大きな愛でこたえる 2025年4月06日(日曜 朝の礼拝)

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大きな愛でこたえる

日付
説教
村田寿和 牧師
聖書
ルカによる福音書 7章36節~50節

聖句のアイコン聖書の言葉

7:36 さて、あるファリサイ派の人が、一緒に食事をしたいと願ったので、イエスはその家に入って食事の席に着かれた。
7:37 この町に一人の罪深い女がいた。イエスがファリサイ派の人の家で食事の席に着いておられるのを知り、香油の入った石膏の壺を持って来て、
7:38 背後に立ち、イエスの足元で泣きながらその足を涙でぬらし始め、自分の髪の毛で拭い、その足に接吻して香油を塗った。
7:39 イエスを招いたファリサイ派の人はこれを見て、「この人がもし預言者なら、自分に触れている女が誰で、どんな素性の者か分かるはずだ。罪深い女なのに」と思った。
7:40 そこで、イエスはその人に向かって、「シモン、あなたに言いたいことがある」と言われた。シモンは、「先生、お話しください」と言った。
7:41 「ある金貸しから、二人の人が金を借りていた。一人は五百デナリオン、もう一人は五十デナリオンである。
7:42 ところが、返すことができなかったので、金貸しは二人の借金を帳消しにしてやった。二人のうち、どちらが多くその金貸しを愛するだろうか。」
7:43 シモンは、「帳消しにしてもらった額の多いほうだと思います」と答えた。イエスは、「あなたの判断は正しい」と言われた。
7:44 そして、女の方を振り向いて、シモンに言われた。「この人を見ないか。私があなたの家に入ったとき、あなたは足を洗う水をくれなかったが、この人は涙で私の足をぬらし、髪の毛で拭ってくれた。
7:45 あなたは私に接吻してくれなかったが、この人は私が入ったときから、私の足に接吻してやまなかった。
7:46 あなたは頭に油を塗ってくれなかったが、この人は足に香油を塗ってくれた。
7:47 だから、言っておく。この人が多くの罪を赦されたことは、私に示した愛の大きさで分かる。赦されることの少ない者は、愛することも少ない。」
7:48 そして、イエスは女に、「あなたの罪は赦された」と言われた。
7:49 同席の人たちは、「罪まで赦すこの人は、一体何者だろう」と考え始めた。
7:50 イエスは女に言われた。「あなたの信仰があなたを救った。安心して行きなさい。」
ルカによる福音書 7章36節~50節

原稿のアイコンメッセージ

 今朝は、『ルカによる福音書』の第7章36節から50節より、御言葉の恵みにあずかりたいと願います。

 36節に、「さて、あるファリサイ派の人が、一緒に食事をしたいと願ったので、イエスはその家に入って食事の席に着かれた」とあります。「ファリサイ派の人」とは、神の掟である律法を熱心に守っていた人のことです。ファリサイ派の人は、律法を守らない人々、律法を守れない人々を罪人と呼んで蔑(さげす)んでいました。そのようなファリサイ派の人が、イエス様と一緒に食事をしたいと願ったのです。このファリサイ派の人の名前は、40節を見ると「シモン」と記されています。シモンは、イエス様と一緒に食事をし、親しい交わりを持つことによって、自分でイエス様のことを判断したいと願ったのだと思います。このシモンの願いに応じて、イエス様はシモンの家に入り、食事の席に着かれたのです。ここから分かることは、イエス様はファリサイ派の人々とも食卓を共にされたということです。「食事の席に着かれた」とありますが、元の言葉を見ると「横になった」と記されています。当時は、宴会などの席においては、横になって、左肘をついて上半身を起こし、足を投げ出して食事をしたのです。

