もう泣かなくともよい 2025年3月23日(日曜 朝の礼拝)
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もう泣かなくともよい
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- 村田寿和 牧師
- 聖書
ルカによる福音書 7章11節~17節
聖書の言葉
7:11 それから間もなく、イエスはナインという町に行かれた。弟子たちや大勢の群衆も一緒であった。
7:12 イエスが町の門に近づかれると、ちょうど、ある母親の一人息子が死んで、担ぎ出されるところであった。母親はやもめであって、町の人が大勢そばに付き添っていた。
7:13 主はこの母親を見て、憐れに思い、「もう泣かなくともよい」と言われた。
7:14 そして、近寄って棺に触れられると、担いでいた人たちは立ち止まった。イエスは、「若者よ、あなたに言う。起きなさい」と言われた。
7:15 すると、その死人は起き上がってものを言い始めた。イエスは息子を母親にお渡しになった。
7:16 人々は皆恐れを抱き、「偉大な預言者が我々の間に現れた」と言い、また、「神はその民を顧みてくださった」と言って、神を崇めた。
7:17 イエスについてのこの話は、ユダヤ全土と周りの地方一帯に広まった。ルカによる福音書 7章11節~17節
メッセージ
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前回(3月9日)私たちは、イエス様が百人隊長の僕を癒されたお話を学びました。病気で死にかけていた百人隊長の僕がイエス様の権威ある言葉によって元気になったことを学んだのであります。続く今朝の御言葉には、イエス様がやもめの一人息子を生き返らせたお話が記されています。
それから間もなくして、イエス様はナインという町に行かれました。弟子たちや大勢の群衆も一緒でした。ナインは南ガリラヤにある町です。イエス様が町の門に近づかれると、ちょうど、ある母親の一人息子が死んで、担ぎ出されるところでした。死は宗教的な穢れと見なされていましたから、お墓は町の外にあったのです(レビ11:24参照)。この母親はやもめでした。やもめとは、夫を失った女性のことです。この母親は夫を亡くしたばかりでなく、愛する一人息子をも亡くしてしまったのです。当時、紀元1世紀のユダヤにおいて、葬りは死んだその日に行われました。今のように、ドライアイスやエアコンがあるわけではありませんから、死んだその日に墓に葬られたのです。この母親は愛する一人息子を亡くしたばかりであったのです。この母親にできること、それはただ泣くことだけでした。町の人たちは、彼女のことを気の毒に思ったのでしょう。大勢の人がそばに付き添っていました。
イエス様は弟子たちや大勢の群衆と一緒に、ナインの町の門から入ろうしていました。すると向こうから死者を葬るための人々がやって来ました。私たちなら、どうするでしょうか。道の脇に寄って、葬儀の列が通り過ぎるのを待つのではないでしょうか。しかし、イエス様はこの葬儀の列と正面から向かい合います。13節にこう記されています。「主はこの母親を見て、憐れに思い、『もう泣かなくともよい』と言われた」。ここで「主」と言われていることに注意したいと思います。福音書記者ルカは「イエスは」とは記さずに「主(キュリオス)は」と記しました。これは時代錯誤、異なる時代のものを混同する誤りのように思えます。と言いますのも、イエス様が、メシア、主とされたのは、十字架の死から復活されて、天に昇り、父なる神の右の座に着くことによってであるからです。『使徒言行録』の第2章に、イエス様の弟子たちに約束の聖霊が降ったこと。聖霊を受けたペトロが11人と一緒に立ち上がって、説教したことが記されています。その説教の結びで、ペトロはこう言うのです。「だから、イスラエルの家はみな、はっきりと知らなくてはなりません。あなたがたが十字架につけたこのイエスを、神は主とし、またメシアとなさったのです」。これ以降、イエス様は主、メシアと呼ばれるようになります。使徒パウロの手紙を読むと「主イエス・キリスト」という言葉が何度も記されています。そのような信仰が、ここに現れているわけです。イエス様が活動されたのは、紀元30年頃のことです。しかし、福音書記者ルカがいろいろな資料を用いて、この福音書を記したのは、紀元80年頃です。紀元80年頃の教会では、主イエス・キリストという言い方がされていたし、イエスは主であり、メシア(キリスト)であると信じられていました。もちろん、福音書記者ルカも主イエス・キリストを信じているわけです。そのような信仰が、ここに顔を出しているのです。主イエスはこの母親を見て、憐れに思いました。この「憐れに思う」と訳されている言葉(スプランクニゾマイ)は、「腸(はらわた)がちぎれる思いに駆られる」とも訳せます。イエス様は、ただ「かわいそうだなぁ」と思われたのではなく、腸(はらわた)がちぎれるほどの思いに駆られたのです。そのような憐れみの心から、主イエスは、「もう泣かなくともよい」と言われます。これは驚くべき言葉ですね。主イエスは、「泣きたいだけ泣きなさい」と言われたのではなく、「もう泣かなくともよい」「泣き続けるのはやめなさい」と言われたのです。そして、主イエスは、近寄って棺に触れて、死者を葬ろうとしている人々の足を止められるのです。主イエスは、「若者よ、あなたに言う。起きなさい」と言われます。すると、死人は起き上がってものを言い始めたのです。キリスト教の葬儀において、死者に対して語りかけることは禁じられています。それは、『申命記』の第18章で、「死者に伺いを立てる」ことが禁じられているからです(申命18:9〜12参照)。死んだ人の魂は、神様のもとにあるのであり、私たちの言葉が届かないところにあるのです。しかし、イエス様の言葉は届くのです。イエス様の言葉は、死者をも従わせる権威ある言葉であるのです。イエス様の言葉は死者に命を与える言葉、神の言葉であるのです。
