が天を確かなものとしたとき/私はそこにいた。/神が深淵の上に蒼穹を定めたとき
8:28 神が上にある雲を固めたとき/深淵の源に勢いを与えたとき
8:29 この原初の海に境界を定め/水が岸を越えないようにして/地の基を定めたときに。
8:30 私は神の傍らで腕を振るう者となり/日々、神を喜ばせ/いつの時も御前に楽しむ者となった。
8:31 神の造られたこの地、この世界で楽しみ/人の子らを喜ばせた。
8:32 子らよ、今、聞け/幸いな者とは私の道を守る人。
8:33 諭しに聞き、知恵を得よ。/なおざりにしてはならない。
8:34 幸いな者とは私の言葉を聞く人/日々、私の戸口の傍らで番をし/扉の柱を守る人。
8:35 私を見いだす人は命を見いだし/主からの喜びにあずかる。
8:36 私を見失う者はその魂を損なう。/私を憎む者は皆、死を愛する。」箴言 8章22節~36節

原稿のアイコンメッセージ

 聖書と祈りの会では、「イスラエルの王、ダビデの子ソロモンの箴言」を学んでいます。今朝は、第8章22節から36節より、御言葉の恵みにあずかりたいと願います。

 以前学んだ第3章19節と20節にこう記されていました。「主は知恵によって地の基を据え/英知によって天を定められた。主の知識によって深淵は分かたれ/雲は露を滴らせる」。この御言葉は、主が知恵によって世界をお造りになったことを教えています。では、主と知恵とはどのような関係にあるのでしょうか。古代オリエントの世界において、知恵は女神であると考えられていました。しかし、イスラエルにおいて、主は唯一の神でありますから、知恵を女神と呼ぶことはありません。では、主と知恵とはどのような関係にあるのか。そのことが、今朝の御言葉に記されています。

 第8章22節から31節までをお読みします。

 「主はその道の初めに私を造った/いにしえの御業の始まりとして。とこしえより、私は立てられていた/太初より、地の始まりから。まだ深淵もないとき/私は生み出されていた/大いなる原初の水の源もまだないときに。山々もまだ据えられず、丘もないとき/私は生み出されていた。神が、まだ地も野も/この世界の塵の先駆けさえも/造っていなかったとき/神が天を確かなものとしたとき/私はそこにいた。神が深淵のうえに蒼穹を定めたとき/神が上にある雲を固めたとき/深淵の源に勢いを与えたとき/この原初の海に境界を定め/水が岸を越えないようにして/地の基を定められたときに。私は神の傍らで腕を振るう者となり/日々、神を喜ばせ/いつのときも御前に楽しむ者となった。神の造られたこの地、この世界で楽しみ/人の子らを喜ばせた。」

 主はその道の初めに知恵を造られました。遠い昔の御業の始まりとして主は知恵を造られたのです。主は永遠より、知恵を立てられました。神様が天地を造られる前から主はとこしえに知恵を立てられたのです。このように聞くと、私たちは、神の聖定のことを思い浮かべると思います。「ウェストミンスター小教理問答」の問7と問8には次のように記されています。

問7 神の聖定とは何ですか。

答 神の聖定とは、神の御意思の計らいによる永遠の計画です。これによって神は、御  

自身の栄光のために、起こってくることを何でもすべて、あらかじめ定めておられます。

問8 神はその聖定を、どのように遂行されますか。

答 神は、創造と摂理の御業において、その聖定を遂行されます。

 神は知恵によって世界を創造し、知恵によって世界を保ち、治めておられます。それは、知恵こそが、神の御意思の計らいによる永遠の計画である聖定でもあるからです。『創世記』の第1章を読むと、神が力ある御言葉によって、この世界を六つの日に渡ってお造りになったことが記されています。その背後には、神の永遠のご計画(聖定)があるのです。神の聖定は、創造と摂理の御業において遂行されたし、今も遂行されているのです。天地創造の前から生み出されていた知恵の存在は、創造と摂理の御業の前に、神の永遠のご計画(聖定)があったことを私たちに教えているのです。

