神の知恵の正しさを証明する 2025年3月30日(日曜 朝の礼拝)
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神の知恵の正しさを証明する
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- 村田寿和 牧師
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ルカによる福音書 7章18節~35節
聖書の言葉
7:18 ヨハネの弟子たちは、これらのことをすべてヨハネに伝えた。そこで、ヨハネは弟子を二人呼んで、
7:19 主のもとに送り、「来るべき方は、あなたですか。それとも、ほかの方を待つべきでしょうか」と尋ねさせた。
7:20 二人はイエスのもとに来て言った。「私たちは洗礼者ヨハネからの使いの者ですが、『来るべき方は、あなたですか。それとも、ほかの方を待つべきでしょうか』とお尋ねするようにとのことです。」
7:21 その時、イエスは病気や苦しみや悪霊に悩んでいる大勢の人を癒やし、大勢の目の見えない人を見えるようにしておられた。
7:22 それで、こうお答えになった。「行って、見聞きしたことをヨハネに伝えなさい。目の見えない人は見え、足の不自由な人は歩き、規定の病を患っている人は清められ、耳の聞こえない人は聞こえ、死者は生き返り、貧しい人は福音を告げ知らされている。
7:23 私につまずかない人は幸いである。」
7:24 ヨハネの使いが去ってから、イエスは群衆に向かってヨハネについて話し始められた。「あなたがたは、何を見に荒れ野へ出て行ったのか。風にそよぐ葦か。
7:25 では、何を見に行ったのか。柔らかい衣をまとった人か。華やかな衣を着て、贅沢に暮らす人なら宮殿にいる。
7:26 では、何を見に行ったのか。預言者か。そうだ。言っておく。預言者以上の者である。
7:27 『見よ、私はあなたより先に使者を遣わす。/彼はあなたの前に道を整える』と書いてあるのは、この人のことだ。
7:28 言っておくが、およそ女から生まれた者のうち、ヨハネよりも偉大な者はいない。しかし、神の国で最も小さな者でも、彼よりは偉大である。
7:29 民衆は皆ヨハネの教えを聞き、徴税人さえもその洗礼(バプテスマ)を受け、神の正しさを認めた。
7:30 しかし、ファリサイ派の人々や律法の専門家たちは、彼から洗礼(バプテスマ)を受けないで、自分に対する神の御心を拒んだ。
7:31 今の時代の人たちは何にたとえたらよいか。何に似ているか。
7:32 広場に座って、互いに呼びかけ、こう言っている子どもたちに似ている。/『笛を吹いたのに/踊ってくれなかった。/弔いの歌を歌ったのに/泣いてくれなかった。』
7:33 洗礼者ヨハネが来て、パンも食べずぶどう酒も飲まずにいると、あなたがたは、『あれは悪霊に取りつかれている』と言い、
7:34 人の子が来て、食べたり飲んだりすると、『見ろ、大食漢で大酒飲みだ。徴税人や罪人の仲間だ』と言う。
7:35 しかし、知恵の正しさは、知恵の子であるすべての者が証明する。」ルカによる福音書 7章18節~35節
メッセージ
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今朝の御言葉には、久しぶりに洗礼者ヨハネが登場します。洗礼者ヨハネについては、第1章にその誕生の予告と誕生が記されていました。父親である祭司ザカリアは、聖霊に満たされて次のように預言しました。「幼子よ、あなたはいと高き方の預言者と呼ばれる。主に先立って行き、その道を備え/主の民に罪の赦しによる救いを知らせるからである」(1:76)。このザカリアの預言のとおり、洗礼者ヨハネは、およそ30歳になったとき、荒れ野で「罪の赦しを得させるための悔い改めの洗礼」を宣べ伝えたのです(3:3)。