心を尽くして主に信頼せよ 2025年4月02日(水曜 聖書と祈りの会)
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心を尽くして主に信頼せよ
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- 村田寿和 牧師
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箴言 3章1節~12節
聖書の言葉
3:1 子よ、私の教えを忘れず/私の戒めを心に保て。
3:2 あなたには長寿と命の歳月が与えられ/平和が増し加わる。
3:3 慈しみとまことがあなたを捨てることはない。/それらを首に結び、心の板に記しておけ。
3:4 あなたは神と人の前に/好意と良い成果を得る。
3:5 心を尽くして主に信頼し/自分の分別には頼るな。
3:6 どのような道を歩むときにも主を知れ。/主はあなたの道筋をまっすぐにしてくださる。
3:7 自分を知恵ある者などと思わず/主を畏れ、悪から離れよ。
3:8 それはあなたの体の癒やしとなり/あなたの骨の潤いとなる。
3:9 あなたの財産と/すべての収穫の初物を献げて主を敬え。
3:10 あなたの倉は穀物で満ち/搾り場は新しいぶどう酒で溢れるだろう。
3:11 子よ、主の諭しを拒むな。/主の懲らしめをいとうな。
3:12 子をいとおしむ父のように/主は愛する者を懲らしめる。箴言 3章1節~12節
メッセージ
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「聖書と祈りの会」では、「イスラエルの王、ダビデの子ソロモンの箴言」を学んでいます。今朝は、第3章1節から12節より、御言葉の恵みにあずかりたいと願います。
1節から4節までをお読みします。
子よ、私の教えを忘れず/私の戒めを心に保て。あなたには長寿と命の歳月が与えられ/平和が増し加わる。慈しみとまことがあなたを捨てることはない。それらを首に結び、心の板に記しておけ。あなたは神と人の前に/好意と良い成果を得る。
知恵の教師であるソロモンは、自分を父親の立場に置いて、生徒である私たちに「子よ」と呼びかけます。古代オリエントの知恵文学において、教師を父親に、生徒を子にたとえることがありました。それは、最初の教育の場が、家庭であったことに由来します。私たちは、幼子のような素直な心で、知恵の教師であるソロモンの言葉に耳を傾けたいと思います。「子よ、私の教えを忘れず/私の戒めを心に保て。あなたには長寿と命の歳月が与えられ/平和が増し加わる」。このソロモンの言葉は、私たちに十戒の第五戒を思い起こさせます。『出エジプト記』の第20章12節に、こう記されています。「あなたの父と母を敬いなさい。そうすればあなたは、あなたの神、主が与えてくださった土地で長く生きることができる」。父と母を敬って、その教えを忘れず、その戒めを心に保つならば、私たちは長寿と繁栄を手にすることができるのです。第五戒は、家庭での親から子への宗教教育を背景にしている戒めであるのです。
ソロモンは、「私の教えを忘れず、私の戒めを心に保つ」ならば、「慈しみとまことがあなたを捨てることはない」と言います。「慈しみ」(ヘセド)と「まこと」(エメト)は、神様の代表的なご性質です。『出エジプト記』の第34章で、主は、モーセの前を通り過ぎて、こう宣言されました。「主、主、憐れみ深く、恵みに満ちた神。怒るに遅く、慈しみとまことに富み/幾千代にわたって慈しみを守り/過ちと背きと罪を赦す方。しかし、罰せずにおくことは決してなく/父の罪を子や孫に/さらに、三代、四代までも問う方」。主は、「慈しみとまことに富む」御方であります。ですから、「慈しみとまことがあなたを捨てることはない」とは、「慈しみとまことに富む主が、あなたを捨てることはない」と言うことであるのです。また、ソロモンは、「私の教えと戒めを首に結び、心の板に記しておけ」と言います。これは「私の教えと戒めを身につけ、暗唱せよ」という意味です。私たちは、神の教えと戒めを心の板に書き記す、暗唱することが求められているのです。このことは、使徒パウロが『コロサイの信徒への手紙』の第3章16節で記していることでもあります。「キリストの言葉が、あなたがたの内に豊かに宿るようにしなさい」。私たちは、聖書を読むだけではなくて、聖書の御言葉を暗唱したいと思います(暗唱しないといざと言うときに力にならない)。聖書をいつも手元に置き、聖書の御言葉を暗唱して歩むとき、どのようなことが起こるのでしょうか。ソロモンは、「あなたは神と人の前に/好意と良い成果を得る」と言います。神の教えと戒めを首に結び、心の板に書き記して歩むとき、私たちは神と人から好意を得て、良い成果を得ることができるのです。
5節から10節までをお読みします。
心を尽くして主に信頼し/自分の分別には頼るな。どのような道を歩むときにも主を知れ。主はあなたの道筋をまっすぐにしてくださる。自分を知恵ある者などと思わず/主を畏れ、悪から離れよ。それはあなたの体の癒やしとなり/あなたの骨の潤いとなる。あなたの財産と/すべての収穫物を献げて主を敬え。あなたの倉は穀物で満ち/搾り場は新しいぶどう酒で溢れるだろう。
