主を畏れるとは悪を憎むこと 2025年6月04日(水曜 聖書と祈りの会)
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主を畏れるとは悪を憎むこと
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- 説教
- 村田寿和 牧師
- 聖書
箴言 8章1節~21節
聖書の言葉
8:1 知恵は呼びかけていないか。/英知は声を上げていないか。
8:2 知恵は道沿いの高き所の頂に/また街道の四つ辻に立ち
8:3 町の玄関である門のそばで/入り口の扉で、喜び歌う。
8:4 「人よ、私はあなたがたに呼びかける。/人の子らに声を上げる。
8:5 思慮なき者よ、熟慮とは何かを見極めよ。/愚かな者よ、心を見極めよ。
8:6 聞け、私は唇を開いて語ろう/高貴なことを、公平なことを。
8:7 私の口はまことを唱える。/私の唇がいとうのは不正。
8:8 私の口の言葉はすべてが義であり/そこには曲がりもゆがみもない。
8:9 その言葉のすべては、分別ある人には正しく/知識を得た人にとってはまっすぐ。
8:10 銀ではなく、私の諭しを受け取れ/知識は金よりも望ましい。
8:11 知恵は真珠にまさり/どのような財宝も、これに並びえない。
8:12 私は知恵。熟慮と共にあり/知識と慎みを備えている。
8:13 主を畏れることは悪を憎むこと。/高ぶり、高慢、悪の道/そして偽りを語る口を、私は憎む。
8:14 助言と洞察は私にある。/私は分別。私には力もある。
8:15 私によって王はその職務をなし/君主は正しい掟を定める。
8:16 高官、自由な身分の人、正しい裁き人は皆/私によって治める。
8:17 私を愛する人を私も愛し/私を探し求める人を私も見いだす。
8:18 私のもとには富と誉れがあり/豊かな財産と正義もある。
8:19 私の与える実は金にも純金にもまさり/私のもたらす収穫は銀よりも望ましい。
8:20 正義の道筋を/公正の道の中を私は歩む。
8:21 私を愛する人に宝を継がせ/彼らの倉を満たす。箴言 8章1節~21節
メッセージ
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聖書と祈りの会では、「イスラエルの王、ダビデの子ソロモンの箴言」を学んでいます。今朝は、第8章1節から21節より、御言葉の恵みにあずかりたいと願います。
小見出しに「知恵の勧め(3)」とあるように、今朝の御言葉では、知恵そのものが声を上げて、呼びかけています。知恵の教師であるソロモンは、知恵を女性にたとえて、擬人法で記します(知恵と訳されるホクマーは女性名詞)。第7章で、よその女が闇の夜に、個人的に呼びかけるのとは違って、知恵は白昼堂々と街道の四つ辻などの公の場所で、すべての人に呼びかけます。4節から11節までをお読みします。
「人よ、私はあなたがたに呼びかける。人の子らに声を上げる。思慮なき者よ、熟慮とは何かを見極めよ。愚かな者よ、心を見極めよ。聞け、私は唇を開いて語ろう/高貴なことを、公平なことを。私の口はまことを唱える。私の唇がいとうのは不正。私の口の言葉はすべてが義であり/そこには曲がりもゆがみもない。その言葉のすべては、分別ある人には正しく/知識を得た人にとってはまっすぐ。銀ではなく、私の諭しを受け取れ/知識は金よりも望ましい。知恵は真珠にまさり/どのような財宝も、これに並びえない。」
知恵が語ることは、高貴なこと、公平なこと、まことであります。知恵の言葉は、すべて義であり、曲がりも歪みもないのです。知恵の言葉に耳を傾けるならば、思慮なき者も熟慮とは何かを見極め、愚かな者も心を見極めることができるようになります。また、知恵の言葉に耳を傾けるならば、分別ある人はいよいよ正しく、知識を得た人はいよいよまっすぐになるのです。それゆえ、知恵は、「銀ではなく、私の諭しを受け取れ、知識は金よりも望ましい」と言うのです。私たちはお金が欲しいのですが、知恵の諭しは、銀や金よりも価値があるのです。知恵は真珠にまさり、どのような財宝も、知恵に並びえないのです。
さらに、知恵はこう語ります。12節から21節までをお読みします。
「私は知恵。熟慮と共にあり/知識と慎みを備えている。主を畏れることは悪を憎むこと。高ぶり、高慢、悪の道/そして偽りを語る口を、私は憎む。助言と洞察は私にある。私は分別。私には力もある。私によって王はその職務をなし/君主は正しい掟を定める。高官、自由な身分の人、正しい裁き人は皆/私によって治める。私を愛する人を私も愛し/私を探し求める人を私も見いだす。私のもとには富と誉れがあり/豊かな財産と正義もある。私の与える実は金にも純金にもまさり/私のもたらす収穫は銀よりも望ましい。正義の道筋を/公正の道の中を私は歩む。私を愛する人に宝を継がせ/彼らの倉を満たす。」