イエス様は、死んでいた息子を生き返らせて、母親にお渡しになりました。このようにして、イエス様は、母親がもう泣かなくともいいようにしてくださったのです。このようにして、イエス様は、母親を救ってくださったのです。やもめである母親にとって、一人息子は心の支えであり、また、経済的な支えでありました。当時は、年金のような社会保障制度はありませんし、女性が働く場所もありませんでした。やもめである母親にとって、一人息子を生き返らせていただいたことは、まさしく救いであったのです。今朝の御言葉で注意したいことは、 母親のほうから、イエス様に、「私を憐れんで、息子を生き返らせてください」と願ったのではないということです。イエス様のほうから、一方的に、母親を見て、憐れに思い、息子を生き返らせてくださったのです。このことから分かることは、主イエスは、私たち一人一人に目を注いでくださり、私たちを憐れんでくださり、私たちに必要な助けを与えてくださるということです。父なる神が、私たちが願う前から私たちに必要なものをご存知であるように、主イエス・キリストも、私たちに必要な助けが何であるかをご存知であるのです(マタイ6:8参照)。
イエス様は死んでいた息子を生き返らせて、母親にお渡しになりました。そのことを見た人々は皆、恐れを抱き、「偉大な預言者が我々の間に現れた」と言い、また、「神はその民を顧みてくださった」と言って、神を崇めました。このとき、人々が思い起こしていたのは、サレプタのやもめの一人息子を生き返らせた預言者エリヤのことだと思います。今朝は、聖書朗読として、『列王記上』の第17章も読みました。そこには、預言者エリヤが、サレプタのやもめの一人息子を生き返らせたお話が記されています。人々は、「エリヤのような偉大な預言者が我々の間に現れた」と言い、「神はエリヤのような偉大な預言者を遣わすことによって、その民を顧みてくださった」と言ったのです。確かに、サレプタのやもめの一人息子を生き返らせたエリヤのように、イエス様は、ナインのやもめの一人息子を生き返らせました。しかし、イエス様は、エリヤよりも偉大な預言者であります。「偉大な預言者」と言うよりも「主なる神」その方であるのです。そのことは、若者をどのようにして生き返らせたかを比較するとよく分かります。『列王記上』の第17章17節から24節の途中までをお読みします。旧約の548ページです。
これらの出来事の後、この家の女主人の息子が病気になった。病気は大変重く、その子はついに息絶えた。彼女はエリヤに言った。「神の人、あなたは私と何の関わりがあるというのですか。あなたは私の過ちを思い起こさせ、息子を死なせるために来られたのですか。」しかしエリヤは、「子どもを私によこしなさい」と言って、彼女の懐から息子を受け取り、自分が泊まっている階上の部屋に抱いて上がり、寝台に寝かせた。そして主に叫んだ。「わが神、主よ、私が身を寄せているこのやもめにまで災いをもたらし、その子を死なせるおつもりですか。」彼は子どもの上に三度身を重ね、主に叫んだ。「わが神、主よ、どうかこの子の命を元に戻してください。」主はエリヤの願いを聞き入れ、その子の命を元に戻されたので、その子は生き返った。エリヤはその子を抱いて階上の部屋から降りて家の中に入り、その子を母に渡した。彼女はエリヤに言った。「あなたが神の人であることが、たった今分かりました。あなたの口にある主の言葉は真実です。」
ここでエリヤは、「わが神、主よ、どうかこの子の命を元に戻してください」と叫んでいます。そして、主はそのエリヤの祈りを聞き入れてくださり、その子の命を元に戻されたのです。それに対して、イエス様は、死んでいた息子に、「若者よ、あなたに言う。起きなさい」と直接命じて、生き返らせたのです。このことは、イエス様こそ、死者に命を与える主なる神であることを教えているのです。エリヤは、「わが神、主よ、どうかこの子の命を元に戻してください」と祈りましたが、その「主」こそ、イエス様であるのです。
今朝の御言葉に戻ります。新約の114ページです。
人々は皆、恐れを抱き、「偉大な預言者が我々の間に現れた」と言いました。ここで「現れた」と訳されている言葉(エゲイロー)は「復活した」とも訳せます。「偉大な預言者が我々の間に現れた」という言葉は、「偉大な預言者が我々の間で復活した」とも訳せるのです。そのような言葉使いを、福音書記者ルカはしているのです。それは、福音書記者ルカが、イエス様がやもめの一人息子を生き返らせた力ある業に、イエス様の復活の前触れを見ているからです。言い方を変えると、福音書記者ルカは、主イエス・キリストの復活の光の中で、今朝の御言葉を記しているのです。主イエスは、一人息子を亡くした母親を見て、憐れに思い、「もう泣かなくともよい」と言われました。そのイエス様が、今朝、私たちにも、「もう泣かなくともよい」と言ってくださるのです。主イエス・キリストは、死者の中から栄光の体で復活された御方として、また、御自分を信じる者たちを栄光の体で復活させてくださる御方として、「もう泣かなくともよい」と言われるのです。また、主イエス・キリストがおられる天国で愛する者と再会できるゆえに、「もう泣かなくともよい」と言われるのです。さらには、終わりの日に復活して、天から再び来られる主イエス・キリストを一緒に迎えることができるゆえに、「もう泣かなくともよい」と言われるのです(一テサロニケ4:13~18参照)。
このように聞くと、イエス・キリストへの信仰を公にしないで亡くなった家族はどうなるのだろうかと心配になると思います。しかしそのような場合でも、「もう泣かなくともよい」という主イエス・キリストの御言葉を、私たちは信仰をもって受け入れたいと願います。「主イエスを信じなさい。そうすれば、あなたも家族も救われます」という御言葉を信じて、私たちは、愛する者の魂を、憐れみ深い主イエス・キリストの御手に委ねたいと願います(使徒16:31)。