 知恵は天地創造の前に神によって造られ、また生み出されていました。そして、知恵は神の傍らで腕を振るう者となったのです。知恵は神の創造の御業に参与したのです。知恵は日々、神を喜ばせ、いつの時も御前に楽しむ者となりました。神が知恵によって造られた世界は喜びと楽しみに溢れる世界であったのです(創世1:31「神は、造ったすべてのものを御覧になった。それは極めて良かった」、ヨブ38:7「夜明けの星々がこぞって歌い/神の子らが皆、喜び叫んだどきに」参照)。そして、今も知恵は人の子らを喜ばせているのです。神の傍らにあって世界を造られた知恵は、この世界を楽しみ、私たちにも喜びを与えてくれるのです。

 32節から36節までをお読みします。

 「子らよ、今、聞け/幸いな者とは私の道を守る人。諭しに聞き、知恵を得よ。なおざりにしてはならない。幸いな者とは私の言葉を聞く人/日々、私の戸口の傍らで番をし/扉の柱を守る人。私を見いだす人は命を見いだし/主からの喜びにあずかる。私を見失う者はその魂を損なう。私を憎む者は皆、死を愛する。」

 知恵は再び私たちに呼びかけます。知恵は、「幸いな者とは私の道を守る人。諭しに聞き、知恵を得よ」と言います。私たちは知恵を得ることをいい加減にしてはならず、むしろ知恵の言葉を聞こうと熱心になるべきであるのです。なぜなら、知恵を見いだす人は命を見いだし、主からの喜びにあずかることができるからです。ここでの知恵は、神の永遠のご計画(聖定)というよりも、イエス・キリストのことです(一コリント1:24「ユダヤ人であろうがギリシア人であろうが、召された者には、神の力、神の知恵であるキリストを宣べ伝えているのです」参照)。イエス・キリストという神の知恵を見いだす人は、命を見いだし、主からの喜びにあずかることができます。それは、すべての罪を赦され、正しい者、神の子とされた恵みを源とする喜びです。私たちは神の知恵であるイエス・キリストによって、永遠の命と喜びを与えられているのです。しかし、もし、私たちがイエス・キリストを見失ってしまうならば、私たちは永遠の命と喜びを失ってしまいます。それゆえ、イエス・キリストを憎むことは、死を愛することであるのです。

 今朝の御言葉、特に22節から31節は、キリスト教会にとって大切な箇所であります。なぜなら、ここに人となられる前のイエス・キリストのことが記されているからです。『ヨハネによる福音書』の第1章は、人となられる前のイエス・キリストのことを「言(ことば)」ロゴスと記しています。新約の160ページです。第1章1節から3節までをお読みします。

 初めに言(ことば)があった。言(ことば)は神と共にあった。言(ことば)は神であった。この言(ことば)は、初めに神と共にあった。万物は言(ことば)によって成った。言(ことば)によらず成ったものは何一つなかった。

 この使徒ヨハネの言葉の背後には、『箴言』の第8章の御言葉があるのです。

 また、『コロサイの信徒への手紙』の第1章にも、世界が御子によって造られたことが記されています。新約の360ページです。第1章15節から17節までをお読みします。

 御子は、見えない神のかたちであり/すべてのものが造られる前に/最初に生まれた方です。天にあるものも地にあるものも/見えるものも見えないものも/王座も主権も/支配も権威も/万物は御子において造られたからです。万物は御子によって、御子のために造られたのです。御子は万物より先におられ/万物は御子にあって成り立っています。

 この使徒パウロの言葉の背後にも、『箴言』の第8章の御言葉があります。「イエス・キリストは主である」「イエス・キリストは神の知恵である」という信仰をもって、使徒たちは、『箴言』の第8章を読み直しました。そして、使徒たちは、聖霊に導かれて、イエス・キリストこそ天地創造の前に神から生まれた御方であり、万物を造られた御方であると言い表したのです(旧約聖書続編の『シラ書』の第24章と『知恵の書』の第7章も参照)。

 神の聖定である知恵は、創造と摂理の御業によって遂行されます。そして、神の聖定の中でも救いの計画は、神の言(ことば)であり、御子であるイエス・キリストにおいて遂行されたのです。そして今も、神の救いの計画は、イエス・キリストの体である教会を通して遂行されているのです。

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