ここで知恵は、自分がどのようなものであるかを語っています。知恵は熟慮と共にあり、知識と慎みを備えています。第1章7節に「主を畏れることは知識の初め」とありましたが、ここでは「主を畏れることは悪を憎むこと」と記されています。主を畏れる知恵は、高ぶりや悪の道や偽りを語る口を憎むのです。また、知恵は、「助言と洞察は私にある。私は分別。私には力もある」と言います。知恵は分別であり、力である。この知恵の働きによって、君主は正しい掟を定め、高官は正しく治めるのです。君主が法律を制定することや高官が国民を正しく治めることも、知恵の働きによるのです。このことは、ダビデ王においても言えます。『サムエル記下』の第14章に、ダビデ王とテコアの女との会話が記されています。ダビデの家臣であるヨアブは、アブシャロムをエルサレムに連れ戻すために、知恵で有名なテコアの女をダビデ王のもとに遣わしました。ヨアブはテコアの女に一芝居打たせるのです。けれども、ダビデ王はそのことを見抜いて、テコアの女にこう言いました。「あなたのしていることは、すべてヨアブの指示であろう」。すると、テコアの女は、そのことを認めたうえでこう言うのです。「王様は、神の使いのような知恵に満ち、地上に起こるすべてのことをご存じでいらっしゃいます」。このように、王様には特別な知恵が与えられていると考えられていたのです。このことは、『イザヤ書』の第11章に預言されているメシアにも言えますね。ここは聖書を開いて読みたいと思います。旧約の1062ページです。第11章1節から5節までをお読みします。
エッサイの株から一つの芽が萌え出で/その根から若枝が育ち/その上には主の霊がとどまる。知恵と分別の霊/思慮と勇気の霊/主を知り、畏れる霊。彼は主を畏れることを喜ぶ。その目の見えるところによって裁かず/その耳の聞くところによって判決を下さない。弱い者たちを正義によって裁き/地の苦しむ者たちのために公平な判決を下す。その口の杖によって地を打ち/その唇の息によって悪人を殺す。正義はその腰の帯となり/真実はその身の帯となる。
ここにはダビデの子孫からでるメシア(王)に知恵と分別の霊、思慮と勇気の霊、主を知り畏れる霊がとどまると記されています。また、ダビデの子孫から出るメシア(王)が正義によって裁き、公平な判決を下すことが記されています。このことは、一体的なことでありますね。来たるべきメシアが正義によって裁き、公平な判決を下すことができるのは、彼に知恵と分別の霊がとどまっているからであるのです。そして、このようなメシア、王こそ、イエス・キリストであるのです。
今朝の御言葉に戻ります。旧約の984ページです。
17節に、「私を愛する人を私も愛し/私を探し求める人を私も見い出す」とあります。
知恵を見い出すには、知恵を愛し、探し求めなくてはならないのです。ウェストミンスター小教理問答の問88の言葉を用いれば、私たちは恵みの外的な手段である、キリストの諸規定、特に御言葉と礼典と祈りを勤勉に用いるべきであるのです。
19節に、「私の与える実は金にもまさり/私のもたらす収穫は銀よりも望ましい」とあります。「知恵が与える実」の最たるものは、「イエス・キリストへの信仰」であります。イエス・キリストへの信仰は、私たちに罪の赦しと永遠の命をもたらします。それは金にもまさるものであるのです。また、「知恵のもたらす収穫」とは、聖霊がもたらす「愛、喜び、平和、寛容、親切、善意、誠実、柔和、節制」であると言えます(ガラテヤ5:22)。それは銀(お金)よりも望ましいものであるのです。知恵は、私たちキリスト者の信仰と生活において豊かに働いているのです。イエス・キリストは、私たちを御言葉と聖霊によって治め、導いておられます。イエス・キリストは知恵によって、私たちを治め、導いてくださっているのです。さらに、イエス・キリストは、私たち一人一人に、神の知恵である聖霊を与えてくださっているのです。主の僕ヤコブは、その手紙の第3章13節から18節で、次のように記しています。新約の414ページです。
あなたがたの中で、知恵があり分別があるのは誰ですか。その人は、知恵に適う柔和な行いを、良い生き方によって示しなさい。しかし、あなたがたが心の内に苦々しい妬みや利己心を抱いているなら、誇ったり、真理に逆らって嘘をついたりしてはなりません。そのような知恵は、上から降って来たものではなく、地上のもの、自然のもの、悪魔から出たものです。妬みや利己心のあるところには、無秩序とあらゆる悪い行いがあるのです。しかし、上からの知恵は、何よりもまず、清いもので、さらに、平和、公正、従順なものです。また、憐れみと良い実りに満ち、偏見も偽善もありません。義の実は、平和をもたらす人たちによって平和のうちに蒔かれます。
ここでの「上からの知恵」とは、イエス・キリストによって遣わされる聖霊のことです。イエス・キリストの弟子である私たちには、上からの知恵、聖霊が与えられています。私たちは知恵を与えられている者として、知恵に適った正しい道を歩んでいきたいと願います。