 この町に一人の罪深い女がいました。女の罪が何であったのかは分かりませんが、この女は娼婦であったようです(当時の社会には女性の働きの場がなかった。ドストエフスキーの小説『罪と罰』のソーニャのように)。罪深い女は、イエス様がこの町に来ていて、今、シモンの家で食事をしていることを知りました。そして、この女は、香油の入った石膏の壺を持って来て、シモンの家に行ったのです。イエス様を迎えての食事ですから、自由に出入りができたようです。それで、この女はシモンの家に入り、イエス様の足元で泣きながらその足を涙でぬらし始め、自分の髪の毛で拭い、その足に接吻して香油を塗ったのです。これはとても激しい行為ですね。シモンの家にいた人々は、唖然としたのではないでしょうか。ファリサイ派の人(シモン)はこれを見て、「この人がもし預言者なら、自分に触れている女が誰で、どんな素性の者か分かるはずだ。罪深い女なのに」と思いました。しかし、イエス様は、その女がするままにしておきました。これによって、シモンは、イエス様は預言者ではないと判断したようです。「この人は、その女が罪深い女であることを見抜くことができずに、自分に触れさせている。よって、この人は預言者ではない」とシモンは思ったのです。しかし、イエス様はそのシモンの考えを見抜かれて、「シモン、あなたに言いたいことがある」と言われます。シモンは、「先生、お話ください」と言いました。そして、イエス様は、たとえ話をされるのです。「ある金貸しから、二人の人が金を借りていた。一人は五百デナリオン、もう一人は五十デナリオンである。ところが、返すことができなかったので、金貸しは二人の借金を帳消しにしてやった。二人のうち、どちらが多くその金貸しを愛するだろうか」。デナリオンはローマの銀貨で、1デナリオンは1日分の労働者の賃金でした(マタイ20:2参照)。仮に、1万円とすると、一人は500万円の借金を、もう一人は50万円の借金をしていたことになります。金貸しは、500万円の借金をしている人と50万円の借金をしている人、二人の借金を帳消しにしてやりました。ここで「帳消しにしてやった」と訳されている言葉(カリゾウマイ)は、「恵んでやった」とも訳すことができます。500万円の借金を帳消しにすることは、500万円を恵んでやったということです。また、50万円の借金を帳消しにすることは、50万円を恵んでやったということです。さて、この二人のうち、どちらが多くその金貸しを愛するだろうか。このイエス様の問いに対して、シモンは、「帳消しにしてもらった額の多いほうだと思います」と答えました。すると、イエス様は、「あなたの判断は正しい」と言われます。そして、イエス様は女の方を振り向いてシモンにこう言うのです。「この人を見ないか。私があなたの家に入ったとき、あなたは足を洗う水をくれなかったが、この人は涙で私の足をぬらし、髪の毛で拭ってくれた。あなたは私に接吻してくれなかったが、この人は私が入ったときから、私の足に接吻してやまなかった。あなたは頭に油を塗ってくれなかったが、この人は足に香油を塗ってくれた。だから、言っておく。この人が多くの罪を赦されたことは、私に示した愛の大きさで分かる。赦されることの少ない者は、愛することも少ない」。イエス様は、シモンに、「この人を見ないか」と言われました。イエス様は、先程のたとえ話を踏まえて、この人を見るように促すのです。つまり、この人を「罪人」としてではなく、「罪を赦された人」として見るように促すのです。シモンは、イエス様と一緒に食事をしたいと願い、イエス様を客として、自分の家に迎えました。しかし、シモンは、イエス様に、足を洗う水を出さなかったようです(創世18:4参照)。また、挨拶の接吻もしなかったようです(ローマ16:16参照)。また、頭に油を塗ることもしなかったようです(詩23:5参照)。それに対して、女は涙でイエス様の足を濡らし、髪の毛で拭いました。また、女はイエス様の足に何度も接吻しました。また、女はイエス様の足に高価な香油を塗ってくれたのです。それゆえ、イエス様は、こう言います。「この人が多くの罪を赦されたことは、私に示した愛の大きさで分かる」。イエス様の足を涙で濡らし、髪の毛で拭う。イエス様の足に何度も接吻する。イエス様の足に香油を塗る。この女の行為を、イエス様は「愛の行為」であると言われます。そして、女がイエス様に大きな愛を示したのは、この女がイエス様から多くの罪を赦されたからであると言われるのです。イエス様は、ファリサイ派の人々から、「大食漢で大酒飲みだ。徴税人や罪人の仲間だ」と言われていました(ルカ7:34)。このファリサイ派の人々の言葉を用いるならば、イエス様は「娼婦の仲間」でもあるのです。そのようなイエス様との交わりから、この女は罪の赦しをいただいたのです。ここで、先程の例え話の意味が明らかとなります。「金貸し」とは「イエス様」のことであり、「金を借りている」とは「罪を犯していること」であり、「借金を帳消しにしていただく」とは「罪を赦していただく」ことであるのです。この女はイエス様から500デナリオンの借金を帳消しにしていただいたゆえに、大きな愛を示したのです。