ヨハネは、自分の後から来られる力ある方を迎える備えとして、悔い改めの洗礼を受けるようにと人々に宣べ伝えたのです。しかし、そのヨハネをガリラヤの領主ヘロデ・アンティパスは捕らえて、牢に閉じ込めてしまいました(3:19参照)。そして、今朝の御言葉でも、ヨハネは牢に閉じ込められたままであるのです。ヨハネの弟子たちは、これらのこと(イエス様が百人隊長の僕を癒されたことやナインのやもめの一人息子を生き返らせたこと)を、牢に閉じ込められているヨハネに伝えました。そこで、ヨハネは二人の弟子を主イエスのもとに送り、「来たるべき方は、あなたですか。それとも、ほかの方を待つべきでしょうか」と尋ねさせました。ヨハネが二人の弟子を遣わしたことは、ヨハネが事実を知りたかったことを表しています。モーセの律法によれば、二人または三人の一致した証言は真実であると見なされていたからです(申命19:15参照)。「来るべき方は、あなたですか。それとも、ほかの方を待つべきでしょうか」。この質問から推測できることは、ヨハネが自分の後から来られる力ある方がイエス様であると確信していなかったということです(少なくともルカ福音書においては)。それは、ヨハネが思い描いていた来るべき方(メシア)と噂で聞いたイエス様のお姿がかけ離れていたからです。ヨハネが荒れ野で宣べ伝えたメシア、来るべき方は、聖霊と火で洗礼を授ける御方であり、麦打ち場を掃き清め、麦は倉に納めて、殻を消えない火で焼き尽くす裁き主でありました。ヨハネが宣べ伝えたメシアは、主の日の裁きをもたらすメシアであったのです(マラキ3:19~24参照)。しかし、噂で聞いたイエス様のお姿は違うわけです。それで、ヨハネは二人の弟子を遣わして、イエス様に直接、尋ねることにしたのです。
二人の弟子は、イエス様のもとに来てこう言います。「私たちは洗礼者ヨハネからの使いの者ですが、『来るべき方は、あなたですか。それとも、ほかの方を待つべきでしょうか。』とお尋ねするようにとのことです」。そのとき、イエス様は、病気や苦しみや悪霊に悩んでいる大勢の人を癒やし、大勢の目の見えない人を見えるようにしていました。それで、こうお答えになるのです。「行って、見聞きしたことをヨハネに伝えなさい。目の見えない人は見え、足の不自由な人は歩き、規定の病を患っている人は清められ、耳の聞こえない人は聞こえ、死者は生き返り、貧しい人は福音を告げ知らされている。私につまずかない人は幸いである」。ここでイエス様がなされていることは、『イザヤ書』に預言されていたことであります。『イザヤ書』の第35章6節に次のように記されています。「その時、見えない人の目は開かれ/聞こえない人の耳は開かれる。その時、歩けない人は鹿のように跳びはね/口の利けない人の舌は歓声を上げる。荒れ野に水が/砂漠にも流れが湧き出る」。この預言を成就する御方として、イエス様は、目の見えない人を見えるようにし、足の不自由な人を歩けるようにしていたのです。
また、『イザヤ書』の第26章19節には、次のように記されています。「あなたの死者は生き返り/私の屍は立ち上がります。塵の中に住む者よ、目覚めよ、喜び歌え。あなたの露は光の露/地は死者の霊に命を与えます」。この預言を成就する御方として、イエス様は、死者たちを生き返らせたのです。
さらに、『イザヤ書』の第61章1節には、次のように記されています。「主なる神の霊が私に臨んだ。主が私に油を注いだからである。苦しむ人に良い知らせを伝えるために/主が私を遣わされた。心の打ち砕かれた人を包み/捕らわれ人に自由を/つながれている人に解放を告げるために」。この御言葉は、イエス様がナザレの会堂で読んだ御言葉であります。イエス様は、預言者イザヤの巻物を朗読して、「この聖書の言葉は、今日、あなたがたが耳にしたとき、実現した」と語り出しました(4:21)。そのようにして、イエス様はメシアの就任説教をされたのです。イエス様は、主に遣わされた油注がれた王、メシアとして貧しい人々に福音を告げ知らせたのです。