ソロモンは、「心を尽くして主に信頼し、自分の分別には頼るな」と言います。この御言葉は、自分の分別に頼りやすい私たちが心の板に記しておくべき御言葉であります。私たちはしばしば、主に信頼することなく、主のことを忘れてしまって、自分の分別に頼ってしまいます。しかし、私たちは心を尽くして主に信頼すべきであるのです。それは、「どのような道を歩むときにも主を知る」ということです。どのような状況であっても、主の教えを忘れず、主の戒めを心に保つということです。そのとき、主が、私たちの道筋をまっすぐにしてくださるのです。主の御言葉に聞き、主に祈って歩むとき、主は私たちの道筋をまっすぐにしてくださるのです(礼拝に出席しながら歩むとき、私たちの人生の道筋がまっすぐになる)。
ソロモンは、7節で、「自分を知恵ある者などと思わず/主を畏れ、悪から離れよ」と言います。これも、私たちが心の板に書き記すべき御言葉ですね。私たちは自分を知恵ある者だと思って、すぐに高ぶってしまいます。そして、主を侮ってしまうのです。しかし、ソロモンは、「自分を知恵ある者などと思わず/主を畏れ、悪から離れよ」と言うのです。「主を畏れ」る知恵は、私たちの体の健康を保ち、活力をも与えてくれます。主を畏れること、まことの神を信じることは、私たちの心と体を健やかに保ってくれるのです。
ソロモンは、「あなたの財産とすべての収穫の初物を献げて主を敬え」と言います。財産と収穫の初物を主に献げることは、その財産と収穫を与えてくださったのが主であることを表します。私たちは献金をささげることによって、自分が手にしているすべてものは主のものであることを表しているのです。私たちは献金をささげることによって、すべてのものが主からの頂き物であることを表し、主に栄光を帰しているのです。
またソロモンは、主の報いについて記します。「あなたの倉は穀物で満ち/搾り場は新しいぶどう酒で溢れるだろう」。このような主の報いを、使徒パウロも『フィリピの信徒への手紙』の第4章で記しています。新約の358ページです。第4章15節から20節までをお読みします。
フィリピの人たち、あなたがたも知っているとおり、私が福音の宣教の初めにマケドニアから出かけて行ったとき、会計を共にしてくれた教会は、あなたがたのほかに一つもありませんでした。テサロニケにいたときにも、あなたがたは私の窮乏を救おうとして、何度も物を送ってくれました。贈り物を当てにして言うわけではありません。むしろ、あなたがたの帳簿を黒字にする実りを求めているのです。私はあらゆるものを受けており、有り余るほどです。そちらからの贈り物をエパフロディトから受け取って、満ち足りています。それはかぐわしい香りであり、神が喜んで受け入れてくださるいけにえです。私の神は、ご自身の栄光の富に応じて、キリスト・イエスにあって、あなたがたに必要なものをすべて満たしてくださいます。私たちの父なる神に、栄光が世々限りなくありますように、アーメン。
パウロは19節で、「私の神は、ご自分の栄光の富に応じて、キリスト・イエスにあって、あなたがたに必要なものをすべて満たしてくださいます」と記しています。そのように神は、献金をささげる私たちに報いてくださるのです。初物の献げ物が神殿の祭司の働きを支えたように。また、フィリピの信徒たちの贈り物がパウロの働きを支えたように。私たちの献金は御言葉の教師の働きを支えるのです。それは、神が喜んで受けてくださるいけにえであります。そして、神は、ご自分の栄光の富に応じて、イエス・キリストにあって、私たちに必要なものをすべて満たしてくださるのです。
今朝の御言葉に戻ります。旧約の976ページです。
11節と12節をお読みします。
子よ、主の諭しを拒むな。主の懲らしめをいとうな。子をいとおしむ父のように/主は愛する者を懲らしめる。
主は私たちの父として、私たちを諭し、懲らしめられます。ここでの懲らしめには、「苦しみ」が含まれているようです。これまでソロモンは、主を畏れ、悪から離れるならば、体は健康になると語りました。また、収穫の初物を献げて主を敬うならば、倉が穀物で満ちると語りました。これは知恵の言葉であり、神の秩序に適った教えです。しかし、現実には必ずしもそのようにならないことがあるわけです。神を畏れて、悪から離れて生きても、病に苦しむこともあれば、貧しい暮らしを余儀なくされることもあるのです。そのような苦しみを、私たちはどのように受けとめたらよいのでしょうか。ソロモンは、「子をいとおしむ父のように/主は愛する者を懲らしめる」と言うのです。つまり、そのような苦しみは、父である神の教育的な配慮であり、訓練であるのです(ヘブライ12:4~11参照)。「子よ、主の諭しを拒むな。主の懲らしめをいとうな。子をいとおしむ父のように/主は愛する者を懲らしめる」。この御言葉を心の板に刻んで、私たちは、主に信頼する神の子として歩んでいきたいと願います。