 イエス様は、「赦されることの少ない者は、愛することも少ない」と言われます。これはシモンに対する招きの言葉であると思います。「500デナリオンの借金を帳消しにしてもらった人と50デナリオンの借金を帳消しにしてもらった人、二人のうち、どちらが多くのその金貸しを愛するか」。このイエス様の問いに対して、シモンは、「帳消しにしてもらった額の多いほうだと思います」と正しい答えをしました。そして、イエス様から、多くの借金を帳消しにしていただいた人の愛の行為として、この女の振る舞いを見るようにと導かれました。そして、最後に、「赦されることの少ない者は、愛することも少ない」と言われたのです。この言葉を聞いて、シモンはどう思ったでしょうか。「なるほど、この女は500デナリオンの借金を帳消しにしてもらった人で、私は50デナリオンの借金を帳消しにしてもらった人であったか」と思ったでしょうか。私はそうは思わなかったと思います。シモンは、自分は1デナリオンも借金をしていないと思ったのではないかと思います。自分は、500デナリオンの借金をしている人でも、50デナリオンの借金をしている人でもない。自分に当てはまる人は、イエス様のたとえ話には出てこない。それゆえ、シモンは、イエス様に足を洗う水を出さなければ、挨拶の接吻もしないし、イエス様の頭に油を塗ることもしなかったのです。イエス様と一緒に食事をしながら、シモンは、イエス様から罪を赦していただいていることに気づいていないのです。そのようなシモンに対して、イエス様は、「赦されることの少ない者は、愛することも少ない」と言われるのです。繰り返しますが、これはシモンに対する招きの言葉です。「私を大きな愛で愛してみよ。そうすれば、自分が多くの罪を赦されていることが分かるはずだ」とイエス様は言うのです。

 今朝の説教題を「大きな愛でこたえる」とつけました。ここには、「イエス様によって多くの罪を赦された者として、大きな愛でこたえたい」という願いが込められています。では、私たちは具体的にはどうすればよいのでしょうか。その手がかりが、成人洗礼を受けたとき、あるいは信仰告白をしたとき、あるいは加入したときの六つの誓約にあります。六つの誓約の第五の誓約において、私たちは、最善をつくして教会の礼拝を守り、最善をつくして教会の活動に奉仕し、最善をつくして教会を維持することを約束したのです。私たちは、イエス様に多くの罪を赦された者として、大きな愛をもって、最善をつくして礼拝をささげ、最善をつくして教会の活動に奉仕し、最善をつくして教会を維持していきたいと願います。そのような最善をつくした教会生活の中で、自分が多くの罪を赦されていることを実感したいと願います。

 イエス様は女に「あなたの罪は赦された」と言われました。罪深い女に対して、イエス様は、罪の赦しを宣言されたのです。それは、イエス様がこの女に代わって神の掟を完全に守ってくださり、この女に代わって罪の刑罰としての十字架の死を死んでくださるからです。私たちも、主の日の礼拝ごとに、罪を告白し、イエス・キリストの御名によって、罪の赦しの宣言を受けます。それは、イエス・キリストが私たちに代わって神の掟を完全に守ってくださり、私たちに代わって罪の刑罰としての十字架の死を死んでくださったからであるのです。

 同席の人たちは、「罪まで赦すこの人は、一体何者だろう」と考え始めました。この答えは、第5章20節に記されています。そこでファリサイ派の人々はこう言いました。「神を冒涜するこの男は何者だ。罪を赦すことができるのは、ただ神だけだ」。「罪まで赦すこの人は、一体何者だろう」。その答えは、主なる神その方であるのです。イエス様は、女にこう言われます。「あなたの信仰があなたを救った。安心して行きなさい」。イエス・キリストの使徒パウロは、「人は律法の行いによってではなく、イエス・キリストへの信仰によって救われる」と教えました(ガラテヤ2:16参照)。このパウロの教えを「信仰義認」と言いますが、そのことが、イエス様の口から語られているのです。私たちが救われるのは、イエス様への信仰によるのです。イエス様は、「安心していきなさい」と言われます。元の言葉を直訳すると「平和の中に行きなさい」となります。私たちは信仰によって罪を赦された者として、神の平和(シャローム)の中を歩んでいくことができるのです。「安心して行きなさい」。これは礼拝の最後の「派遣と祝福」の出だしの言葉です。私たちは、イエス・キリストへの信仰によって罪を赦された者として、神の平和を携えて、それぞれの居場所へと遣わされていくのです。

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