このような『イザヤ書』の預言を背景にするとき、イエス様こそ、聖書が預言していた来るべき方、メシアであることが分かるのです。「来るべき方はあなたですか」と問うヨハネに対して、イエス様は、「イザヤの預言に照らして、私のことを見てごらん。そうすれば、私が来たるべき方、メシアであることが分かる」と言われたのです。
続けてイエス様は、「私につまずかない人は幸いである」と言われました。「つまずく」とは「信じないこと」あるいは「信じることをやめてしまうこと」を意味します。ヨハネは、イエス様が、自分の後から来る力ある御方なのかどうか分からなくなっていました。ヨハネの信仰は揺らいでいたのです。そのようなヨハネに、イエス様は、『イザヤ書』の預言から自分のことを理解するように。そして、自分につまずかないようにと言われるのです。つまり、「私こそ、あなたが告げ知らせていた、来たるべき者である」とイエス様は言われたのです。そして、これこそ、ヨハネにとっての福音(良き知らせ)であったのです。ヨハネは、神様から与えられた使命をしっかりと果たしたのです。そのことは、イエス様のもとにいた群衆がかつてヨハネから洗礼を受けた者たちであったことからも分かります。ヨハネの使命は、「整えられた民を主のために備える」ことでありました(1:17)。イエス様のもとにいた群衆は、ヨハネから洗礼を受けた者たちであり、主のために整えられた民であったのです。
ヨハネの使いが去ってから、イエス様は、群衆に向かってヨハネについて話し始められます。「あなたがたは、何を見に荒れ野へ出て行ったのか。風にそよぐ葦か。では、何を見に荒れ野に行ったのか。柔らかい衣をまとった人か。華やかな衣を着て、贅沢に暮らす人なら宮殿にいる。では、何を見に行ったのか。預言者か。そうだ。言っておく。預言者以上の者である。『見よ、私はあなたより先に使者を遣わす。彼はあなたの前に道を整える』と書いてあるのは、この人のことだ。言っておくが、およそ女から生まれた者のうち、ヨハネより偉大な者はいない。しかし、神の国で最も小さな者でも、彼よりは偉大である。」
イエス様は、洗礼者ヨハネのことを「預言者である。いや、預言者以上の者である」と言われます。イエス様がヨハネのことを「預言者以上の者」と言われるのは、ヨハネのことが聖書に預言されていたからです。「見よ、私はあなたより先に使者を遣わす。彼はあなたの前に道を整える」。この御言葉は、『マラキ書』の第3章1節からの引用であります(出エジプト23:20も参照)。ここでの「あなたは」は、メシアであり、主であるイエス様のことです。ヨハネは、メシアであり、主であるイエス様の前に道を整えるために遣わされた使者であるのです。
イエス様は、「言っておくが、およそ女から生まれた者のうち、ヨハネより偉大な者はいない。しかし、神の国で最も小さな者でも、彼よりは偉大である」と言われました。ここでの「偉大な者」は「大きい者」と訳すことができます。ヨハネは、イエス・キリストの前に遣わされて、その道を整えるという大きな恵みにあずかりました。それは他の預言者たちと比べれば、より大きな恵みです。しかし、イエス・キリストにおいて到来した神の国(神の王的支配)に生きている小さな者でも、ヨハネより大きな恵みに預かっているのです。「神の国の最も小さな者」とは、イエス・キリストを信じている私たちのことです。私たちは、イエス・キリストにあってすべての罪を赦され、正しい者、神の子とされています。聖霊と御言葉によって、イエス・キリストと父なる神にお会いすることができる大きな恵みを与えられているのです。洗礼者ヨハネは、他の預言者よりも、大きな恵みを神様からいただきました。そのヨハネよりもイエス・キリストを信じる私たちは、大きな恵みをいただいているのです。
続けてイエス様はこう言われます。「民衆は皆ヨハネの教えを聞き、徴税人さえもその洗礼を受け、神の正しさを認めた。しかし、ファリサイ派の人々や律法の専門家たちは、彼から洗礼を受けないで、自分に対する神の御心を拒んだ。今の時代の人たちは何にたとえたらよいか。何に似ているか。広場に座って、互いに呼びかけ、こう言っている子どもたちに似ている。『笛を吹いたのに/踊ってくれなかった。弔いの歌を歌ったのに/泣いてくれなかった。』洗礼者ヨハネが来て、パンも食べずぶどう酒も飲まずにいると、あなたがたは、『あれは悪霊に取りつかれている』と言い、人の子が来て、食べたり飲んだりすると、『見よ、大食漢で大酒飲みだ。徴税人や罪人の仲間だ』と言う。しかし、知恵の正しさは、知恵の子であるすべての者が証明する。」
預言者以上の者であるヨハネのもとに来て、彼から洗礼を受けたのは民衆であり、徴税人でありました。宗教的な指導者たち、ファリサイ派の人々や律法の専門家たちは、ヨハネから洗礼を受けなかったのです。ここでイエス様は、ヨハネから洗礼を受けたことを「神の正しさを認めた」と言います。他方、ヨハネから洗礼を受けなかったことを「自分に対する神の御心を拒んだ」と言います。それは、聖書に預言されていた神の救いの計画が、メシアであり、主であるイエス様の前に、洗礼者ヨハネを遣わし、悔い改めの洗礼を授けて、その民を備えることであったからです。神の御心は、そのようにして、主のために民を整えることであったのです。しかし、ファリサイ派の人々や律法学者たちは、ヨハネから洗礼を受けることなく、自分に対する神の御心を拒みました。そして今も、イエス様を受け入れないことによって、神の御心を拒み続けているのです。そのような彼らをイエス様は、広場に座って、互いに呼びかけている子供たちに譬えます。「互いに呼びかけている」とありますから、二つのグループがあるようです。一つのグループは、「笛を吹いたのに、踊ってくれなかった」と不平を言います。もう一つのグループは、「弔いの歌を歌ったのに、泣いてくれなかった」と不平を言います。一つのグループは結婚式ごっこをしようと呼びかけ、もう一つのグループは葬式ごっこをしようと呼びかけている。つまり、この子供たちは一緒に遊ぶつもりはないのです。この子供たちと、ファリサイ派の人々と律法学者たちは似ていると、イエス様は言うのです。洗礼者ヨハネが来て、パンも食べずぶどう酒も飲まずにいると、「あれは悪霊に取りつかれている」と言って、ヨハネを受け入れない。また、イエス様が来て、食べたり飲んだりすると、「見ろ、大食漢で大酒飲みだ。徴税人や罪人の仲間だ」と言って、イエス様を受け入れない(申命21:20参照)。ファリサイ派の人々や律法学者たちは、なんだかんだと理由をつけて、自分に対する神の御心を拒むのです。彼らだけではありません。33節をよく読むと、「あなたがたは」と記されています。洗礼者ヨハネを受け入れること、イエス・キリストを受け入れることは、今、御言葉を聞いている「私たち」の問題であるのです。
ファリサイ派の人々や律法学者たちは、なんだかんだと理由をつけて、洗礼者ヨハネとイエス様を受け入れませんでした。しかし、受け入れる人々がいるのです。それが、「知恵の子」であります。「しかし、知恵の正しさは、知恵の子であるすべての者が証明する」。ここでの「知恵の正しさ」とは「神の救いの計画の正しさ」のことです。神の救いの計画は、旧約の預言者たちによって来たるべき方、メシアについて預言すること。メシアの出現の前に、使者を遣わして、主のために民を整えること。そして、メシアによって救いを実現し、その民によって、良き知らせを全世界の人々に宣べ伝えることであるのです。私たちは、イエス・キリストが復活された週の初めの日ごとに集まって、礼拝をささげています。そのようにして、私たちはイエス・キリストの福音を宣べ伝えているのです。それは、神の救いの計画の実現であるのです(神の救いの計画は今も進行中である。その完成はイエス・キリストの再臨によってもたらされる)。私たちは、週の初めの日ごとに、イエス・キリストの御名によって集い、礼拝をささげることによって、神の知恵の正しさを証明しているのです。